12
翌朝、海未は実家からいつも通りに出社した。しかし、オフィスの空気はどこか重苦しく感じられた。エレベーターを降り、ガラス張りのフロアを歩いていると、同僚たちが一瞬だけ視線を上げては、すぐに視線をそらす。その微かな違和感が、海未の胸にじわじわと広がっていく。
(……気のせい?)
自分にそう言い聞かせながらデスクに向かうと、モニターに見慣れない通知が表示されていた。
「石原パートナーのオフィスまでお越しください」
プロジェクトオーナーの石原直樹は、このプロジェクト全体の最終責任者であり、政府とも密接な関係を持つ人物だ。パートナーという肩書きは、クライアントとの契約や方針決定に関わる最上位の役職であり、現場のコンサルタントが直接呼び出されるのは異例だった。
海未は一瞬戸惑ったが、深呼吸して立ち上がり、石原のオフィスルームへと向かった。
石原のオフィスルームは、他の会議室とは異なり、簡素で冷たい雰囲気を漂わせていた。無駄のないデザインの中に、権威だけが静かに存在感を放っている。
扉をノックすると、低い声が返ってきた。
「どうぞ」
ドアを開けると、石原がデスクの向こう側で腕を組み、冷たい視線をこちらに向けていた。その隣には、プロジェクトマネージャーの三浦も立っていたが、彼は目を合わせようとしなかった。
「失礼します」
海未は静かに頭を下げ、椅子に腰を下ろした。
石原はしばらく海未を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「君が、内部通報の準備を進めていると聞いた」
一瞬、心臓が止まったような気がした。
(どうして……?)
確かに、通報の準備はしたが、それは社内のシステムを通じて行われたものであり、ここまで迅速に情報が漏れるはずがない。しかし、目の前の石原の冷静な表情が、その事実を容赦なく突きつけてきた。
「……はい」
海未は隠すことなく答えた。ここで逃げるわけにはいかない。
石原は小さく鼻で笑い、机の上に並べられた資料に目を落とした。
「君がどれだけ優秀な分析をしたかは認めよう。しかし、これは政治的に非常にデリケートな問題だ。君が何をしようと、それは無駄だ」
「無駄……ですか?」
「そうだ」石原は淡々と言葉を続けた。「政府案件には政府の意向がある。そして、それに逆らう者がどんな結末を迎えるか……君の父親が一番よく知っているはずだ」
その言葉に、海未の全身が凍りついた。父の過去が知られていること——それ自体が、彼女に対する明確な警告だった。
「君のことは評価していた。だが、これ以上はプロジェクトにとってリスクだ」
石原は書類を閉じ、冷たい笑みを浮かべた。
「君は本日付けでプロジェクトメンバーから外れる。異動先は追って連絡するが、もうこの件には一切関わらないことだ」
その言葉は、海未の胸に突き刺さった。しかし、石原の言葉にはさらに追い打ちがあった。
「それから、内部通報の件だが……もう手遅れだ。君の提出したデータはすでに削除され、調査も行われない。何も変わらないんだよ」
その瞬間、海未は全ての力が抜けるのを感じた。自分の努力が、正義の信念が、こんなにも簡単に潰されてしまうのかと。
「……わかりました」 海未は震える声でそう答え、立ち上がった。部屋を出るとき、三浦と一瞬目が合ったが、彼は何も言わずに視線をそらした。
石原は何の痛みも感じていない。 三浦も、あんなに正義感が強かったはずなのに、今はただの傍観者だ。 結局、彼らは何も変えられないし、変えようともしない。ただ上からの命令に従い、保身に走るだけだ。
まるで、道化師だ——。
海未は心の中で舌打ちをした。
デスクに戻ると、海未はモニターを立ち上げた。こっそりと手元に残していたバックアップファイルを開こうとした瞬間、胸に嫌な予感が走る。クリックしたフォルダは、空っぽだった。
「……え?」
目を疑い、何度もフォルダを開き直す。外付けドライブ、クラウドストレージ、念のため自宅のVPN経由で保存していたファイル——その全てが消えていた。
それだけではない。二要素認証はいつの間にか無効化され、個人のSNSアカウントさえも「存在しない」というエラーを吐き出した。権限がないのではない。まるで最初から彼女という人間がこの世に存在しなかったかのように、デジタルの足跡が徹底的に消し去られていた。
これまで必死に積み上げてきた証拠が、煙のように消えた。あれほど慎重に保管したバックアップさえも跡形もない。
「……本当に、無駄だったんだ」
小さく呟いたその声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
すべてが音を立てて崩れていく感覚。自分が信じてきたものが、簡単に踏みにじられる現実。
その瞬間、海未は心の奥で何かが折れる音を聞いた。
父の言葉が脳裏に浮かぶ。
『正義を貫くことが、必ずしも正しい結果をもたらすわけじゃない——』
つい昨日、この言葉に反発した自分を思い出す。
それでも、今は痛いほどその意味がわかる気がした。
正しさだけでは、何も守れない。
誰かを救うどころか、自分すらも救えない。
自分は何のためにここにいたのか——その答えが、もう見えなかった。
気づけば、海未は退職届のフォーマットをダウンロードしていた。
まるで手が勝手に動いたかのように、何の迷いもなかった。
もう何もかもが馬鹿らしくなったのだ。
上司の三浦にメールで退職の意向を伝えた直後、オフィスの空気は一気に冷たくなった。
数時間後、人事部から形式的な面談の案内メールが届き、淡々とした手続きの流れが始まる。
翌日、人事担当者との面談で形式的な質疑応答を済ませると、「二週間後が最終出社日になります」と事務的に告げられた。その冷たさに、かえって心が楽になった気がした。
(もうここに未練なんてない……)
最終出社日までの数日間、オフィスの同僚たちは海未に対して奇妙な距離を保った。
瑞季も何かを言いたそうな顔をしていたが、結局、彼女の口から出たのは「……無理はしないでね」という一言だけだった。
そして、最終出社日の午後。海未は必要最低限の引き継ぎ資料をまとめ、淡々とデスクの片付けを終えた。最後にオフィスを出るときも、誰からの見送りもなく、静まり返った廊下の蛍光灯だけが無機質に光っていた。
帰宅途中、スマホを取り出して父にメッセージを送った。
海未:「今日、会社を辞めた。」
数分後、父から返事が届いた。
父:「そうか。お疲れ様。」
その短い言葉が、胸の奥にじんわりと広がる。
結局自分は、父が言ったように「見て見ぬ振り」をしてしまったのかもしれない。
しかし、今は不思議と怒りや悲しみはなかった。ただ、全てが空虚に感じられるだけだった。




