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『日本の後宮・大奥に咲く花――虐げられた娘は将軍家光に見出され、私を嗤った女たちを見返していく』  作者: 御上常陸介寛浩


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第十五話 将軍のひとことは、女たちの運命を変える

その朝、大奥は妙に静かだった。


 静かであるのに、人の心だけがどこか忙しい。

 そういう朝がある。

 声は低く、足音も乱れず、廊下に立つ女たちの背筋もいつも以上にまっすぐなのに、袖の内側だけがざわついているような朝だ。


 わたしは新しい持ち場へ向かう廊下を歩きながら、その空気を肌で感じていた。

 春日局さまに呼ばれ、言葉をいただき、配置を変えられてから数日。

 下の雑務だけに埋もれていた頃に比べれば、見える景色も、向けられる視線も、明らかに変わった。


 廊下の柱の艶。

 障子越しの光のやわらかさ。

 香の置かれ方。

 上役女中たちの視線の交わし方。

 そして、それらのどこにも自分が“完全なよそ者”ではなくなりつつあること。


 けれど、それは決して安らぐ変化ではなかった。

 むしろ逆だ。

 近づいたぶんだけ、冷たいものも近くなった。


 朝の最初の仕事は、おまさどのの部屋まわりの花と香の確認だった。

 おまさどのはすでに座して帳面を見ており、わたしが膝をついて挨拶すると、ごく短く顎を引いた。


「今日は春日局さまのお部屋まわりも一部手伝ってもらいます」

「はい」

「浮つかないこと」

「承知しております」

「それから」

 おまさどのは帳面から目を上げた。

「廊下の空気がいつもと違うのはわかるわね」

「……はい」

「理由は」

「皆の気持ちが、どこか先へ向いているからかと」

 おまさどのは、わずかに目を細めた。

「悪くない答えね」

 その一言だけで、胸の内が少しだけ熱くなる。

「上で働く者は、花や香だけを見ていては足りません。人の顔、声、沈黙、その日の空気がどこへ傾いているかも見るの」

「はい」

「今日の大奥は、皆が“まだ起きていないこと”を先に恐れている」

「まだ起きていないこと……」

「将軍さまのお耳に何が入るか。春日局さまが誰をどう見ておられるか。そういうものよ」

 そこでおまさどのは帳面を閉じた。

「つまり、今日は皆、自分の運の行方ばかり気にしている。そういう日は、誰かの一言が思っている以上に大きく響く」

「……はい」


 その言葉は、その日の終わりまで胸へ残ることになる。


 午前のうちは、大きな乱れもなく過ぎた。

 花器の水を替え、枝の向きを整え、香具の灰をならし、置かれる部屋ごとの静けさに合わせて小さく手を入れる。

 上役の補佐に近い持ち場では、仕事のひとつひとつが前より細かい。

 しかし、それだけに“できたときの収まり”も確かだった。


「志乃」

 春日局さま付きの古参女中に呼ばれ、わたしはすぐに膝を折る。

「はい」

「こちらの香炉、少しだけ火が強い。灰を」

「承知いたしました」


 香炉へ手を伸ばし、灰の表面をほんの少しだけ崩して空気の通りを変える。

 香が立ちすぎぬように。

 けれど弱くなりすぎぬように。

 その間合いを読むのは、まだ気を張る仕事だった。


 女中はしばらく見てから短く言った。

「よろしい」

「ありがとうございます」

「礼より先に、次も同じようにしなさい」


 厳しい。

 だが、その厳しさの中に“まだ見ている”という温度も感じるようになっていた。


 廊下へ出ると、綾姫さま付きの侍女たちが向こうから来た。

 以前なら、すれ違うだけで背中に冷たいものが走った。

 いまも緊張はする。

 けれど、ただ怯えるだけではなくなっている自分にも気づく。


「志乃さん」

 やはり声がかかった。

「はい」

「今日もお忙しそうね」

「皆さまのお役に立てますよう、務めております」

 そう答えると、侍女は薄く笑った。

「ほんとうに、口の置き方が上手になったこと」

「そのようなことは」

「ええ、そういうところよ」


 その侍女の目は笑っていなかった。

 綾姫さまに近い女たちは、もはやあからさまな見下しを前へ出さない。

 代わりに、いつでも“この娘は少し知恵をつけた”という警戒を滲ませるようになった。

 それがかえって、綾姫さまご自身の胸の内を物語っている気がした。


 正午に近いころだった。

 春日局さまの廊下まわりで、ちいさな人の流れの変化があった。


 誰も声を上げない。

 けれど、控える女中たちの背筋が自然に揃い、侍女たちがさりげなく位置を改める。

 それだけで、何かが起きるのだとわかる。


 将軍さまが、近い。


 胸の内がどくりと鳴った。

 将軍家光公。

 このところ、廊下の向こうの影として、声として、そして香の乱れの先に一度近くでお目にかかった方。

 それでもなお、わたしにとっては遠い天のような存在であることに変わりはない。


「志乃」

 おまさどのの声が低く落ちる。

「前へ出すぎないこと」

「はい」

「でも、呼ばれたら動きなさい」

「……はい」


 その“呼ばれたら”が、わたしの胸をきゅっと締めた。

 呼ばれるかもしれない。

 呼ばれないかもしれない。

 そのどちらにも備えておかなければならない。


 やがて、絹の擦れる音が近づいてきた。

 重々しいわけではない。

 むしろ静かで、だからこそ周囲の空気をいっそう張らせるような足音。


 わたしは端へ控え、深く頭を下げた。

 視界の端に、濃い色の裾が止まる。

 将軍家光公だと、見ずともわかった。


「春日局」

 落ち着いた声が響く。

「例の娘はどれだ」


 胸の鼓動が、耳のすぐそばまで上がってきたようだった。


 例の娘。

 わたしのことだ。


 春日局さまの声が静かに返る。

「こちらに」

「顔を上げよ」


 その言葉は、わたしへ向けられていた。


 わたしはゆっくりと顔を上げた。

 将軍家光公は、前に香の件で近くお目にしたときと同じく、派手な威圧よりも静かな圧をまとっておられた。

 人を震え上がらせるために強いのではなく、そこにいるだけで周囲が己の位置を正さずにいられなくなるような強さ。

 目は醒めていて、けれど無駄に人を刺すような冷たさではない。

 “見る”ための目だ。


 春日局さまが、淡々と説明なさる。

「先日の香の件の娘にございます。昨日の帳場の件でも、自分の見たことを順に申しました」

 家光公の視線が、わたしの上に静かに置かれる。

「志乃、といったな」

「はい」

「花と香を見るそうだ」

「少しだけでございます」

「皆そう申す」


 その一言に、ごくわずかだが、場の空気がゆるんだ気がした。

 軽く笑ったわけではない。

 けれど将軍さまご自身がそう言うと、周囲の女中たちの肩からほんの少しだけ固さが抜ける。


「春日局が近くで使うと言っていた」

 家光公は春日局さまへ目を向けた。

「はい」

「おもしろい」

 たったその一言だった。


 おもしろい。


 それは大きな褒め言葉ではない。

 寵愛でもない。

 けれど、そのひとことで、周囲の空気がまた変わったのがわかった。


 春日局さまはごくわずかに目を細める。

「まだ試している最中にございます」

「そうか」

 家光公は再びわたしを見た。

「なら、試されるがよい」

 その声は穏やかだった。

「よく見ている者は、使いようで毒にも薬にもなる」

「……はい」

「どちらになるかは、おまえ次第だ」

「肝に銘じます」

「うむ」


 それだけ言って、家光公は足を進められた。

 絹の裾が流れ、気配が少しずつ遠ざかる。

 けれど残された場は、先ほどまでとはもうまったく同じではなかった。


 将軍さまのひとこと。

 ただそれだけで、女たちの胸の内にある秤は動く。


 家光公が去ったあとも、しばらく誰も余計な声を出さなかった。

 やがて春日局さまが静かに言う。

「志乃」

「はい」

「聞いた通りです。浮かれず、怯えすぎず」

「はい」

「行きなさい」


 深く頭を下げて下がると、廊下に出たとたん、視線が刺さるのを感じた。

 露骨ではない。

 けれど、先ほどまでの“少し気になる娘”を見る目とは違う。

 明らかに、“将軍が言葉を落とした娘”を見る目になっている。


 足を乱さぬように歩きながら、わたしは胸の内を鎮めようとした。

 おもしろい。

 試されるがよい。

 毒にも薬にもなる。

 どれも、手放しの褒め言葉ではない。

 それどころか、危うさまで含んだ言葉だ。

 なのに、周囲にとってはそれで十分なのだろう。


 昼の休憩に入る前、綾姫さまと廊下で行き合った。


 綾姫さまは微笑んでいた。

 だが、その微笑みの下にあるものを、いまのわたしは前よりよく感じ取れる。

 冷えた苛立ち。

 計算。

 そして、面白くなさ。


「志乃さん」

「はい」

「今日はまた、ずいぶんと華やかでしたこと」

「そのようなことは」

「将軍さまがお声をかけ、春日局さまが近くでお使いになる」

 綾姫さまは袖口をそっと撫でた。

「そういう娘を、華やかと言わずして何と言うのかしら」

「……わたくしには、まだ」

「まだ、まだ、と、よく謙遜なさるのね」

 綾姫さまの声はやわらかい。だが、そのやわらかさがかえって冷たい。

「でも、人は謙遜の中身までは見ませんわ。見えるのは、誰がどこで声をかけられたか、それだけですもの」

 その言葉は真実だった。


 わたしは深く頭を下げる。

「お言葉、肝に銘じます」

「ええ、ぜひそうなさい」

 綾姫さまは微笑む。

「将軍さまのひとことは、ときに娘の運を変えますけれど、ときにその娘の首を細くもしますのよ」


 去っていく後ろ姿は、いつも通り美しかった。

 けれど、その美しさはいま、少しだけ鋭く見えた。


 休憩で雪江と顔を合わせるなり、彼女はわたしの顔を見て固まった。

「……何があったの」

「将軍さまが」

「うん」

「“おもしろい”と」

 雪江の箸が止まる。

「……それ、最悪に面倒な言葉じゃない」

「そう思う」

「思うのね」

「はい」

 そう答えると、雪江は額に手を当てた。

「だめだわ。もう、完全に“ただの下の娘”ではいられない」

「そんなつもりは」

「つもりじゃなくなるのよ、大奥では」

 雪江は低く言う。

「将軍さまが一言落とした、それだけで十分」

 お絹は青い顔でこちらを見る。

「だ、だいじょうぶなのでしょうか」

「だいじょうぶかどうかは」

 わたしは一度言葉を切った。

「これから次第なのでしょうね」

「……そうね」

 雪江が真剣な目でうなずく。

「でも、少なくとも綾姫さまたちは、もう完全に放っておかないわ」

「ええ」

「次はもっと巧く来る」

 その予感は、わたし自身にもはっきりあった。


 午後の仕事は、表向きにはいつも通り進んだ。

 花器の水を替え、香具を整え、上役女中の指示に従って部屋の空気を乱さぬよう動く。

 けれど、どこへ行っても人の目がある。

 廊下の向こうで止まる囁き。

 障子の影で揃う気配。

 “あの娘”を意識する小さな揺れ。


 将軍さまのひとことは、それほどまでに重い。


 夕刻近く、おまさどのがふいに言った。

「今日、何を学びましたか」

 わたしは手を止めて答えた。

「将軍さまのお言葉は、その中身だけでなく、それが落ちたという事実自体が重いのだと」

「それだけ?」

「……その重さに、周りの女たちの気持ちがすぐに動くのだと」

「ええ」

 おまさどのは静かに頷いた。

「よろしい」

「ありがとうございます」

「礼はいらないわ。明日から、その動いた気持ちの中で立てるかどうかを見ます」


 その一言に、背筋が伸びた。

 そうだ。

 今日起きたことは、ただの特別な出来事ではない。

 明日からの重さなのだ。


 夜、布団へ入って目を閉じても、家光公の声は耳に残っていた。


 ――おもしろい。

 ――試されるがよい。

 ――毒にも薬にもなる。


 あの言葉を、どう受け止めればよいのか、まだわからない。

 けれど、ひとつだけはわかる。


 今日のわたしは、確実に昨日までのわたしではない。


 雑用部屋の隅で、笑われても黙って覚えるしかなかった娘。

 花と香の乱れに気づいても、ただ見上げるしかなかった娘。

 その娘へ、将軍さまが一言落とした。

 ただそれだけで、周囲の秤は動いた。

 綾姫さまたちの笑みの温度も変わった。

 雪江の目の中の緊張も、お絹の不安も、すべて少しずつ違う色になった。


 将軍のひとことは、女たちの運命を変える。


 それは、華やかな祝福としてだけではない。

 ときに、その娘をより危うい場所へ押し出すひとことでもある。

 わたしは今、その入口に立っているのだろう。


 怖い。

 けれど、不思議と、ただ怯えているだけでもなかった。


 布団の中で両手を重ね、わたしは胸の内で静かに呟いた。


 見て、覚える。

 整える。

 そして、崩されぬように立つ。


 それしかない。

 将軍さまのひとことが何を意味しようとも、その先で自分がどう立つかは、自分で決めるしかないのだから。


 目を閉じると、今日一日の廊下の光と、綾姫さまの冷えた微笑みが重なって浮かんだ。

 花はたしかに、少し高い場所へ置かれた。

 ならば、次は風の強さを知らねばならない。


 その思いを胸に抱いたまま、わたしはゆっくりと眠りへ沈んでいった。

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