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想像の国のゼンパンク  作者: Kikuchi
第4章 (海未) 異国の粉
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 数日後、海未は羽田空港に立っていた。何かに導かれるように、気づけばバンコク行きのチケットを手にしていた。心の整理をつけるためか、現実から逃げ出すためか——自分でもわからなかった。

 シートベルトサインが点灯し、機内モニターには国内ニュースが静かに流れていた。「続いてのニュースです。昨日、都内で発生した金融機関への不正アクセス事件に関与した疑いで、佐久間(さくま)達也(たつや)(35)が指名手配されました。警視庁によりますと、佐久間容疑者は複数の企業の機密データを不正に取得した疑いが持たれており、依然として行方がわかっていません。視聴者の皆さま、こちらの顔に見覚えがある方は、最寄りの警察署までご連絡ください」

 画面に映し出されたのは、無精ひげを生やした男の写真だった。精悍な顔つきで、目つきの鋭さが印象に残る。海未は一瞬だけその顔に視線を止めたが、すぐに関心を失い、目を窓の外へと移した。

「次のニュースです。全国の行方不明者の数が昨年比で1.5倍近くに増加していることが警察庁の調べでわかりました。特に都市部での増加が顕著で、警視庁は失踪事件の関連性についても調査を進めています」

 ニュースキャスターの声が淡々と続く。画面には昨年と今年の行方不明者数のグラフが表示された。

「この増加傾向について、スタジオのコメンテーターの田村さんにお伺いします。昨年と比べて1.5倍近く増加していますが、何が原因と考えられますか?」

画面が切り替わり、スタジオにいるスーツ姿の男性が慎重な表情で口を開いた。

「一概に原因を特定するのは難しいですが、経済的な不安や社会的孤立が背景にある可能性が高いですね。特に都市部では、個人のつながりが希薄になりやすく、その結果として失踪や家出が増えているのかもしれません」

 海未はその言葉に少し眉をひそめた。社会問題としてはありふれた説明だったが、どこか釈然としない感覚が残った。しかし、今の自分にはそれを深く考える余裕はなかった。深呼吸をしてシートに背を預けると、心はバンコクで待つ何か未知の出会いへと向かっていた。

 窓の外には、雲の海が広がっている。その先に何が待っているのか、海未にはわからなかった。ただ、どこか遠くへ行きたかった。それだけだった。


 バンコクに降り立った瞬間、海未は空港の熱気に包まれて思わず眉をひそめた。重たく湿った空気が肌にまとわりつき、じわりと額に汗が滲む。東京の冷たい秋風を思い出し、まるで別世界に足を踏み入れたような感覚に圧倒される。

(……本当に来ちゃったんだ)

 心の奥でそう呟きながら、タクシー乗り場へと向かう。エンジン音が絶え間なく響く中、カラフルなトゥクトゥクやバイクが混然一体となって走り抜ける光景に、どこか非現実感を覚えた。

 タクシーに乗り込むと、ドライバーが陽気なタイ語で話しかけてくる。意味が分からないまま微笑み返し、車窓の外に視線を移した。高層ビルの間に古びた寺院が立ち並び、屋台の煙と香辛料の香りが街に溶け込んでいる。その混沌としたエネルギーは、東京の整然とした街並みとは対照的で、どこか心をざわつかせた。

 ホテルに到着し、無機質な部屋で一息つくと、これまでの出来事が一気に押し寄せてきた。退職の決断、父の冷たい言葉、そして空虚な自分自身。ここまで来たものの、何をすべきか分からないまま時間だけが過ぎていく。異国の地にいながらも、心はまだ東京の闇に囚われているようだった。


 翌日、大学時代の友人・恵理(えり)と再会するため、指定されたカフェへと向かった。恵理は大学のゼミ仲間で、いつも明るく、社交的なムードメーカーだった。卒業後は大手商社に就職した夫と結婚し、現在はその転勤でバンコクに駐在している。SNSで時々近況を知る程度だったが、過去に「バンコクに来るなら絶対に会おう!」という熱烈なメッセージをもらっていたこともあり、久しぶりに会うことにしたのだった。

 指定されたカフェは、バンコクの中心部にひっそりと佇むおしゃれなカフェだった。店の外には南国特有の鮮やかな花が咲き乱れ、緑に囲まれたテラス席からは、遠くに川沿いのボートが見える。現地の雑多な雰囲気とは一線を画す、洗練された空間だった。

 カフェのドアを開けると、恵理が大きく手を振っているのが見えた。相変わらずの明るい笑顔に、海未の頬が自然と緩む。恵理の肌は少し日焼けしており、南国の陽光がその笑顔を一層引き立てていた。

「海未! 久しぶり!」

「恵理、元気そうだね」

 二人は軽くハグを交わし、木製のテーブル席に腰を下ろした。店内はオープンエアの作りで、天井のファンがゆっくりと回り、異国の香辛料とコーヒーの香りが心地よく鼻をくすぐる。

「まさか海未がバンコクに来るなんて! 仕事の休暇?」

 恵理が目を輝かせて尋ねた。その問いに、海未は一瞬答えに詰まり、曖昧に微笑んで返した。

「まあ、そんなところかな」

 本当の理由を話す気にはなれなかった。政府の不正を暴こうとして失敗し、会社を辞めてここにいる——そんな話は、この明るい雰囲気には似つかわしくない。恵理もどう反応すればいいか困るだろうと思った。

「そっかそっか。でも、バンコクって最高でしょ? 美味しいものもいっぱいあるし、ショッピングも楽しいし」

 恵理は楽しそうに話し続け、海未も久々に肩の力を抜いて笑みを浮かべた。二人でパッタイやグリーンカレーを味わいながら、大学時代の思い出話に花を咲かせる。恵理の明るさは、海未にとって一時の逃避を与えてくれた。

 しばらくすると、恵理がふと思い出したように身を乗り出してきた。

「そうだ、海未、今ちょっと人生に迷ってたりする?」

「え?」

 唐突な質問に、海未は驚いて眉をひそめた。一瞬、彼女が自分の置かれた状況を見抜いたのかと錯覚した。

 恵理はいたずらっぽく笑いながら続けた。

「いや、実はね、すごい日本人の占い師がバンコクにいるんだよ。私も前に行ってみたんだけど、本当にびっくりするくらい当たるの」

「占い?」

 海未は思わず眉をひそめた。スピリチュアルなことには元々関心がなかったし、占いで何かが解決するとは到底思えなかった。

「そう! ほら、海未って昔から理屈っぽいとこあったじゃん? でも、こういうのもたまには悪くないと思うよ。人生に迷ったときって、理屈じゃ答えが出ないこともあるんだよ。私も最初は半信半疑だったけど、あの占い師に会ってから色々と考え方が変わった気がするんだ。まあ、海未にそんな悩みがあるのかは分からないんだけど」

 恵理の真剣な表情に、海未は少し心が動いた。

 人生に迷っているのかは判然としないが、確かに今の自分は、理屈だけでは割り切れない状況にいる。全てを失ったわけではないが、足元がぐらついている感覚は拭えなかった。父の言葉が耳の奥で反響する中、自分が本当に求めているものは何なのか、分からなくなっていた。

「……そんなに言うなら、行ってみようかな」

「ほんと? ちょっと日本人価格でお高めだけど、絶対に損はしないと思う!」

 恵理は嬉しそうに微笑み、海未の手を軽く叩いた。その瞬間、海未の中で何かが静かに動き始めた。

 占いなんて信じない——そう思っていた自分が、今は何かに縋りたいと思っている。それが何であれ、次に進むための一歩になるかもしれないと。

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