衛星の夜 1
夜が短い、と思うようになったのはいつからだったかなぁ。
じんわり汗が流れる熱帯夜に包まれながら、珈琲を片手に街を見下ろしながら、森永昴は、ふう、と呼吸を一つベランダに置いた。
町外れの少し高いところにある三階建のアパートからは、昴が勤務する小学校を含む町を一望することができる。都会でも田舎でもない町だが、それなりに活気のある町だった。夜の十時になっても、アーケード街の明かりは煌々としており、新人の頃はよくそこで同僚と酒傾けたものだ。
いつでもキャンプの気分を味わえるよう、ベランダに簡単なテーブルと椅子を置いている。ゆらりとゆらめくキャンドルと香りの高い珈琲を机に置き、街を見下ろしながら煙草を吸うことが最近の日課だ。大学の頃、バックパッカーをしながらかき集めた、香りに富んだコーヒーを啜りながら、街を眺める。このひと時が、明日も先生もして頑張るという活力に変わる。
本当のことを言ってしまえば、平日の夜はこのくらいのことをする時間しか残っていない。余裕があっても、日々を楽しむ活力は残されていない。
今年は六年生を担任している。最高学年になると勉強が難しくなるだけではなく、あらゆる面に気をつけて指導に当たらなければならない。思春期に片足を突っ込み始めた子どもたちの心身の変化は、大人が思っているより劇的なものだ。日々、ビックバン級の変化が訪れていると言ってもいい。放っておけば人間関係の衛星軌道から大きく外れ、いじめや絶縁といった大きな問題に発展しかねない。そんなスペースデブリを生まないために、日々細やかな観察と指導が必要となる。
教師は、子どもたちをいろんな角度から観察し続ける人工衛星でなければならないのだ。
大きく軌道が逸れないよう、放課後に細かい生徒指導を行うと、どうしても授業の準備は後ろへ後ろへと押し出されていく。そこに学級事務や行事、期末特有の成績作業が加わると、どうしても帰宅するのは夜の十時を超えてしまう。
それ自体に大きな問題はない。生徒指導、授業の準備、学級事務、行事、成績つける作業。これら全ては毎年繰り返していることだ。初めはつまずくこともたくさんあったが、慣れていけば例年同じことをするだけになる。多種多様になる子どもたちも、根は子どもだ。持っている対抗手段に少し工夫を加えれば、授業の仕方も生徒指導も、今の子どもたちにも十分通じる手段に変わる。しかも、今の小学校に赴任してからはずっと六年生の担任をしている。六年生の担任は骨が折れるが、惑星の周りを周回する衛星と同じように軌道に乗ればどうということはない。
ベランダのテーブルには、一本の煙草とCOLTSと書かれた缶が置かれている。さっき自分で巻いた、デンマークの煙草だ。昔デンマークに行ったとき、大量に買い込んだ手巻きに大量に買い込んだはずだが、吸い続けた結果、もう一本分しか残っていない。
煙草の煙を見ていると、不思議に思うことがある。煙は霧散していくのではなく、まるで道筋が決まっているかのように舞い上がっていく。その立ち上る煙をまとうマッツ・ミケルセンが格好良すぎて、喫煙を始めた。COLTSという銘柄の煙草は、タバコ葉の刻みが細かく、適度な湿り気があるため、手で巻きやすく初心者から愛好者まで幅広く支持されている。吸ったときに感じる甘い味が特徴で、ニコチンとは別の中毒性がある。単体で吸うのはもちろん、他の無着香タバコやメンソール系の葉と混ぜて自分好みの味を作るベースとしてもよく使われている。
初めて吸った時はその甘い香りよりも、世界が体の中に入り込んでいく気がして、なぜかガッツポーズまでして喜んだっけ。
デンマークに初めて訪れたのは、高校生の時だった。その高校はデンマークに姉妹校を持っており、毎年何人かの留学生を送り合っていた。高一の頃、クラスにデンマークからの留学生が来た時の衝撃は今でも覚えている。教室に一人外国人がいるというだけで舞い上がっていたのは確かだが、一番驚いたのは彼女のもつ価値観だった。
デンマークには、「ヒュッゲ」と言われる人生観がある。「ヒュッゲ」とは気のおけない家族や友人と、心地よい空間で温かい時間を共有するという意味がある。日本にも心地よい空間を作る意味で「おもてなし」という言葉があるが、「ヒュッゲ」とそれは少し意味が異なる。
日本の「おもてなし」は、他者への配慮や気遣い、つまり相手にどう思われるか、相手が快適かという客観的な視点に重きが置かれている。一方で「ヒュッゲ」は、もっと内省的だ。自分たちが今、どれだけリラックスして心地よいと感じているか。主観的な心の平穏を最も大切している。気疲れするような背伸びや、他者への過剰な義務感は「ヒュッゲ」にはなく、誰もが自然体でいられるようにまずは自分が自然体になる。同じ配慮を表す言葉なのに、価値観が違えばこうも結果が違うのかと、銃で撃たれたくらい衝撃を受けた。
自分の知らないことが、世界にはまだまだある。
そのとき受けた衝撃をエネルギーに、俺は世界を飛び回ることができた。
キャンドルの蝋が、どろりと溶けて垂れる。珈琲の中にあった氷も溶け、熱帯夜に晒され続けた結果ぬるくなってしまった。この退屈な夜を満たすことができるのはCOLTSしか残っていない。
けれども。
どうしても、煙草に火をつけることができない。
時間が経てば、どれもそうなる。蝋は溶けるし、珈琲はぬるくなるし、いつかは煙草に火をつけることができる。
六年生の担任がどれだけ大変でも、続けていれば慣れてくる。どれだけ仕事が遅くなったとしても、一人ヒュッゲを楽しむ時間はある。
衛星は、打ち上げるのが大変でも、軌道に乗れば回り続ける。
近頃の俺も、ただただ衛星の同じところを回り続けている。
ある程度仕事で躓くこともなくなり、一人の時間もある。仕事にも生活にも、不満があると言い切ることはできない。楽しくない、と言い切ることができない日々を送らせてもらっている。一度打ち上げられた衛星のように、多分俺は仕事や日々の生活の軌道上をうまく回り続けている。
続けている。続ける。続く。
いつまで?
最近、心が動く授業してない。できていない。子どもたちが夢中になる授業を。学力につながりながらも、子どもたちが楽しかったと笑顔で終われる授業を。
ぬるくなった珈琲を啜りながら月を眺める。曇っていない限り、毎日太陽の光を反射し続ける月。毎日毎日懸命に地球の周りを周回し続ける衛星。
俺はおそらく、あの月のように輝けてはいない。
昴は月を眺めながら、ある一人の教師を思い出していた。
一週間前。同僚という敵の監視の目に晒されながらも、自分の思いを子どもたちにぶつけていた若い教師を。子どもという圧倒的な光を精一杯反射させようとしていた、彼女の熱を宿したまっすぐな眼差しを。
*****
車を走らせながら、昴の心は少し踊っていた。
学校での一日も、軌道上を周回する衛星とよく似ている。決まった時間に決まったことをするのが学校だ。出勤してから子どもたちが下校するまでの間。月曜日から金曜日までの間。四月から三月までの間。決められたいくつもの軌道上を、ただ周回する。退屈を感じるなと言われる方が難しい。
そんな軌道上の中にも、たまにコースを外れなければならない瞬間がある。子どもたちから発生するトラブルへの対処とはまた違う、無限に広がる宇宙のような未知の仕事が。
出張や研修といった、軌道の外への運動だ。
その日は他の学校の公開授業の参観だった。自校の研究だけではなく、他校の取り組みに生で触れることで、お互いの学校に良い影響を与え合う取り組みが各自治体で行われている。学校の中の仕事も悪くはないが、こうして一時間だけでもいつもと違うことをするだけで、その週は輝きが増す。
授業を担当するのは、二年生を担任する二年目の教師らしい。事前に送られてきた指導案は、夜の間に目を通してある。どうやら国語科「スイミー」の授業をするらしい。その教師が受け持つ二年生のクラスは、勉強が苦手な児童が多いらしい。やる気は十分すぎるくらいあるらしいのだが、読解力が二年生の平均に追いついてないようだ。先生は、日々様々な取り組みを行っているようだが、どれも鳴かず飛ばずで、それでも子どもたちが危機感を覚えないことに危機感を感じているらしい。自分が取り組んでいることに対し、すぐに結果が出ないことは教師の常だが、指導案を読んだだけで彼女がどれだけ苦労しているかが読み取れた。日々奮闘する先生とそれを読み取れない子どもたちのやり取りを想像すると、思わずくすっと笑ってしまった。
「スイミー」の授業の目的は、比喩表現の良さを感じ取ることにある。「ゼリーのようなクラゲ」などの様々な比喩表現が使われているのは「スイミー」の面白さの一つだ。子どもたちにはあえて「赤や青のクラゲ」という誤った文を提示し、「〜のような」という言葉が使われているに気づかせる。その後「ゼリーのようなクラゲ」と「赤や青のクラゲ」のどちらが綺麗に思えるかを考えさせる。比喩表現には「〜のような」「〜みたいな」という言葉が使われており、比喩表現使った方が表現としては綺麗だねという結論に落とし込むらしい。
面白くはある。が、危ない橋でもある。読解力がなく、自分の考えをもつことが苦手な児童のために、どちらの方がよいかわかりやすく二択にするまでは良いと思う。しかし、そういう授業はその後に自分でなぜそっちの方がいいのか言語化できなければぼんやりとした授業になってしまう。二択の一つを選んで、なんでかは分からないけどこっちの方がいい、という結論で終わってしまうこともあれば、好き勝手に考えを書いて話し合いが明後日の方向に進んで行くこともある。最悪の場合、比喩表現を使った方が綺麗になるという結論まで辿りつかない可能性もある。今日の授業で彼女が試されているのは、どれだけ綿密に授業の計画を立てることができたか、計画した授業をつつがなくこなす練習された力ではない。子どもたちの意見を集め、どうひとつの結論に導くかの即興力が必要だと昴は確信していた。
おそらく、これは彼女なりの挑戦なのだろう。
いい。すごくいい。
久々に読むだけでクラスの状況と、今日やりたいことが明確に伝わってくる指導案を読んだ。過去に行ったであろう授業の焼き直しや使い回しではなく、目の前の児童と本気で向き合ったことが伝わってくる指導案。ハンドルを握る手にも、自然と力が入る。
学校に着いたのは授業が始まる五分前だった。県道から外れたところに校舎があり、しかもその校舎は木々に囲まれていたため、見つけるのに時間がかかってしまった。できれば早く教室に入りたかった。いきなり知らない先生が入ってくれば、それだけで教室の空気が授業の軌道からずれる。顔を見てもらって知らない人に慣れてもらいたかったが、こうなってしまってはもう仕方がない。
授業は難航していた。予想していた通り、比喩表現に「〜のような」「〜みたいな」という言葉が使われていることに気付くことはできた。しかし、それの何がいいのか、なぜ青や赤などの具体的な言葉ではクラゲの良さを表現しきれないのかを説明できる児童は誰もいなかった。
結局教師が「比喩方言の方がクラゲの様子がよく伝わってくるからきれいだいね?」と尋ねてしまい、先生が作り出した軌道に児童を無理やり乗せて、結論まで突っ走ってしまった。
教師が無理やり結論づける授業はあまりいい授業とは言えない。できるなら、子どもたちに辿りつかせたい。
結果だけ見れば失敗だが、狙いは悪くなかった。子どもたち同士で結論に辿り着けるならそれに越したことはない。最初から最後まで教師主導で授業を行うより、子どもたちが主体性を持って授業に臨めるならそっちの方がいいに決まっている。今回は、先生の技術が研究授業のために得たであろう知識に追いつかず、このような結果になってしまった。しかし、これは彼女なりに挑戦した結果だ。公開授業は必ずしも成功すると約束されたものを、参観してくれた先生に見せなければならないというものではない。むしろ失敗した授業の方が、この授業はどうすれば成功したのかという議論が盛り上がる。池に小石を投げ込んだときみたいに、良くも悪くも波紋を呼ぶ。その波紋を乗り越える過程に、授業力向上の秘訣があると確信している。失敗をいつまで失敗のままにしておくか。今日の授業が本当に失敗したかどうかは、この先の彼女にかかっている。成功した授業に価値がないとは言わない。本人には申し訳ないが、失敗した授業を見る方が勉強にはなる。
それに、結果よりも彼女自身の熱を感じることができた。久しぶりに誰かの挑戦を見た。毎日、毎週、毎年繰り返される軌道に、無秩序ではあるが新たな軌道が生まれる感覚。知らず知らずのうちに自分の授業も凝り固まっていたのだと気づかされる高揚感。自分は教師としてまだまだ新しくなれる。この瞬間に教師という職のやりがいの一つが内包されていると思う。
お礼を言わなくては。失敗かもしれないがいいものを見せてもらったと。子どもがどれだけ答えられなくても、どれだけノートが書けなくても、彼女は諦めてなかった。先生から見た授業の内容は失敗かもしれないが、その熱意は必ず子どもたちに伝わっている。
消えかけていた篝火が、心の中で息を吹き返すのを感じる。
「藤岡先生、本日は———」
汗だくになりながら黒板を消す彼女のもとに歩みを進めようとしたそのときだった。
「だから言ったのになぁ」「藤岡さんは三年目なんだから、特殊なことしないでひとつひとつ確実なことしていけばいいのに」「この後の研究会でしっかり言ってやらなきゃ」
彼女の、同僚の、声だった。
その後の研究会は散々だった。我々外部から来た数人の教師が、失敗に触れながらも彼女の取り組みについて良かったところ、今日の授業の改善点について語る中、彼女の同僚は悪かったところをつらつらと吐き出すだけだった。
そのどれもが、批判をするにはあまりにもテンプレート的で、しかもそれに対する解決策については誰も何も言わなかった。
ダメ出しされ続けた藤岡先生の背中を、今でも忘れることができない。
なぜ一番近くで働いている同僚たちが、この授業の良さを見ることができない? 失敗したとはいえ、あれほど有弁な指導案からなぜ何も感じない? なぜ彼女の努力を一番見てきた同僚が、外部の人間である我々がいる前で味方をしてやれない?
なぜ、あの目の輝きを直視できない。一等星に勝る、あの勇気の炎を。
毎日の、毎週の、毎年の周回軌道上なぞっていることになんの疑問ももたない人間には、テンプレート的な批判しかできない人たちには、あの輝きが理解できないのかもしれない。おそらく彼らは、年が変わって子どもが受け持つクラスが変わったとしても、たとえ百年後であっても古代の授業をするのだろう。教師は停滞してしまえば、子どもたちの成長が止まってしまうというのに。子どもたちを成長させるのが、教師であるはずなのに。
車に乗り込むと、七月中旬の日差しに熱せられた車内が地獄のように暑かった。明日の準備はできているし、旅行命令簿を作成した際に直帰の選択をしたからこのまま家に帰ることができる。
ハンドルを握る手に力がこもる。
戻ろう、学校に。
エンジンをかけると、二十四度に設定されたクーラーの風が吹き出してきた。あまりに勢いよく出てきたせいで、冷たい風が目にしみた。
失敗をいかに失敗のままにしておくか。
彼女の授業を、失敗なんかにはさせない。




