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衛星の夜 2

 ヒュッゲ以外の『何か』に打ち込んだ夜は久しぶりだった。


 公開授業から学校に戻った後、できる限り最速で学級事務を終わらせ、空いた時間を、完成させていた授業の見直しに当てた。夏休みまで後一ヶ月という期待感が、学級を騒がしくしたり歪めたりする。このタイミングで楽しく実りのある授業をするということは、子どもたちの学習においても意味のあるものになるはずだと思った。


 昴は、数ある教科の中で社会を選んで重点的に見直した。社会はどうしても遅れがちになる。夏休みが終わるまでの授業をもう一度考えなければならないという理由もあったが、元々社会は単調になりがちだと思っていた。特に歴史の授業は、教科書の中を読んで知識をノートに写すだけになりがちだ。彼女が行った、二択を提示して考えさせる方法を使えば、単調な社会にも新しい風が吹かせられると思った。


 授業のうまさに、新人かベテランかは関係ない。大事なのは、いつも新しくいられるかどうかだ。


 授業が上手くなるということは、既存のやり方に依存し、新しい方法を試さなくなるということでもある。どれだけ自信があったとしても、教師が陥りやすいこの罠に自分もまんまとハマっていたというわけだ。


 教材研究は、家に帰ってからも続いた。


 その夜も、時間が短い、という気持ちに襲われた。しかし、今までのそれとは意味がまるで違った。やりたいことがあるのに、それに懸ける時間が足りない夜とは違う。やりたいことに熱中し、他の情報の一切遮断した夜。世界を回っていた時に感じていた感覚だ。旅行が始まる前には三日もあると余裕を感じていたのに、帰国する飛行機に乗る瞬間は一瞬だったと思う、時間という概念を思い出す瞬間、圧縮された時間が一気に体に入り込んでくる感覚。


 教師として成長するにつれ、忘れていた。この授業、明日の子どもたちは楽しんでくれるかな。その気持ちだけで、夜を明かすエネルギーが生まれていたあの頃。


 時間を忘れて「何か」に打ち込める贅沢さ。


 その夜は、飾り付けしたベランダも、世界の珈琲も、COLTSも必要なかった。


 いつもの、寝る前の一時間を持て余すヒュッゲとは違う。ただただ机に向かい、どうすれば彼女の想いを救うことができるか。どうすれば彼女の想いを残したまま、子どもたちが楽しいと思える授業ができるか。それのみに没頭した。机に向かう時間は、確かにヒュッゲほどの自由はないかもしれない。しかし、持て余していたあの退屈も、そこにはなかった。


 不安は、自由のめまいである。


 多分、俺に羽があれば、飛べるところまで飛んでいくだろう。人は誰しもそうだと思う。けど、どこまでも飛んでいけたとしても、空から地上を見下ろした時には「落ちたらどうしよう」という不安に襲われるだろう。俺のヒュッゲの中にはそういう不安があった。少しの自由な時間はあるが、この夜の一時間はいつまで続くのだろう、と。もしかしたら、もう一生続くのかもしれないという絶望が。


 ベランダも珈琲も必要としない、教材研究に打ち込んだ夜は自由こそなかったが、不安もなかった。その夜は、今まで吸ってきた何十本のCOLTSより濃密で甘かった。


 だから、この授業はうまくいく。うまくいってほしいと思っていた。


 授業は、あまりにも滞りなく進んだ。


 縄文時代と弥生時代の文化を比べ、互いがどんな生活を送ってきたのかまとめる授業をした。座ったままだと退屈だと思い、縄文土器と弥生土器のレプリカを買って、実際に触らせた。触れることで、違いがよりはっきりわかると思った。


 実際子どもたちは、その違いを理解できた。実際に触れて体感するということが、子どもたちの理解を加速させた実感もある。


 しかし、こういう体感をメインにした授業にしては、滞りがなさすぎた。


 授業終了後、教師用のタブレットを操作する昴のもとに、クラスで一番元気がある達也が来て尋ねた。


「先生、その壺自腹?」


「あぁ、そうだけど?」


 答えると、達也はニヤニヤしながら言った。


「えぇ(笑) もったいな(笑)」


「どういう意味だ?」


 達也の声は大きいから教室のどこまでも届く。その声に釣られて、クラス一の食いしん坊の笹山と、委員長の飯村も集まってくる。


「どうしても実際に触って体感してほしくてな」


「そんなものにお金を使うより、食料とか必要なものに使った方がいいですよ(笑) 物価高ですし(笑)」


 笹山は、給食にあまりがあれば必ず手を挙げる。その食欲は家でも遺憾無く発揮されているらしい。その無差別な食欲が、物価高の世の中を生きる家計を圧迫していることには気づいていない。


「でも実物があった方がわかりやすかったろ?」


「『それってあなたの感想ですよね?』(笑)」


 飯村の眼鏡の奥の瞳がギラリと光る。言わずもがな、ネットでミーム化された言葉だ。議論するときは感想や感情で話すのではなく、事実やデータを伝えるべき、というタイミングで使われた言葉を、飯村を含め最近の小学生は人を黙らすことに使う。そもそも、ネットで流行ることを、ミーム化と呼んでいる。


「なんだかんだ言いながら、お前たちしっかり考えられて答えられてたじゃないか」


 笑顔でそう伝えても、心は全く笑えなかった。教卓の上では、自腹を切って買った二つの土器が、静かに佇んでいる。


「そうですけど(笑)」


 しばらく操作しなかったタブレットが、スクリーンセーバーが映し出される。中心に学校名が表示され、その文字が回転する。そのほかは、真っ黒の画面だ。


「今日の授業って、スマホで調べれば分かるし、自分の考えなんてAI使えば簡単にまとめられますよね(笑)」


 その真っ暗な画面に、昴の目が写る。その目は、あの日の彼女とそっくりだった。研究授業の後の事後研究会でどれだけ必死に訴えかけても、自分の授業の意図が全く理解されなかった彼女の瞳。自由にめまいした夜を乗り越え考えた授業の良さが伝わらなかった時の昴の瞳と彼女の瞳がぴったり重なる。


 授業の良さに、かけた時間は関係ない。どれだけいい授業をしたとしても、子どもとそれを見る先生が良さを受け取ろうとしなければ、届かない。


 どれだけ知識を授けようとしても、結局スマホには敵わない。子どもたちの疑問符を解決する力は、AIには敵わない。


 だったら、毎日夜遅くまで授業を考えているあの時間はなんなのだろう。暇を持て余すあのヒュッゲはなんなのだろう。彼女の努力とは、一体なんなのだろう。


 教師とは一体、なんなのだろう。


 きっと彼らには、実際に土器のレプリカを用意する俺は、さぞ滑稽に映っただろう。実際に世界に旅行に足を運び、世界の本物を見てきたといえばさぞ愚かに見えるだろう。


 なぜなら、世界は全て、スマホの中にあるのだから。


 そしてそれは、子どもの手のひらに収まるほど小さい。



*****



 七月の生ぬるい夜風に吹かれながら、COLTSの煙草を眺める。どうしても吸うことができない最後の一本。吸ってしまえば、今まで取り込んだはずの世界が身体から霧散してしまうような気がする。


 アーケード街は今日も明るかった。点々と光るあの一つ一つの灯りの中では、きっと誰かが笑って過ごしているんだろう。店先で、飲み屋の中で、カラオケで、一つの夜を満喫しようとした人のエネルギーが、アーケード街に灯かりを灯しているのだろう。


 俺は、この煙草一本にすら灯りを灯すことができない。煙草を巻いたのはもう随分と前になるというのに、どうも名残惜しくて吸うことができない。甘い味がすると覚えちゃいるが、それがどんな味だったのか、思い出すことができない。


 土器を笑った子どもたちの笑顔だけが、レーザーポインターを目に当てられたときの光のように、強く瞼の裏に残っている。


 限りなく膨張したヒュッゲの中、昴は自由にめまいする。


 世界は、スマホさえあれば歩き切ることができる。ストリートビューを開けば世界の名所を巡ることができるし、世界中にある名物や名産の知識を取り入れることができる。極端なことを言えば、未成年だってCOLTSが甘いということを説明することだってできる。


 知識を入れるならば、スマホで調べる方がいいんだろう。わざわざノートに書かなくても、AIに頼めばものの数秒で大切なことをまとめてくれるのだろう。


 世界は今、手のひらの上で全てが完結する。


 あのアーケード街の灯かりの下のことだって、調べれば分かる。店先で何が売られているのか。飲み屋にはどんなメニューがあるか。カラオケにはどんな機種が導入されているか。


 教師は、子どもたちから見れば出来の悪いAIなのだろう。


 知りたいことを自分で考えろと言う、何かに残したければ自分で書けという、上から目線のAI。それならば、黙って言うことを聞く手のひらの上のAIの方がはるかにいいだろう。


 教師は、AIの方がいいのだろうか。知識は機械が与えればそれでいいのだろうか。生身の人間が、先生をする意味があるのだろうか。


 教師とは、一体なんなんだろう。その想いだけが、どうしても剥がれてくれない。


 COLTSを握る力が自然と強くなる。たまらず見上げた夜空には、星がいくつも浮かんでいた。


 星は、夜になれば自然と姿を表す。夏には蠍座が、冬にはオリオン座が示し合わせたように姿を見せる。決まった時間に決まった動きをする。星もまた衛星なんだ。


 刹那。規則正しく整列する星空を、一筋の光が切り裂いた。


 うおぉ。流れ星だ。ひっさしぶりに見たなぁ。


 ペルセウス座流星群。七月下旬ごろから流れ始める流星群で、八月に極大期を迎える。先に流れる山羊座と水瓶座の流星群に混じり、ひと足さきに一際明るいペルセウス座流星群が流れる時がある。


 ニュースやスマホで得た知識が、真っ先によぎる。しかし、『その一際明るい』という表現を基に輝く頭の中の星より、本物のペルセウス座流星群は煌々と輝いていた。


 ペルセウス座流星群は、雨のように降り注いでいた。それは、一瞬儚く流れる涙のようにも見え、夜の空に星を縫い付ける糸のようにも見えた。中には音が聴こえてきそうなほど大きく、雄大なものもあった。「願い事をここに! ここに集めるのだ!」という想いを、光、音、大きさの全てを用いて体現しているのかと思った。


 気がつくと、COLTSに火が灯っていた。


 星は規則正しく動くものだけではない。夜にだけ輝くだけのものでもない。スマホはもちろん教科書にも載っていることなのに、今の今まで忘れていた。


 スマホの中には世界がある。星もあれば煙草もあるし、料理の味もあれば見たことない物もある。


 でも。


 スマホは世界のすべてを一つの画面に映し出すことはできない。流星群の星の数を表せても、実際の夜空に星を流すことはできない。スマホに料理はできないし、見たことないものを作ることもできない。


 実際に見ることができるのは、結局人なんだ。


 いつの間にか短くなったCOLTSを一思いに吸い込む。


 そうだ。この煙草、バニラの味がしたんだ。


 甘いと分かっていた煙草の味は、バニラの甘さだった。


 赤くなるタバコの先を、灰皿に押し付ける。今まで軌道に乗っていた煙が、灰皿に押し付けられた衝撃で無秩序に上昇する。


 新人の授業に学ばされることがあることを、俺は知っている。星はいつでも輝いていることを、俺は知っている。世界は広いと言うことを、俺は知っている。


 知っては忘れ、また思い出す。その度に、世界の広さに驚かされる。


 明日から夏休み。子どもたちが来ないとはいえ、やることはたくさんある。だから、今日はもう、絶対に寝た方がいい。


 けれど。


 新人の授業を見なければ。世界を歩かなければ。たまたま夜空を見上げなければ。


 毎日同じところを通る衛星軌道を外れなければ見えない世界があることを、俺は知っている。


 部屋に戻り、コーヒーをマグカップに注ぐ。部屋に充満するコーヒーの香りが鼻をくすぐる。デスクに上に整えられていた参考書を床に放り投げても、全然気にならない。


 スペインへ行こう。日本でも食べられるパエリアを食べて、ニュースで結果を確認できるサッカーを見て、スマホで見れるサグラダ・ファミリアを見よう。そんでもって家にあるのと同じコーヒー豆を買えばいい。今からのネット予約でも、飛行機のチケットは取れるだろう。年休は、明日考えればいい。今からでもネットで航空券は取れるだろう。


 そう思って俺は、パソコンの電源に指を置いた。



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