第9話:匂いは、隠せません
王城の大広間は、しんと冷えていた。
高い天井から差し込む光の下、玉座には国王陛下。その傍らに王太子エーミール。左右には、宮廷の医師と貴族たちがずらりと並んでいる。
(御前検分。——ずいぶんと、大きな席を用意していただいたこと。)
わたしは広間の中央に立って、ひとつ息を吐いた。
背後には、ジークフリート。近衛の礼装に身を包み、腕を組んで壁のように控えている。灰色の瞳が、静かにわたしを支えていた。
(後ろ盾は、要らないと言ったのに。——でも、いてくれると、床が揺るがない。)
正面には、自称聖女オリヴィア。
金の髪を光らせ、両手を胸の前で組み、悲しげに睫毛を伏せている。まるで、無実の乙女がいわれなき讒言に耐えているかのように。
「陛下。わたくしは、ただ人々を癒してまいりました。この身に宿る御力で、傷を、病を、消してさしあげただけ。……それを、毒だなどと」
声がふるえる。まことに巧い。涙まで用意している。
「聖女様」
わたしは淑女の声で、静かに切り出した。
「御力で、傷が消える。結構です。ですが——消えた傷は、どこへ行ったのでしょうね?」
オリヴィアの睫毛が、ぴくりと動いた。
「……なにを、おっしゃるの?」
「傷は、消えません。塞がるか、膿むか、癒えるか。血が止まり、肉が上がり、かさぶたが落ちる——体には、必ず順序と跡が残ります。跡形もなく消える傷など、ありません」
(魔法でなら消える、とおっしゃるなら。では、その魔法は、どこに毒を隠したのでしょう。)
わたしは、傍らに控えていたニナに目配せした。
「こちらは、パン屋のカミラさんに仕えるニナ。カミラさんは、聖女様に三度、癒していただきました。……三度、ですよ、陛下」
ニナが、緊張に頬を白くしながら、はっきりと告げる。
「奥さまは、癒していただくたび、いちど元気になられて——けれど決まって、七日のちに、また同じように倒れられました。手足がしびれ、息が浅くなって。何度も、何度も」
広間が、ざわめいた。
「仕立て屋のヨナスも、花売りのメルダも、同じです。癒される。七日、保つ。また倒れる。——まるで、暦でも見ているかのように、きっちりと」
わたしは、貴族たちの顔を見渡した。
「傷や病が、そんなに律儀に、日を数えて戻ってくるものでしょうか。……戻るのではありません。あれは、盛られているのです。癒しのたびに、また新しく」
「でたらめだわ!」
オリヴィアが、初めて声を上げた。けれど、まだ余裕の残る声だった。
「その者たちが、勝手にまた病を得ただけでしょう。わたくしの癒しに、罪はないわ」
「三人が、そろって同じ症状で。しかも、そろって七日目に?」
わたしは首をかしげてみせた。
「風邪でも、腹くだしでも構いません。三人の別々の病が、判で押したように同じ間隔で戻ってくる病を、聖女様はご存じですか。……わたしは、ひとつだけ知っています。人の手で、間隔を計って盛られる毒だけです」
列の端で、白髭の宮廷医がわずかに身じろぎした。反論しようと口を開き——けれど、なにも言えずに、また閉じる。
(お医者様がた。あなたがたも、本当は、癒しでは説明がつかないと気づいている。ただ、聖女の御力に、逆らえないだけ。)
「では、順序を見ていただきましょう」
わたしは懐から、一枚の紙を取り出した。日付が、几帳面に並んでいる。
「カミラさんが最初に倒れた日。聖女様が施療院に入られた日。——倒れたのが、後です。聖女様がこの街に来られてから、初めて彼女は倒れた」
紙をめくる。
「毒が入る。人が倒れる。聖女様が癒す。人が感謝する。また毒が入る。……この順序、どこかおかしいと思われませんか。癒す方が、いつも、倒れる方の傍にいらっしゃる」
エーミールの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「オリヴィア……そなた、まさか」
「殿下!」
オリヴィアが振り向いて、すがるように叫ぶ。
「殿下は、信じてくださいますわよね? この女は、婚約を破棄された腹いせに、わたくしを陥れようとしているのです!」
エーミールの唇が、動きかけて、止まった。庇う言葉が、出てこない。
(殿下。あなたは、ずっと目を逸らしてきた。けれど、順序は嘘をつきません。数えられた七日は、祈りでは説明がつかない。)
わたしは、最後にひとつ、卓の上へそっと置いた。
祖母の形見の、銀の薬匙。
「これは、毒に触れると曇る匙です。——先ほど、施療院に残されていた、聖女様の癒しの水に浸してまいりました」
匙は、鈍く、灰色に曇っていた。澄んだ銀色は、どこにもない。
広間が、水を打ったように静まった。
玉座の陛下が、初めて、ゆっくりと身を乗り出す。
「……その匙は、たしかに、曇っておるな」
「はい、陛下。銀は、毒に触れれば正直に色を変えます。祈りにも、位にも、へつらいません。——嘘をつかないのは、いつも、こういう者たちです」
「癒しの水に、毒が溶けている。癒しの名で配られていた器の底に、毒が沈んでいた。……聖女様の御力とは、いったい何を、癒していたのでしょうね」
オリヴィアの顔から、演技が剥がれ落ちた。
用意された涙も、伏せた睫毛も、慈愛の微笑も。すべて音を立てて崩れ、そのあとに残ったのは——追い詰められた、生身の女の顔だった。
「で、でたらめよ! わたしは癒しただけ。毒だなんて、そんな……っ!」
声が裏返る。組んでいた手が、ほどけて、右の指先を隠すように、袖の内へ引っ込んだ。
(——いま、指先を、隠しましたね。)
わたしは、その仕草を見逃さなかった。毒を調じる者の指には、必ず跡が残る。爪の際に、匂いが染みる。祈るだけの手には、つかないものが。
そして、この匂い。
癒しの水から立ちのぼった、かすかに甘く、鼻の奥を刺すそれは——ひとりの手のものではない。もっと巧緻な、宮廷の奥に通じる、玄人の調合だ。
(この女の背後に、もうひとり。……誰かが、匙を握っている。)
わたしは、静かに一歩、オリヴィアへ歩み寄った。
隠された、その右手のほうへ。
「聖女様。どうか、その手を、お見せください」
「い、いや……触らないで!」
「化粧では、隠せます。祈りでも、隠せるでしょう。ですが——」
わたしは、逃げる手首を、そっと取った。
「——匂いは、隠せません」
最後まで読んでくださって、ありがとうございます! ついに御前検分がはじまりました。声を荒げず、日付と順序と、曇った銀の薬匙だけで、聖女の「奇跡」を一枚ずつ剥いでいくリーゼ——書いていて、こちらの背筋も伸びました。
そして最後に嗅ぎ取った、もうひとりの気配。次話、隠された指先の毒と匂いから、リーゼの見立てはついに核心へ。逆上した聖女は、誰の名を口走ってしまうのか。断罪の逆転、どうかお見届けください。
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