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数日後、海未は恵理に教えられた場所へと向かった。バンコクの喧騒を抜け、観光客の少ない裏通りへ足を踏み入れる。昼間でも薄暗いその路地には、異国の湿気とスパイスの混じった空気が漂い、どこか不穏な気配が漂っていた。
目的地は、地図アプリの指示通りの場所にあったが、目の前の建物は想像していたものとはまるで違っていた。看板も表札もなく、色あせた木製の扉と、剥がれかけた漆喰の壁が目に入るだけだ。外観はまるで、長年放置された普通の古びた住宅のようだった。
(……本当にここ?)
一歩引き返そうとしたが、恵理の「絶対に大丈夫! あの人、当たるって評判なんだから!」という言葉が頭をよぎる。軽く息を吸い込んで、意を決して扉をノックした。
数秒の沈黙の後、扉の向こうから穏やかだが、どこか不思議な響きのある声が返ってきた。
「どうぞ、お入りなさい」
扉を押し開けると、海未は思わず息を呑んだ。
室内は外観からは想像もできないほど整然としており、柔らかな照明の中で、香の煙が静かに揺れている。ジャスミンのような甘い香りと、どこか懐かしい木の香りが鼻をくすぐった。壁際には古びた仏像や和風の調度品が無造作に置かれ、異国と故郷が奇妙に混じり合った空間が広がっている。
中央には低い木のテーブルが据えられ、その向かい側に、一人の中年の日本人女性が静かに座っていた。
和装をまとい、落ち着いた微笑みを湛えたその姿には、どこか浮世離れした気品が漂っている。
彼女の瞳は深い闇のように澄んでいて、まるで視線を交わしただけで心の奥を見透かされてしまうような感覚を覚えた。
「お待ちしていました、海未さん」
穏やかな声が部屋に響く。
事前に予約していたとはいえ、こうも自然に名前を口にされると、海未は思わず背筋を正した。
「どうぞ、座って」
女性は静かに手を差し伸べ、海未をテーブルの向かい側に促す。海未はわずかに緊張しながらも、席に着いた。
「あなたのことは、少し前から見えていました」
その言葉に、海未はふと眉をひそめた。
「……見えていた? どういうことですか?」
女性は微笑んだまま、直接は答えない。その表情は柔らかいが、どこか掴みどころがなく、静かに胸の奥をざわつかせる。
部屋の静寂と香の煙が、まるで時間の流れを遅くしているかのようだった。
しばらくの沈黙の後、女性はふと口を開く。
「あなたは、何をすべきかを見失っているのですね。でも……本当は、すでに答えを知っているはず」
抽象的な言葉だったが、不思議と海未の胸に突き刺さった。彼女が知るはずのない自分の葛藤を、的確に突かれた気がした。
「……私には、何が正しいのか分からないんです」
気づけば、海未は胸の内を少しずつ打ち明けていた。政府の不正を暴こうとして失敗したこと、会社を辞めたこと、父との確執——全てを話したわけではなかったが、女性の前では、心の中に渦巻く迷いや葛藤が次々と溢れ出していくようだった。
女性は静かに頷きながら話を聞いていたが、ふと立ち上がると、奥の棚から小さな袋を取り出して戻ってきた。その動きは、まるで最初からそれが決まっていたかのような自然さだった。
「これはあなたの導き手。あなたが進むべき道を、見えない場所から照らしてくれるものです」
彼女の手の中には、小さな麻袋があった。差し出されたそれを受け取ると、手のひらに収まるほどの小さな袋の中に、細かい白い粉が三回分に分けられて入っていることに気づいた。
バンコクの、肌にまとわりつくような重く湿った空気の中で、その粉だけが、不気味なほどに冷たく、乾いた手触りをしていた。
「これはただの占い道具ではありません。この粉が導くのは、あなたの魂の記憶——遠くにいるはずの誰かが、あなたを待っています」
海未の心が小さく震えた。誰かが待っている? それは一体、誰のことを指しているのだろう。
「使うかどうかはあなた次第。でも、使えば、あなたは『本当に進むべき場所』へ辿り着くでしょう」
海未は袋を見つめ、しばらく沈黙した。論理と数字で世界を解釈してきたコンサルタントとしての自分が、「そんなはずはない」と冷ややかに囁いている。本来の自分なら、こんな怪しげなものは鼻で笑って捨てていただろう。
しかし、信じていた正義も論理もすべて踏みにじられ、デジタルの世界から自分の存在さえ消されかけた今の彼女にとって、この非論理的な粉の「重み」だけが、唯一の確かな重力を持っているように感じられた。
「……ありがとうございます」
海未がそう呟いて立ち上がると、女性は再び静かに微笑んだ。
「焦らず、あなたのタイミングで使いなさい。きっと、その時が来るから」
占い師の店を出ると、バンコクの喧騒が現実に引き戻してきた。手の中の袋が妙に重く感じられる。これが本当に自分の運命を変えるものなのか——答えはまだ分からなかった。しかし、何かが動き始めたことだけは確かだった。




