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『日本の後宮・大奥に咲く花――虐げられた娘は将軍家光に見出され、私を嗤った女たちを見返していく』  作者: 御上常陸介寛浩


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第十六話 花の檻で、娘は顔を上げる

夜は、昼よりも真実を隠せない。


 大奥の夜は静かだ。

 廊下を流れる足音は昼より少なく、障子越しの灯りもひとつずつ輪郭を失っていく。

 けれど、だからこそわかることがある。

 昼のあいだ、笑みや礼法や仕事の手つきで覆い隠されていたものが、夜になると衣の裾の重みや、吐く息の長さに滲み出るのだ。


 その夜、わたしはひとり、花の檻の中にいた。


 布団へ入ってもすぐには眠れず、浅い呼吸のまま目を開けていると、どうしても胸の内が落ち着かなかった。

 将軍家光公の一言。

 綾姫さまの冷えた微笑み。

 春日局さまの鋭い目。

 おまさどのの試すような言葉。

 雪江の「もうただの下の娘ではいられない」という声。


 どれもが胸の内に残り、まるで細い糸のように絡まり合っている。

 ほどこうとしても、うまく指にかからない。


 結局、わたしはそっと起き上がった。

 同室の雪江とお絹はもう眠っている。雪江は寝顔まできっぱりしていて、お絹は不安そうな眉を少しだけ寄せたままだった。二人を起こさぬよう静かに衣を整え、部屋の外へ出る。


 許された範囲の、ごく近い庭先。

 昼間ならただの通り道にすぎぬその場所も、夜に出ればまるで別の顔を持つ。

 灯籠の明かりは控えめで、石畳の端だけを淡く照らしていた。庭の木々は黒い影となり、そこに夜気が細く絡みついている。遠くで水の音がした。

 冷えた空気を吸い込むと、ようやく胸の奥が少しだけ広がる。


 江戸城へ上がった日のことを思い出した。


 母と弟を残して家を出た朝。

 まだ寒さの残る空気。

 門の前で振り返るのを二度でやめたこと。

 母の、「生きて帰るより、生き抜きなさい」という言葉。


 あの日のわたしは、ただ怖かった。

 江戸城が。

 大奥が。

 女たちの視線が。

 綾姫さまの微笑が。

 春日局さまの名で空気が変わることが。


 自分はこの場所で、どこまで小さくなれば傷つかずに済むのだろう。

 どうしていれば、笑われるだけで済むのだろう。

 そんなことばかり考えていた気がする。


 けれど、いまは少し違う。


 笑われることよりも、何もせずに奪われることのほうが怖いと知ってしまった。

 帳面も、小皿も、裂地も、香袋も。

 物だけではない。

 評判も、立場も、黙っていれば誰かの都合のよい形へ変えられてしまう。


 大奥は、美しいだけの花の園ではなかった。

 花で飾られた檻だ。

 しかも、その檻は鉄でできているのではない。

 礼法、沈黙、微笑、順序、身分、噂――そうした目に見えぬものが幾重にも絡み合って、人の動ける幅を決めている。

 だからこそ、少しでもそこからはみ出すとすぐに見つかる。


 綾姫さまの顔が脳裏に浮かぶ。


 最初に会ったとき、あの方はわたしを「質素な花」と笑った。

 あれはただの見下しだった。

 けれど今の綾姫さまは、同じように微笑みながらも、そこへ別の色を混ぜている。

 値踏み。

 警戒。

 そして、面白くなさ。


 それは怖いことだ。

 けれど同時に、ひとつの事実でもある。

 わたしはもう、最初の日のようにただ笑われるだけの娘ではないのだ。


 足音がした。


 はっとして振り向くと、そこにいたのは雪江だった。

 羽織を肩へ引っかけ、眠そうでもなく、かといって驚いた顔もしていない。まるで、わたしがここにいるだろうと最初からわかっていたような目つきだった。


「やっぱり」

「雪江」

「いると思った」

「起こしてしまった?」

「勝手に目が覚めただけ」


 雪江はわたしの隣までは来ず、少し離れた灯りの端で立ち止まった。

 その距離が、いかにも彼女らしい。


「眠れない?」

「少し」

「でしょうね」

 雪江は肩をすくめる。

「今日のあとで、けろっと眠れるなら大したものよ」

 わたしは小さく息を吐いた。

「自分でも、どうしてこんなに落ち着かないのかわからない」

「わかってるくせに」

「……」

「将軍さまのひとこと、春日局さまの配置換え、綾姫さまたちの目、全部一度に来たからでしょう」

 雪江はさらりと言う。

「それで落ち着いてるほうがおかしい」


 その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。


「雪江」

「なに」

「悔しい、って言ったでしょう」

「言ったわね」

「あれ、嫌な気持ちにさせてしまったかと思って」

 雪江はきょとんとしたようにわたしを見て、それから軽く笑った。

「そういうところ、本当にまだ甘い」

「甘い?」

「ええ。悔しいなんて、当たり前じゃない」

 彼女は灯りの届く石畳を見ながら言う。

「大奥で、人が少し前へ出たら、周りが何も思わないわけがないもの。綾姫さまたちだってそうでしょう?」

「……」

「でも、あの悔しさは嫌いじゃないわ」

「どうして」

「だって、あなたが自分で取ったものだってわかってるから」

 その一言が、夜気より深く胸へ入った。


「綾姫さまたちのあれは、たぶんあなたを下に置いたまま笑っていたい悔しさ。わたしのは、同じ部屋にいた娘が先に手をかけたことへの悔しさ」

 雪江はわたしを見る。

「似てるようで違うのよ」

「……難しい」

「そうね。でも、その違いがわからないと、たぶんこの先しんどい」


 わたしはしばらく黙っていた。

 庭の木の影が、夜風でわずかに揺れている。

 その動きを見ながら、ぽつりと言った。


「怖いの」

「うん」

「上へ近づいたことが、嬉しくないわけじゃない。でも、その分だけ落ちたときのことも考えてしまう」

「そうでしょうね」

「綾姫さまたちの視線も、前よりずっと冷たい」

「それも当然」

「春日局さまは試しているだけだって言った。将軍さまも、“毒にも薬にもなる”って」

 そこで息を継ぐ。

「だったら、わたしはいま、少し高いところへ置かれただけの花でしかないのかもしれない」


 言ってしまうと、妙に胸が軽くなった。

 その代わり、自分の弱さを自分で見てしまった気もした。


 雪江はすぐには答えなかった。

 少しだけ考えるように目を伏せ、それから言う。


「花、ね」

「うん」

「たしかにそうかも。でも」

「でも?」

「見上げるだけの花だった頃より、よほどましなんじゃない?」

 わたしは思わず雪江を見た。


「だって前のあなた、最初の頃は本当に、ただ笑われて終わる娘だったもの」

「ひどい」

「事実よ」

 雪江は平然としている。

「でも今は違う。綾姫さまに何か言われても、黙って俯くだけじゃない。帳面や裂地の件でも、ちゃんと形を返した。春日局さまの前でも、自分の見たことを言えた」

 彼女は一歩だけ近づく。

「それって、“見上げるだけ”じゃなくなったってことでしょう」


 胸の奥で、何かが静かに動いた。


 見上げるだけでは、なくなった。


 今日一日で何度も感じたことだ。

 けれど、人の口からそう言われると、また違う形で胸へ落ちる。


「でも、上へ近づいたら、風も強くなる」

「なるでしょうね」

「わたし、折れないかな」

「折れるかもしれないわよ」

 雪江はあっさり言った。

「人間だもの」

「……慰める気がない」

「ないわけじゃない」

 雪江は少しだけ笑う。

「ただ、“絶対に大丈夫”なんて言ったら嘘になる」

「うん」

「でもね」

 彼女はいつになくまっすぐな声で続けた。

「折れそうになったとき、最初に泣くだけだったあなたじゃなくて、見て、覚えて、並べて、返そうとするあなたなら、前よりはずっとましに立ち直ると思う」

 その言葉に、喉の奥が熱くなった。


 夜の庭は静かだった。

 遠くで、どこかの襖がそっと閉じる音がした。

 大奥の夜は、こうして誰かの胸の内だけが忙しく、表は何もなかったかのように静かだ。


「雪江」

「なに」

「ありがとう」

「だから、礼を言われるようなことじゃないって」

「でも」

「でも、じゃない」

 雪江はふいと顔を背ける。

「ただ、同室の娘が変なところで折れても困るのよ」

「やっぱり少し優しい」

「うるさい」


 その返しが、なんだかひどくありがたかった。


 雪江が先に部屋へ戻ってからも、わたしは少しだけその場に残った。

 灯籠の明かりが、石の上へ淡く落ちている。

 昼のあいだはただの通り道だったその場所が、いまは妙に広く見えた。


 わたしは、ここへ来た日の自分を思い出す。


 門をくぐったときの息苦しさ。

 綾姫さまに笑われた悔しさ。

 春日局さまの名で空気が変わることへの畏れ。

 何もかもが大きすぎて、ただその場で小さくなっているしかないと思っていた。


 でも、もう違う。


 怖さは消えていない。

 むしろ増しているのかもしれない。

 綾姫さまたちは、これからもっと巧く来るだろう。

 春日局さまの試しも、将軍さまのひとことの余波も、ここから先のほうが重いに違いない。


 それでも、わたしはもう、最初の日のようには俯いていない。


 見て、覚える。

 整える。

 並べる。

 必要なときには、口にする。

 そのひとつひとつが、ようやく自分の中で骨になり始めている気がした。


 花の檻。

 そう思えば、この大奥はたしかに檻だ。

 美しく、息苦しく、油断すればたちまち誰かの形へ押し込められる場所。

 けれど、檻の中にいても、顔を上げることまでは奪われない。


 わたしはそっと空を見た。

 庭の木々のあいだから、夜の色が細く覗いている。

 江戸城の奥深くにいても、空はちゃんとそこにあるのだと思った。


「わたしは、もう俯いては生きません」


 声に出すと、夜気の中へその言葉がすうっと溶けていった。

 誰に聞かせるでもない。

 自分に言い聞かせるための、静かな誓いだった。


 怖くてもいい。

 震えてもいい。

 けれど、顔だけは上げる。

 この花の檻の中で、自分の立つ場所を、自分の目で見て、自分の足で守る。


 それがいまのわたしにできる、たったひとつの戦い方なのだろう。


 夜風が頬を撫でた。

 その冷たさは、思っていたほどつらくなかった。


 部屋へ戻ると、雪江はすでに布団へ入っていたが、起きているらしく小さく言った。

「少しは落ち着いた?」

「うん」

「そう」

「雪江」

「なに」

「わたし、やってみる」

「何を」

「この場所で、ちゃんと立つこと」

 雪江は布団の中でくぐもったように笑った。

「いまさらね」

「そうかもしれない」

「でも、そういうのでいいのよ」


 その言葉を最後に、部屋はまた静かになった。


 わたしは布団へ入り、目を閉じた。

 胸の内には、まだ不安も、恐れも、綾姫さまたちへの警戒も残っている。

 けれど、その底にひとつ、はっきりしたものができていた。


 顔を上げる。

 それだけは、もう手放さない。


 大奥の戦いは、ここから本格的に始まる。

 その予感を胸に抱いたまま、わたしはようやく深く眠りへ落ちていった。

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