第10話:聖女様、その傷は誰が作りましたか
握った手首は、細く、そして冷たかった。
「離して! 無礼者……っ、陛下、この女がわたくしに触れて……!」
オリヴィアが悲鳴をあげた。けれどわたしは、力ずくで押さえつけたりはしなかった。ただ、開かれた彼女の右手を、そっと光のほうへ向けただけ。
広間じゅうの視線が、その白い指先に集まる。
爪の際が、うっすらと青い。
(——ああ、やっぱり。)
「陛下。どうか、ご覧ください」
わたしは、彼女の手を掲げたまま、静かに言った。
「爪の際の、この青。これは、兜草の根を、素手で砕き続けた者にだけ残る色です。祈りでは、つきません。癒しでも、つきません。……毒を、自らの手で扱った者にだけ、残る」
「ち、違う……! これは、その、水仕事で……」
「水仕事で、爪だけが青くなる方を、わたしは存じません」
わたしは彼女の手を離した。もう、逃げも隠れもできないと、その目に告げるように。
「聖女様。ひとつ、伺わせてください」
わたしは、努めて穏やかに問うた。断罪ではなく、ただの、確かめのように。
「あなたが癒してきた、あの傷。あの病。あの熱。——それは、誰が、作ったものですか」
オリヴィアの喉が、ひくりと鳴った。
「順序を、もう一度だけ、並べます」
わたしは、貴族たちのほうへ向き直った。声を荒げる必要は、もうなかった。
「毒が入る。人が倒れる。聖女様が現れて、癒す。人が涙を流して感謝する。——そしてまた、七日のちに、毒が入る」
一枚の紙を、高く掲げる。几帳面に並んだ、日付の列。
「奇跡とは、本来、誰にも順番が読めないものでしょう。いつ、誰が救われるか分からないから、奇跡なのです。ですが、この方の奇跡には、暦がありました。七日ごとに、きっちりと。……暦のある奇跡を、人は、こう呼びます」
わたしは、紙を下ろした。
「——狂言、と」
広間が、どよめいた。
「まって……待って、違うの……!」
崩れかけた声で、オリヴィアが後ずさる。演技の乙女は、もうどこにもいなかった。追い詰められ、逃げ場を失った、ただの人間がそこにいた。
「わたしは……わたしは、やれと言われたから……!」
その一言に、広間の空気が、ぴん、と張り詰めた。
「わたしはただ、渡された水を配って、御力のふりをしていただけよ! 毒だなんて、そんな細かいこと、わたしに分かるわけない……! 全部、全部、侍医長様に言われた通りにやっただけなのに——!」
——侍医長。
その名が、広間の高い天井に、こだまして落ちた。
誰かが、息を呑む音がした。
(……出た。)
わたしは、内心で、そっと目を閉じた。この匂いの、本当の出所。オリヴィアの手には過ぎた、あの玄人の調合。宮廷の奥に通じる、毒の指し手。
侍医長ヴェンツェル・ダール。この国の医術の頂点に立ち、聖女の癒しを至上と説き、薬学を下賤と蔑んできた、その人。
(そして——十年前、同じ言葉で祖母を蔑み、そして。)
胸の奥が、静かに疼いた。けれど、今はまだ、その名を追う時ではない。今日は、ここまで。
「陛下」
わたしは、玉座に向かって、深く礼をした。
「わたし、リーゼロッテ・フォン・ハーゼは、半月前、毒を盛った咎で、この宮廷を追われました。婚約を破棄され、不吉な女と呼ばれ、王都の外れへ追いやられました」
顔を上げる。
「ですが、毒を盛ったのは、わたしではありません。毒を配っていたのは、この方でした。そして——毒を、渡していた者が、まだ、この宮廷の奥に、おります」
陛下の眉が、深く寄せられた。
「そなたの言うこと、一つひとつに、証がある。……曇った匙も、青い爪も、暦のような日付も。祈りには、証が立たぬ。だが、そなたの言葉には、立った」
陛下は、ゆっくりと、王太子エーミールへ視線を移した。
「エーミール。そなたが破棄した娘は、毒を盛る女ではなかった。毒を、解く女であった」
エーミールの顔は、紙のように白かった。庇う言葉も、責める言葉も、もう何ひとつ出てこない。ただ、青ざめて、崩れ落ちそうな聖女と、静かに立つわたしとを、交互に見比べているだけだった。
(殿下。あなたは、素直に微笑む娘を選びました。中身より、見栄えを。真実より、心地よさを。……その選択が、今、あなたの隣で、崩れています。)
わたしは、憐れみも、勝ち誇りも、感じなかった。ただ、線を引いただけ。
衛兵に囲まれ、引き立てられていくオリヴィアの背を、わたしは見送った。
人の去った広間で、ジークフリートが、ゆっくりとわたしの隣に立った。
「……終わった、のか」
「いいえ」わたしは首を振った。「半分です。聖女は、渡された毒を配っていただけ。その毒を作り、渡していた手は、まだ、あの奥にあります」
ジークの灰色の瞳が、細くなった。侍医長、と、その唇が音もなく形づくる。
「怖くは、ないのか」彼が、低く問うた。「宮廷の頂に立つ男を、敵に回すことになる」
わたしは、卓の上の銀の薬匙を、そっと拾い上げた。曇りは、拭えば消える。何度でも、また澄んだ銀に戻る。祖母が、そう教えてくれた。
「怖いですよ」わたしは正直に答えた。「でも——毒に触れた人が、目の前で苦しんでいるのに、相手が偉いから手を引く。そんな薬師なら、祖母は、わたしに匙を遺しませんでした」
わたしは、匙を握りしめた。
「その毒のことなら、わたしが一番よく知っています。作り方も、解き方も。——たとえ相手が、この国の医術の頂であっても」
ジークが、ふ、と息を漏らした。笑ったのだと、少し遅れて気づいた。無骨な、けれど、確かにやわらかい笑みだった。
「……お前がいると」彼が、ぽつりと言った。「毒が、少し、怖くなくなる」
高い窓から差す光が、曇った匙を、そして、追放されたはずのわたしを、静かに照らしていた。
毒を盛った女は、この日、宮廷の御前で、汚名を返上した。
——けれど、本当の戦いは、ここから始まる。
第一部の大きな山、御前検分の決着です。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございます!
声を荒げず、日付と、青い爪と、曇った匙だけで、聖女の「奇跡」を暴ききったリーゼ。ついに汚名を返上しました。けれど、彼女が嗅ぎ取った本当の黒幕——侍医長ヴェンツェルの名が、静かに浮かび上がりました。十年前、リーゼの祖母に、何があったのか。
ここまでが、いわば序章です。次話、その侍医長が、自らリーゼの薬房を訪ねてきます。祖母と同じ道を辿らぬように、と言い置いて。リーゼの逆転を見届けていただけたなら、ブックマークと評価(★)で、そっと背中を押していただけると嬉しいです。




