第十九話 雪江、正しい悔しさを知る
その日の朝は、雨の匂いがした。
まだ降ってはいない。
けれど、障子の向こうを渡る空気には、土を湿らせる前の重さがある。
大奥の中にいても、そういう季節の気配は、花と香のあいだからちゃんと忍び込んでくるのだと、最近ようやくわかるようになった。
わたしは帯を締めながら、その匂いを吸いこんだ。
胸の内には、昨日までの疲れがまだ薄く残っている。
新しい持ち場。
新しい敵意。
正しく置かれた花器。
綾姫さまの冷えた微笑。
おまさどのの「よく考えました」という言葉。
ひとつひとつは小さなことに見えて、どれも確かにわたしを昨日までとは違うところへ運んでいた。
雪江は、今朝はいつもより早く支度を終えていた。
髪もきっちり整い、帯の形も乱れがない。けれど、どこか落ち着かぬ気配がある。
お絹はまだ眠たげな顔で襟元を整えているが、その視線は何度も雪江のほうへ向いていた。
「雪江、今日は少し早いのね」
わたしがそう声をかけると、雪江は鏡代わりの金具から目を離さずに答えた。
「眠れなかったの」
「何かあった?」
「別に」
その返しが、いかにも“別にではない”時のものだった。
わたしはそれ以上問わず、静かに紐を結び直した。
大奥では、人に踏み込みすぎぬことも大切だ。
だが、同室でここまで長く過ごしていれば、雪江の“別に”にもいくつか種類があることくらいはわかる。
今朝のそれは、不機嫌ではなく、何かを胸の奥で噛みしめているときの“別に”だった。
朝の割り振りはいつも通り進んだ。
わたしは上役女中補佐に近い持ち場へ。
お絹は下の雑用の手伝いへ。
そして雪江は、今日は少しだけ上の控えに近いところで、布や香具の受け渡し補助を任されるらしかった。
名前を呼ばれたとき、雪江の指先がほんの少しだけ強くなったのを、わたしは見逃さなかった。
なるほど、と思う。
これは緊張だけではない。
嬉しさもある。
そして、たぶんその嬉しさが、別の何かと混ざって雪江の胸を重くしているのだ。
午前のあいだ、わたしは自分の持ち場に追われた。
おまさどのの指示で花器の位置を見直し、香炉の灰を整え、春日局さま付きの女中が行き来する控えの場の空気を静かに保つ。
その合間にも、綾姫さま付きの侍女たちの視線は相変わらず細く刺さる。
だが今日は、その刺さり方の奥に別のことが引っかかっていた。
雪江のことだ。
昼前、布の受け渡しでたまたま同じ廊下を通ったとき、遠くに雪江の姿が見えた。
背筋をまっすぐに伸ばし、年長の女中の前で膝を折っている。
そこまではよい。
だが、その立ち方に、少しだけ固さがあった。
気負っている。
そして、その気負いを本人もわかっていて、余計に身体が硬くなっている。
わたしにはそう見えた。
そのとき、雪江の前にいた女中が何かを言い、雪江が小さく頭を下げた。
遠くて言葉は聞こえない。
けれど、叱られたのではない。むしろ“もう少し気を抜きなさい”といった種類の注意に見えた。
わたしはその場を通り過ぎながら、胸の内で少しだけざわついた。
雪江は器用だ。
言葉も頭も回る。
だから、少し手を伸ばせば届く位置に自分もいるのだと、ちゃんとわかっている。
それだけに、自分の立ち方が定まらぬことが、余計に悔しいのかもしれなかった。
休憩に入ったのは、いつもより少し遅い刻だった。
お絹は先に来ていて、わたしの顔を見るとほっとしたように息をついた。
「きょ、今日は少し遅かったですね」
「ええ。花器の差し替えがひとつ入って」
「そうでしたか……」
そう答えたところへ、雪江が入ってきた。
顔色は悪くない。
けれど、妙に無口だった。
「雪江」
「なに」
「だいじょうぶ?」
「だから何が」
やはり、その返しである。
お絹がびくっと肩をすくめたので、わたしはそれ以上すぐには追わなかった。
膳が運ばれ、三人で向かい合って座る。
しばらくは、汁の湯気だけがあいだに立った。
やがて、雪江が箸を置いた。
「……ねえ、志乃」
「うん」
「あなた、最近ずるいと思う」
あまりにまっすぐな言い方で、わたしは思わず箸を止めた。
お絹は目を丸くして、わたしたちを交互に見ている。
「ずるい?」
「ええ、ずるい」
雪江はわたしを見ずに言った。
「最初は、ただ泣きそうな顔してる田舎娘みたいだったのに」
「ひどい」
「ひどいけど本当でしょう」
「……うん」
「それがいつの間にか、春日局さまのお目に留まって、将軍さまにまで声をかけられて、上の持ち場に近づいて」
そこで、雪江はようやくわたしを見た。
「わたし、悔しいの」
その一言は、綾姫さまたちの冷えた棘とは、まったく違う温度を持っていた。
嫌味ではない。
突き放すためでもない。
ただ、本当に、胸の内にあるものをそのまま差し出している。
「……うん」
わたしは静かに頷いた。
「そうだろうと思ってた」
「思ってたの」
「少しだけ」
「なら、もっと早く言えばよかった」
「言われるまで待とうと思って」
「なによ、それ」
雪江がようやく小さく笑う。
でもその笑みの奥で、まだ何かがつかえているのがわかった。
「悔しいのは、あなたが嫌いだからじゃない」
雪江はゆっくりと言葉を置く。
「あなたが取ったものだってわかってるからよ」
「……」
「ただ運がよかっただけなら、ここまで悔しくない。あなたが見て、覚えて、怖くてもちゃんと立って、少しずつ前へ出たから、悔しいの」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥がじんと熱くなった。
雪江は続ける。
「でも、悔しいってことは、わたしも本当は欲しいってことなのよね」
「欲しい?」
「ええ」
雪江の目はまっすぐだった。
「このまま下の雑務で終わりたくない。わたしだって、もう少し上を見たい。見上げるだけじゃなくて、手を伸ばしたい」
それは告白だった。
恋の告白ではない。
けれど、大奥で生きる娘にとっては、それに近いほど深い本音だった。
お絹が小さく息を呑む。
「雪江さん……」
「ごめんね、お絹。怖がらせた?」
「い、いえ……でも、すごいです」
「何が」
「そんなふうに、ちゃんと“悔しい”って言えるの」
お絹は両手を膝の上で握りしめる。
「わたし、たぶん、自分が何を悔しいと思ってるのかも、まだよくわからないから」
雪江は少しだけ目を和らげた。
「それは、お絹が悪いんじゃないわ。怖いほうが先に来るもの」
「うん……」
「わたしだって、志乃がただ嫌いなら楽だった」
そう言って、今度はわたしを真っすぐ見る。
「でも、違う。羨ましいし、悔しいし、でも、応援したくないわけでもない。こういうの、面倒ね」
「……うん」
「大奥って、ほんとうに面倒」
「うん」
わたしは笑ってしまった。
その笑いがこぼれた瞬間、胸のつかえも少し軽くなる。
「雪江」
「なに」
「ありがとう」
「だから礼を言われる話じゃ」
「ううん」
わたしは首を振る。
「綾姫さまたちの目は、いつも冷たい。見下ろしたり、押し返そうとしたり、そういう目ばかり」
「……」
「でも、雪江の悔しさは違う」
言いながら、自分の中でもその違いがはっきりしてくる。
「雪江は、わたしを落としたいから悔しいんじゃない」
「当たり前でしょう」
「自分も立ちたいから、悔しいんだよね」
雪江は少しだけ黙ってから、ふっと息を吐いた。
「……そうよ」
「それって、たぶん正しい悔しさなんだと思う」
その言葉に、雪江の目がわずかに揺れた。
「正しい悔しさ?」
「うん」
「そんなものがあるの?」
「あると思う」
わたしは箸を置いた。
「人を引きずり落としたい悔しさと、自分もそこへ行きたい悔しさは、似てるようで違うから」
雪江はしばらくわたしを見て、それからくすっと笑った。
「……やっぱり、あなた最近ずるいわ」
「どうして」
「そういうことを、ちゃんと言葉にするから」
「雪江が言ったから、わかったの」
「そういう返しがずるいのよ」
そのあと、三人のあいだに流れる空気は、少しだけ変わった。
前よりも近い。
けれど、ただ甘くなったわけではない。
むしろ、お互いが抱えているものの輪郭が少しはっきり見えたぶん、変に綺麗ごとでは済まなくなった気もした。
休憩の終わり際、雪江が急に真面目な顔になった。
「志乃」
「なに」
「気をつけて」
「うん」
「綾姫さまたち、次はあなたの“人間関係”を崩しに来るかもしれない」
その言葉に、わたしは眉を寄せた。
「人間関係?」
「ええ。物を動かすだけじゃ足りないとわかってきたら、次は“あの娘と関わると面倒”って空気を作る」
雪江は指先で膝をとんとんと叩く。
「たとえば、お絹を巻き込む。あるいは、わたしみたいな同室の娘に余計なことを吹きこむ」
「……」
「あなたが一人で耐えているだけでは済まなくなる」
その指摘は、胸に重く落ちた。
綾姫さまたちがやってきたことを思えば、十分ありうる。
午後の仕事へ戻ってからも、雪江のその言葉が頭を離れなかった。
人間関係を崩す。
それはたしかに、物を動かされるより厄介だ。
帳面や小皿なら、自分の目と手で守れる。
けれど、人の心まではそう簡単に囲えない。
上役女中の補佐としての仕事をしながらも、わたしは今日いつも以上に周囲の会話へ耳を向けた。
もちろん、あからさまに聞き耳を立てるわけではない。
ただ、廊下の曲がり角、控えの間の前、襖の向こうに消えていく声の温度を、意識して拾う。
すると、たしかにあった。
「最近、志乃さんと同じ部屋の方たち、大変でしょうね」
「ええ、何かと目立って」
「付き合う相手は選ばないと」
「まあ……」
笑いながら、しかしきっちり意味を残す言い方。
名前を傷つけるのではなく、“その娘と近い者まで面倒になる”という空気を作ろうとしている。
雪江の言った通りだ。
胸の奥が、少し冷たくなる。
わたしひとりが耐えればいい話ではなくなってきている。
そのとき、不意におまさどのの声が飛んだ。
「志乃」
「はい」
「手が止まっています」
「申し訳ございません」
「考えごとをするなら、手は動かしながらなさい」
叱られている。
だが、その叱り方は、感情ではなく仕事の筋としてのものだ。
「はい」
「それとも、その考えごと自体が仕事に関わることなら、あとで言いなさい」
わたしは一瞬迷ったが、言うことにした。
「……先ほど、廊下で少し」
「何を」
「わたくしと同室の娘たちへも、噂の余波が及びそうな言い方を耳にしました」
おまさどのは花器を見たまま、表情を変えない。
「そう」
「わたくしひとりのことでは済まなくなるかと」
「やっとそこへ気づいたの」
「……はい」
「遅くはないわ」
おまさどのはそこで初めてこちらを見た。
「上へ近づく娘が最初に失うのは、物より先に“周りの平穏”です」
「……」
「ですから、周りを守るつもりで、自分の動きをもっと整えなさい」
「はい」
「そして、巻き込みたくない相手ほど、曖昧なままにしてはいけません」
その言葉が、すうっと胸へ入る。
「曖昧なまま」
「ええ。あなたが黙って一人で抱えると、周りは余計に不安になる」
「……その通りです」
「なら、せめて同室の娘たちには、“何が起きうるか”を見せなさい。守るのではなく、備えさせるの」
「はい」
その日の仕事を終えて部屋へ戻ると、雪江とお絹はすでにいた。
わたしは帯をゆるめる前に、二人へ向き直った。
「話したいことがあるの」
雪江がすぐに顔を上げる。
「何」
「たぶん、これからわたしのことで、二人にも変なことを言ってくる人が増える」
お絹がびくっとする。
「や、やっぱり……」
「うん。でも、怖がらせたいわけじゃない」
わたしは言葉を選んだ。
「ただ、何か言われても、すぐに信じたり、ひとりで抱えたりしないでほしい」
「……」
「わたしのことでも、二人のことでも。変だと思ったら、ちゃんと話してほしい」
雪江はじっとわたしを見ていた。
それから、ふっと口元を緩める。
「やっと人を巻き込む覚悟ができたのね」
「巻き込みたいわけじゃない」
「でも、もうそういう段階でしょう」
雪江は肩をすくめる。
「一人で片づけられるなら、そのほうが楽だった。でももう無理」
「……うん」
「だったら、最初から味方を味方のままにしておくほうがいい」
お絹も、怯えながらも頷いた。
「わ、わたし、怖いですけど……でも、何かあったら言います」
「ありがとう」
「雪江さんも、わたしも、ちゃんと聞きます」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
夜、布団へ入って目を閉じると、昼の雪江の言葉が何度も浮かんだ。
悔しい。
でも、それは人を引きずり落としたい悔しさではない。
自分もそこへ立ちたい悔しさ。
綾姫さまたちの敵意とは違う、その悔しさの形を知れたことは、今日のわたしにとって大きかった。
大奥の女たちは、みな同じように微笑んでいるようで、その内側にある火の色はまるで違う。
それを見分けられねば、ただ全部を怖がることになる。
でも今は、少しだけ違いが見え始めている。
雪江の悔しさは、わたしを押し下げたい火ではない。
自分もまた、前へ出たいという火だ。
それなら、きっと隣で燃やしていても怖くない。
布団の中で、わたしは胸の上へそっと手を置いた。
大奥は、敵意ばかりの場所ではない。
でも、やさしさだけで生きられる場所でもない。
悔しさも、羨ましさも、友情も、打算も、ぜんぶが同じ廊下の上に並んでいる。
その中で、誰の悔しさが自分を押しつぶすもので、誰の悔しさが自分を奮い立たせるものか。
それを見分けることもまた、この花の檻で生きるために必要な目なのだろう。
雨は、結局その夜遅くに降り始めた。
屋根を細く打つ音が、眠りの縁で遠く響く。
その音を聞きながら、わたしは静かに思った。
わたしはひとりで立っているわけではない。
そして、ひとりで立とうとするだけでは、この先きっと足りない。
そう気づけたことが、今日のいちばん大きな変化だった。




