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夜の東京は、昼間とは違う顔を見せる。街灯の明かりが路面に反射し、車のヘッドライトが途切れなく流れていく。オフィス街の喧騒を抜けた後も、歩道には同じように疲れた表情の会社員たちがちらほらと歩いていた。
海未は、ふとスマホの画面を見た。時刻はすでに午後9時を回っている。仕事帰りにわざわざ立ち寄るには少し遅い時間だったが、どうしても顔を見ておきたかった。
父のいる実家へと向かうのは、久しぶりだった。
最寄り駅から実家へ続く道を歩く。夜の住宅街は静かで、遠くから犬の鳴き声が聞こえた。玄関の前で一度深呼吸をし、鍵を押すと、数秒後に扉がゆっくりと開いた。
「……おかえり」
父の声がした。
廊下を進むと、奥の居間からテレビの音が漏れていた。薄暗い部屋の中、父はソファに腰を下ろし、ニュース番組を無表情に眺めていた。老いた背中は、かつての官僚時代の威厳をすっかり失っていたが、それでもどこか張り詰めた空気を纏っている。
「ただいま」と海未が声をかけると、父はちらりと彼女に視線を向けた。
「おかえり」
そう一言だけ返し、すぐにテレビへと目を戻した。
海未は一瞬ためらったが、意を決してソファの隣に腰を下ろした。しばらくの間、二人の間に流れるのはニュースキャスターの声だけだった。
「……父さん」
海未は低い声で切り出した。
「ちょっと相談があるんだけど」
父は微かに眉をひそめたが、特に驚いた様子もなく頷いた。
「なんだ?」
海未は深呼吸してから口を開いた。
「今、私が担当している経産省の補助金プロジェクトで、不正送金の痕跡を見つけたの。真田工務店——大手のゼネコンなんだけど、地方の建設会社や関連業者と組んで、かなりの額を不正に動かしている可能性がある。そして……その流れを見ていると、どうも政府自体が関与しているようにしか思えないの」
自分で言いながら、言葉に重みが増していくのを感じた。
「まだ確証はない。でも、補助金の流れを追っていくと、不自然な点が多すぎる。ただのゼネコンの不正というより、もっと上のレベルで資金が操作されている気がする……」
父はしばらく無言のままだった。
テレビの音がやけに耳に刺さる。
数秒後、彼はリモコンを手に取り、テレビの電源を切った。
そして、海未の方をじっと見つめる。
それは、いつもの父の表情ではなかった。
「……それで?」父は静かに問いかけた。
「私はこれを内部通報しようと思ってる。黙って見過ごすわけにはいかない」
その瞬間、父の表情がわずかに強張った。
小さくため息をつき、手元のコーヒーカップを軽く揺らした。
だが、何かを言おうとして口を開きかけ、結局それを飲み込んだように見えた。
「海未、お前……」父はしばらく言葉を選んでいた。
「……これ以上、深入りするな」
その言葉の重さに、海未は一瞬、息を呑む。
ただの「心配」ではない。
そこには、もっと強い、何か確信めいた警告が込められていた。
「どうして?」海未の声がわずかに震えた。「父さんも官僚だったでしょ? 正しいことを貫くために働いてきたんじゃないの?」
父は乾いた笑みを浮かべた。
「正しいこと……?」
彼は少しだけ首を振り、ソファにもたれかかった。
「正しいことを貫こうとした結果、何が起きたか、お前は知っているだろう」
その瞬間、海未の脳裏にあの夜の光景がフラッシュバックした。
家中に立ち込めた黒煙、壁を這う炎、母の悲鳴。
父が必死に家族を外へ連れ出し、家が燃え尽きる様を呆然と見つめる姿。
「俺は……」父は静かに続けた。
「あのとき、財務省で政府の不正を暴こうとした。でも結果はどうだった? 家を燃やされ、家族を危険に晒し、結局何も変わらなかった。お前は無事だったが、俺は……もう戦えなかった」
海未は黙って父の言葉を聞いていた。
理解はできる。父が守りたかったものは家族だったのだろう。
——でも、それでも。
「私は……父さんとは違う」
海未は静かに言葉を紡いだ。
「私は、逃げない。たとえ怖くても、正しいことをしなきゃいけないと思う」
父は目を閉じ、再びため息をついた。
そして、ゆっくりと目を開き、淡々とした声で続けた。
「お前は、俺と同じ道を歩いている」
「——え?」
「深入りすれば、お前も……俺と同じことになるかもしれない」
父の目は、まるで海未の未来を見透かしているようだった。
だが、次の瞬間、彼は少し視線をそらし、小さく笑ったように見えた。
「でも、お前がそう思うなら……好きにすればいい」
それは半ば諦めのような、優しさと投げやりがないまぜになった響きだった。
「お前の気持ちが、俺には分かる。だからお前を止めようとしたって、止めることはできないだろう——ただ、覚えておけ。正義を貫くことが、必ずしも正しい結果をもたらすわけじゃない。むしろ……痛みしか残らないこともある」
その言葉に海未は何も返さず、立ち上がった。
部屋の重い空気を振り払うように、自室へ向かい、ドアを閉めた。
実家の自分の部屋に入ると、時間が止まったような感覚に襲われた。
最後にここで夜を過ごしたのは、いつだっただろう。大学を卒業して一人暮らしを始めてから、たまに帰ることはあっても、ほとんどが短い滞在だった。部屋のレイアウトは昔とほとんど変わらない。ベッドの隅には大学時代に使っていたノートがそのまま積まれているし、本棚には高校時代の教科書まで残っていた。
デスクに近づき、そっと椅子に腰を下ろす。デスクの上には、学生時代に使っていたものがいくつか置かれたままだったが、今ではすっかり違和感を覚える。実家の部屋は昔のままなのに、今の自分だけが、前へ進み続けているような気がした。
海未はゆっくりと深く息を吸い込み、目を閉じた。
(父さんとは違う……私は逃げない)
そう自分に言い聞かせながら、バッグからノートパソコンを取り出し、電源を入れる。画面が光を放ち、静まり返った部屋の中にかすかな電子音が響いた。
内部通報のための資料を整理する必要があった。発見した不正送金のデータ、真田工務店と関連会社の関係図、バミューダ諸島のオフショア口座への送金履歴——これら全てをまとめて、適切な部署へ通報する準備を進める。
しかし、作業を進める手はどこかぎこちない。心のどこかで、父の言葉が引っかかっていた。「正義を貫くことが必ずしも正しい結果をもたらすわけじゃない」——その言葉が、まるで呪いのように頭の中で響く。
(そんなことはない。私は大丈夫)
自分にそう言い聞かせる。父のように折れるわけにはいかない。あの火事の夜に見た、燃え尽きた家と諦めた父の背中。それが彼女の中に強く焼き付いている。
しばらくすると、スマホの画面が光った。瑞季からのメッセージだった。
瑞季:「やっぱり最近元気ないみたいだけど、大丈夫? 無理しすぎないでね」
海未は一瞬返信をためらったが、短く打ち込んだ。
海未:「ありがとう。でも、大丈夫。少し大事なことに取り組んでるだけ。」
スマホを置き、再び画面に向き合う。内部通報のフォームを開き、必要なファイルをアップロードしていく。一つ一つのファイルを添付するたびに、心臓の鼓動が早くなる。
(これでいい……これで、不正は暴かれる)
送信ボタンを押す前に、深呼吸した。父の言葉が再び頭をよぎるが、それを振り払うように指を動かす。
——クリック。
送信完了の表示が画面に現れた。
海未はしばらくその画面を見つめ続けた。全てが終わったわけではない。でも、少なくとも自分は一歩を踏み出したのだ。自分は父のように屈しない。それだけが、彼女の中の揺るぎない信念だった。
(私は正しいことをした……きっと)
その夜、海未はなかなか眠れなかった。部屋の静けさがかえって不安を煽る。それでも、彼女は信じていた。この道が正しいと。




