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想像の国のゼンパンク  作者: Kikuchi
第2章 (海未) 消された送金
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6

 通勤電車の中で、海未は、父の昔の姿を思い出す。あの火事の夜――彼女が小学生の頃、深夜に突然家が燃え上がり、目を覚ました時にはリビングから煙が押し寄せていた。泣き叫ぶ母の声、そして父の必死な叫び。「皆、外に出るんだ!」と。それでもどうにか家族3人は庭に逃げ延びたが、家は炎に包まれて中は全焼となった。

 それ以降、父は意気消沈し、官僚としての出世をも諦め、最終的には退職を選んだ。彼が「財務省の不正を暴く」と息巻いていた矢先の出来事だった。警察は「火の不始末」と断定したが、父は納得していない様子がありながら、何も言わなくなった。まるでその痛みと恐怖を抱えたまま、自己防衛のために沈黙を選んだかのように。

 海未はその父の沈黙を見て育った。あの炎の記憶は未だに鮮明で、時折夢に見るほどだ。

(父さんが追いかけた政府の不正……結局何も変わらないままなのかな)

 そう考えると、このプロジェクトに対する会社の人たちの態度が妙に重なって見える。「無理をしても報われない」――皆そう言っているように聞こえる。でも、海未は諦めたくなかった。


 海未は、プリントアウトした資料を手に、プロジェクトマネージャー・三浦《みうら》のデスクへと向かった。心臓が速く打つのを感じるが、その鼓動を抑え込むように深呼吸する。彼女はこの数日間、真田工務店の補助金データに潜む不自然な資金の流れを丹念に洗い出していた。額に浮かぶ汗は、単なる緊張だけではなく、発見した事実の重大さを物語っている。

「三浦さん、お時間よろしいでしょうか?」

 海未の声に三浦は顔を上げた。いつもと変わらない無表情。だが、その奥に何かを隠しているような、曖昧な笑みを浮かべているようにも見える。

「ああ、宝田さん。どうした?」

 差し出した資料の束が、机の上に無機質な音を立てて置かれる。海未は資料の一枚目を指し示しながら、淡々と説明を始めた。

「地方産業活性化支援プロジェクトの資金流れについて調査していたところ、いくつかの不審な点を見つけました。真田工務店が受注した工事の中で、実際には着工していない案件が完了扱いとなっており、それに伴う補助金が既に支払われています。また、関連企業への資金の流れも不自然で、いくつかの送金がオフショア口座に移動している形跡がありました」

 三浦は資料に目を落とし、しばらく無言のままページをめくる。その沈黙が、オフィスの静寂を際立たせた。やがて彼は顔を上げ、海未の目をまっすぐに見つめた。

「……なるほど。確かに興味深いデータだ」

 淡々としたその口調に、海未は一瞬、安堵しかけた。しかし次の言葉が、その感情をすぐに打ち砕く。

「だが、この件は政治的に非常にデリケートな問題だ。君もわかるだろ? 経産省との関係に響く可能性がある」

「ですが、このままでは税金が不正に流用されることになります。それを見逃すわけには――」

 三浦は手を上げて制した。その動きは冷静で、しかしどこか決定的な拒絶の意志を含んでいる。

「わかってる。君の分析は正確だし、努力も認める。ただ……これは俺一人の判断で動ける話じゃない。上に確認してみる。だから、今はこれ以上深入りしないように」

 海未は唇を噛みしめた。納得のいかない気持ちを抑えながらも、彼の言葉にうなずくしかなかった。

「……承知しました」

 資料を回収することもなく、海未は会議室を後にした。背後で静かに閉じられるドアの音が、彼女の胸に重く響いた。


 数日が経った。オフィスの喧騒は変わらないが、海未の心にはどこか重苦しい不安が漂っていた。三浦からの返答はないままだったが、彼の態度が微妙に変わったことに気づいていた。以前は柔らかさすら感じられた彼の口調が、今はどこか冷たく、距離を取るようなものに変わっている。

 そして、その日。

「宝田さん、ちょっと来てくれるか?」

 三浦の呼びかけに、海未は一瞬身構えた。彼の表情は硬く、目はどこか冷ややかだった。オフィスの一角にある小さな会議室へと案内される。ガラス張りの壁越しに、同僚たちが仕事に集中する姿が見えるが、この空間だけが異質な静寂に包まれていた。

「先日の件だけど……」

 資料も何も持たず、三浦はそのまま言葉を続けた。

「君の調査結果は上に報告した。だが、その後の指示で、この件にはもう触れるなと言われた。政府の関与がある以上、これ以上の追及は不要だ」

 その言葉に、海未の胸がざわめいた。

「でも、それは――」

「宝田さん」

 三浦の声が鋭くなった。彼の目には、もうかつての上司の面影はない。

「これは命令だ。これ以上深入りすれば、君自身のキャリアにも響くことになる」

 その言葉に、海未は何も言い返せなかった。怒りと無力感が心の中で渦巻き、喉の奥が乾いていく。

「……わかりました」

 それだけを絞り出すと、海未は静かに席を立った。ドアを開ける手が震えているのを感じながら、会議室を後にする。


 自席に戻った海未は、再び補助金データのファイルを確認しようとパソコンにログインした。まだ諦めるわけにはいかない――そう思いながら、彼女はプロジェクトフォルダを開いた。

 しかし、そこに広がっていたのは、空白の画面だった。

「……え?」

 クリックを繰り返しても、表示されるのは「ファイルが存在しません」という無機質なメッセージ。午前中まで確かに存在していた工事進捗のエクセルファイルも、送金先リストも、全てが消え失せている。

 動悸が激しくなり、手が震える。まるで、自分が存在しなかったことにされたような感覚が全身を覆った。

 さらに真田工務店関連のフォルダにアクセスしようとすると、「アクセス権限がありません」という表示が現れた。

(……こんなの、明らかに隠蔽じゃない……)

 心の中で警鐘が鳴る。周囲の同僚たちは何事もなかったかのようにパソコンに向かい、キーボードを打ち続けている。誰も彼女の動揺に気づくことはない。この会社全体が、見て見ぬふりをするように仕組まれているのだと、海未は痛感した。

(結局、父さんの時と同じ……)

 胸の奥に湧き上がるのは、諦めと怒りが入り混じった感情だった。だが、彼女はまだ完全に屈したわけではない。海未は個人的に作成していた分析資料のバックアップが、社内の共有フォルダに残っていることを思い出す。それは直接的な証拠ではないが、少なくとも不正の痕跡を示す手がかりにはなる。

(まだ……全部が消えたわけじゃない)

 その思いが、彼女の中のわずかな希望を繋ぎ止めていた。だが、このまま会社に留まっていても、真実に辿り着くことはできないかもしれない。父が官僚として不正を追及しようとした末に諦めたように――。

 深く息を吸い込み、海未はモニターを見つめた。この瞬間、彼女の心は静かに、しかし確実に決意へと傾いていた。


 自宅でVPNを通じて社内システムにアクセスした海未は、プロジェクトの補助金データを再確認していた。送金リストのバックアップファイルにはまだ削除されていない情報が残っていたが、肝心の真田工務店の詳細データは抜け落ちている。

(やっぱり削除されたのか……)

 諦め半分でデータベースをスクロールしていると、ふと奇妙なファイル名が目に留まった。「補助金支払_2024_真田工務店_final.Z」――。

(……Z?)

 通常、案件名やプロジェクトの略称がファイル名に含まれるのは一般的だが、「Z」というコードは見たことがない。海未はファイルのプロパティを開いてメタデータを確認する。

 作成者:戦略都市開発局/関連プロジェクト:プロジェクトZ。

(プロジェクトZ……?)

 不審に思い、海未はシステム内で「プロジェクトZ」を検索した。しかし、それらしいファイルや公式資料は一切見当たらない。「アクセス権限がありません」というエラーが返されるだけだった。

(これ、何かの機密コード……?)

 通常の地方再開発プロジェクトとは異なる、何か特別な計画が進行していることを示唆している。補助金の流れが不自然なだけでなく、その背後にもっと大きな組織的な動きがあることを海未は確信した。


 眠れないまま、海未はベッドに入る。眼を閉じると、幼い自分が家の中で煙に包まれ、父が抱きかかえて外に連れ出してくれた映像が甦る。炎の赤い光と、父の焦り切った表情。母の悲鳴。そして、家がすべて灰になるまで、なすすべもなかった一家。

 翌朝、父は沈黙のまま「もう、俺は官僚を辞めるよ」とだけ言った。海未は子ども心に「何があったの?」と必死に問いかけたが、父はうつむいたまま答えなかった。後に海未は噂を耳にした――父は首相クラスの汚職を突き止めかけていたが、火事によって「断念せざるを得なかった」と。

 それから父は家族を守るために黙り、平凡な仕事に落ち着いた。彼の意志は折られ、そして海未はその背中を見て育ち、「なぜ戦わなかったのか」と憤りを感じながらも、「あれほど恐ろしい思いをすれば仕方ない」と同時に思った。

 でも、私は……。

 夜の静寂の中、海未はもう一度決意を噛み締める。火事で失われたものは多いが、父から受け継いだ「正義への思い」は決して消えていない。

 遅い時間にスマホが振動した。画面を見ると、同期の瑞季からの着信だった。どうやら心配して電話してきたらしい。

「海未、今日あんまり元気なさそうだったけど。上司と何かあった?」

 優しい声に、思わず涙が出そうになる。だが、この問題を気軽に打ち明けるわけにはいかない。会社全体で政府に協力する流れの中で、彼女だけが不正を追及しているという事実はリスクが大きいからだ。

「うーん、ちょっと色々あってね。でも大丈夫、ありがと」

「そう……あんまり無理しないでね。政府案件は本当に面倒なこと多いから」

「うん、気をつける。ありがとう」

 通話を切ると、海未は小さく笑みを浮かべる。自分はもう、一人で戦うしかないかもしれない。けれど、こうして気遣ってくれる友人がいることも、わずかな救いだった。

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