第十七話 新しい持ち場、新しい敵意
朝の空気は、昨日までと同じようでいて、もう同じではなかった。
障子越しに差しこむ光の色も、廊下を渡る風の冷たさも、江戸城の奥に流れる静けさも、表向きは何ひとつ変わらない。
それなのに、わたしの胸の内だけが、まるで別の朝を迎えたように落ち着かなかった。
第二章の始まりなどという言葉を、わたしはもちろん知らない。
けれど、昨日までの自分とは少し違う場所に立たされていることだけは、いやというほどわかっていた。
春日局さまに呼ばれ、言葉をいただき、配置を変えられた。
将軍家光公のひとことが、廊下の空気を変えた。
綾姫さまたちの目の色も変わった。
雪江の悔しさも、お絹の不安も、以前とは違う輪郭を持ち始めた。
そして今日から、わたしは本当に、その新しい場所へ入っていく。
帯を締め終えたところで、雪江がちらりとこちらを見た。
「眠れた?」
「少しだけ」
「充分じゃない」
雪江は肩をすくめる。
「わたしなら一睡もできないわ」
「雪江は、そういうところで妙に強いから」
「強くないわよ。ただ、考えても仕方のないことは考えないだけ」
「それが強い」
「それはあなたが考えすぎるの」
言い方はいつも通りだ。
けれど、その何気ないやり取りがありがたかった。
大きく変わっていく朝でも、部屋の中だけは昨日の延長にあるような気がしたから。
お絹は緊張で少し顔色を悪くしていた。
「し、志乃さん……今日は、もう、あちらへ?」
「あちら、って」
「春日局さまのお近くの……」
「ええ。そうなるみたい」
「すごい、です」
「すごくはないわよ」
雪江が横から言う。
「大変なだけ」
「う……うん……」
お絹はこくこく頷いた。
その“大変”の意味は、部屋を出てすぐに思い知らされた。
新しい持ち場へ向かう廊下は、下の雑務まわりよりも少しだけ静かで、少しだけ美しい。
置かれた花器の数は多くないのに、どれも無駄がなく整っている。
香も強くない。
それでいて、そこに立つと自然と背筋が伸びるような、品のある空気が満ちていた。
昨日までは、その場所を遠目に見上げることしかできなかった。
今日は、そこへ足を踏み入れる。
その事実が、胸の奥をじんわりと熱くした。
だが、熱くなるのは嬉しさだけではない。
それ以上に強いのは、“ここでは下の雑務よりさらにひどく失敗が目立つ”という怖さだった。
案内された先で、おまさどのが待っていた。
今日は昨日以上に隙のない顔をしている。
人を試す目をしているのに、その試しそのものが相手のためだともわかる、不思議な厳しさを持つ人だ。
「志乃」
「はい」
「今日からは、ただ言われたものを運ぶだけでは済みません」
「承知しております」
「いいえ、まだ承知していないわ」
きっぱりとそう返され、わたしは思わず口を閉じた。
「知っているつもりと、身に入っていることは違います」
「……はい」
「ここでは、花をひと枝違えれば“趣味が悪い”で済まぬことがある。香をひと匙違えれば、“場が読めぬ”で終わることもある」
おまさどのはわたしの顔を見た。
「そして一度そう見られた娘は、たいていすぐに押し戻される」
「はい」
「あなたを押し戻したい者は、もうすでにいるでしょう」
「……はい」
「なら、なおさら最初の数日が肝です」
言葉のひとつひとつが、まるで針のように布を通していく。
痛いわけではない。
けれど、抜け道を作らず、まっすぐ内側へ入ってくる厳しさだった。
「まずは控えの間三つ。花、水、香の立ち方を見なさい」
「はい」
「ただし、直す前に見ること。あなたは気づくとすぐ手を入れたがる」
「……気をつけます」
「気をつけるのではなく、順を変えなさい。見る、覚える、考える、そして動く」
「はい」
「もう一度」
「見る、覚える、考える、そして動く」
「よろしい」
それでようやく、おまさどのは少しだけわたしから目を外した。
最初の控えの間へ入る。
障子越しの光が柔らかく、花器は控えめな高さに置かれている。
白を基調にした花に、青が一本。
香は甘くなく、静かだ。
わたしはすぐには触れず、膝をついて全体を見た。
花器の位置。
障子からの光。
部屋の広さ。
香の流れ方。
そして、誰かがこの部屋へ入ったとき、最初にどこへ目が寄るか。
昨日までなら、花の傷みや水の濁りにまず意識が向いていただろう。
でも今日は、それだけでは足りないとわかっている。
少しだけ、香が手前に寄りすぎている。
花の影も、朝の光で少し強い。
直すほどか。
それとも、いまはこのままでよいのか。
「どう思う」
背後から、おまさどのの声。
「香が、少し手前にございます」
「それはいけないの?」
「……入ってすぐ、香が前へ立ちます」
「前へ立つと何が悪いの」
「花より先に香が来ると、この部屋では重いかと」
おまさどのは数拍黙った。
「直しなさい」
「はい」
香炉の位置を、ほんのわずかに引く。
たったそれだけ。
けれど、その“たったそれだけ”が、この場所では意味を持つのだとわかる。
次の控えの間では、水の減り方よりも、花器の向きそのものに違和感があった。
枝の流れに対して、器がわずかに右へ振れている。
昨日までの雑務まわりなら、これを誰かの不手際と見てもおかしくなかった。
けれど今の場所では、そのわずかなずれも“誰かが見たらどう映るか”の一部になる。
「それも見えた?」
おまさどのが問う。
「はい」
「なら、なぜそうなっていると思うの」
「……直前に、別の方が手を入れられたのでしょうか」
「そうとは限らない」
おまさどのは静かに言う。
「上へ近い持ち場ほど、人が“よかれと思って”触ることも増える」
「よかれと」
「そう。悪意だけが乱れを生むわけではないの」
その言葉に、少しだけ目が開かれた気がした。
そうだ。
これまでわたしは、妨害や悪意ばかりを警戒していた。
だが上の持ち場では、善意ですら場を乱すことがある。
だからこそ、正す者はもっと静かに、もっと正確に判断しなければならない。
「覚えなさい。下は悪意が見えやすい。上は善意も悪意も、どちらも微笑んだ顔で来る」
「……はい」
その一言を胸へ刻んだときだった。
控えの間を出た廊下の先に、綾姫さま付きの侍女が二人立っているのが見えた。
こちらへ歩いてくるでもなく、ただ話しているように見える。
けれど、その立ち位置が妙だった。
廊下の流れをほんの少しだけ狭める位置。
こちらが通れば、自然に袖が触れそうな距離。
胸の奥に、小さな警鐘が鳴る。
新しい持ち場、新しい敵意。
それはもう始まっているのだ。
わたしは少しだけ歩みを緩めた。
おまさどのも、たぶんそれに気づいている。だが何も言わない。
見ているのだ。
わたしがどう動くかを。
侍女のひとりが、こちらへ気づいたふうをして微笑んだ。
「あら、志乃さん」
「おはようございます」
「今日からこちらなのでしょう?」
「はい。学ばせていただいております」
「まあ、素敵」
言葉はやわらかい。
だがその目は、まるで新しく置かれた道具の扱い方を測るようだった。
「春日局さまのお近くなんて、そうそうないことですものね」
「恐れ入ります」
「でも、緊張なさるでしょう?」
「はい」
「でしょうねえ」
侍女はくすりと笑う。
「下の雑務とは、見られ方も違うでしょうし」
その“見られ方”という言葉に、背中がわずかに冷えた。
つまり、それを意識していなさい、という牽制でもある。
「肝に銘じております」
そう返すと、侍女たちは少しだけ道をあけた。
通れぬわけではない。
だが、通るときにこちらが気を遣わねばならぬ幅のあけ方だ。
わざとだ。
けれど、ここで立ち止まれば負ける。
慌ててよけても負ける。
わたしは一拍だけ間を置き、裾と盆のないことを確かめてから、静かにその間を抜けた。
袖は触れない。
足も止めない。
目線も崩さない。
通り抜けたあとで、背後からわずかな笑い声がした。
あれは“転ばなかったか”を確かめる笑いだ。
そのことが、腹立たしいより先に、妙に冷たく胸へ落ちた。
これからは、こういうものが増える。
廊下の先で、おまさどのがようやく言った。
「いまの、わかった?」
「はい」
「何が」
「通りにくいように立たれていました」
「それだけ?」
「……」
わたしは少し考える。
「ここへ来たことを、歓迎していないということも」
「そう」
おまさどのは淡々と頷く。
「で、どうする?」
「どうする、とは」
「今後よ。いちいち心を削られる?」
「……」
「それとも、いちいち相手にする?」
「どちらも、よくないかと」
「ええ。では?」
その問いに、わたしは自分の中にある答えを探した。
ただ耐えるだけでは駄目だ。
でも、正面からぶつかれば、それもまた思うつぼ。
ならば――。
「相手のしたい形に乗らぬように、します」
言葉にすると、自分の中で形がはっきりした。
「通りにくく立たれたなら、慌てずに通る。笑われるように急がない。けれど、道を譲るべきときは譲る」
「つまり」
「崩されぬように、こちらの形を崩さないように」
おまさどのはしばらく黙り、それから言った。
「よろしい。少しは頭が回るようになったわね」
その一言だけで、胸の中に小さな灯がともった。
褒められたわけではない。
けれど、“使える返し”として認められたのだとわかる。
午前の仕事を終えたころには、頭の中が熱を持つほど疲れていた。
下の雑務のときは身体の疲れが先に来た。
いまは身体も使うが、それ以上に神経が削られる。
花ひとつ、香ひとつ、言葉ひとつ、立ち位置ひとつ。
すべてに意味がある場所だからだ。
昼の休憩で雪江に会うと、彼女はすぐに顔を覗きこんできた。
「どう」
「疲れた」
「でしょうね」
「でも、やることは少しわかる」
「へえ」
雪江が箸を持つ手を止める。
「たとえば?」
「下の時は、悪意ばかり見ていた」
「うん」
「でも今は、善意でも崩れることがあるって言われた」
「……なるほど」
「だから、何が悪意で、何がただの余計な親切かも見ないといけない」
雪江は少しだけ目を丸くした。
「おまさどの?」
「うん」
「いいこと教えるわね」
「怖いけど」
「怖い先生ほど覚えるものよ」
そのあと、わたしは侍女たちの立ち位置の話もした。
雪江はそれを聞いて、いかにも嫌そうな顔をした。
「もう始まってるのね」
「ええ」
「綾姫さまのあたり?」
「たぶん」
「でしょうね」
雪江はため息をつく。
「今までは“面白くない”で済んでた。でも、いまのあなたは放っておくと本当に根を張るかもしれない、って思われ始めたんでしょう」
「根を張る、か」
「そう。花のたとえ、あなた好きでしょう?」
少しだけ皮肉っぽく笑う。
「見上げてるだけの雑草なら誰も気にしない。でも、花壇の中でちゃんと咲きそうなら、そりゃ抜きたくもなるわよ」
「……綺麗なたとえではない」
「大奥だもの」
雪江はきっぱり言った。
午後は、朝よりさらに細かな仕事が続いた。
春日局さま付きに近い部屋の飾り花の取り合わせを、控えめに整え直す。
香具の灰を替える前に、前の焚き方の名残をきれいに消す。
そして上役女中たちが休む間の小さな控えの場を、騒がしすぎず寂しすぎぬ空気へ保つ。
ただ手を動かすだけでは追いつかない。
だが、だからこそおもしろいと思ってしまう自分もいた。
見て、整える。
その役目が、ようやく自分の手の中へ馴染み始めている。
夕刻近く、今日最後の見回りをしていたとき、廊下の隅に置かれた花器へ目が止まった。
朝にはなかった枝が一本、差してある。
ごく細い、白い小花。
悪くない。
だが、この場所には少しだけ甘すぎる。
誰かが“よかれと思って”足したのか。
それとも――。
わたしはすぐには触れず、まず周囲を見た。
最近覚えたことだ。
見る、覚える、考える、そして動く。
近くにいた女中へ静かに尋ねる。
「この花器、あとからお手を入れた方がおいででしょうか」
「あら、わたしじゃないわよ」
「いいえ、責めるつもりでは」
「たしか、さっき綾姫さま付きの侍女が、少し立ち止まっていたかしらね」
「……そうですか」
「でも、ただ見ていただけかも」
「ありがとうございます」
やはり。
あからさまではない。
だが、こうして少しずつ“この娘の手元は乱れる”という形を作ろうとしてくる。
わたしはその白い小花を抜き、脇へそっと置いた。
代わりに青葉をほんの少しだけ正す。
そして何事もなかったように花器を整え直した。
たぶん、綾姫さまたちの新しいやり方はこういうものなのだろう。
露骨な失敗ではなく、気づくか気づかぬかぎりぎりの乱れを増やす。
そのままにしておけば、“やはり志乃はまだ甘い”という空気になる。
気づいて直せば、まだ表には出ない。
ならば、今はまだ静かに直していくしかない。
夜、部屋へ戻ったころには、足よりも頭のほうが重かった。
雪江がそれを見て笑う。
「身体より先に顔が疲れてる」
「たぶん、そう」
「でも」
雪江は少しだけ真面目な顔になった。
「悪くない顔」
「悪くない?」
「ええ。前の“何をしていいかわからない顔”じゃない」
「そう見える?」
「見える」
彼女は頷く。
「今日はちゃんと、自分で立ってきた顔」
その言葉が、今日一日の疲れを少しだけ報いてくれた。
布団へ入って目を閉じると、朝の侍女たちの立ち方、廊下の空気、おまさどのの言葉、綾姫さまたちの敵意、そして白い小花の違和感が順に浮かんだ。
新しい持ち場。
新しい敵意。
どちらも、もう引き返せぬものだ。
でも、怖いばかりではなかった。
怖さの中に、少しだけ自分の足で立つ感覚が混じり始めている。
それが今日の収穫だったのかもしれない。
ここはまだ、わたしの場所ではない。
けれど、ただ追い出されぬよう縮こまっているだけの場所でも、もうなくなりつつある。
わたしは胸の中でそっと呟いた。
見て、覚える。
考えて、動く。
そして、相手の形に崩されない。
それを繰り返していけば、いつかこの場所でも、自分の立ち方が見つかるかもしれない。
そう信じるには、まだ少し怖かった。
でも、もう昨日までほどには、俯いていなかった。




