第11話:祖母と同じ道を、辿らぬように
御前検分から、三日が過ぎた。
汚名は、晴れた。宮廷は「毒を盛った女」を追放したことを、公には認めていないけれど、少なくとも、わたしを縛るものは消えた。薬房には、以前より多くの人が訪ねてくる。癒しでは治らなかった痛みを抱えた人たちが。
(けれど。……本当の毒は、まだ、宮廷の奥にある。)
その奥が、向こうから訪ねてきたのは、昼下がりのことだった。
薬房の戸口に、立派な馬車が停まった。降りてきたのは、黒衣の老人。銀の刺繍の入った、宮廷薬務の正装。痩せた頬に、冷たく澄んだ目。
「はじめまして、というべきかな。ハーゼ嬢」
声は、絹のように滑らかだった。
「侍医長、ヴェンツェル・ダールと申します。この国の医術を、預かる者です」
(——この人。)
名乗られるまでもなく、分かっていた。あの日、癒しの水から立ちのぼった、玄人の調合の匂い。その出所が、いま、目の前に立っている。
わたしは、淑女の礼をした。
「ハーゼ薬伯爵家のリーゼロッテです。……侍医長さまが、じきじきに、このような場末へ。光栄ですわ」
「なに。噂の薬師を、一目見ておきたくてね」
ヴェンツェルは、薬房の中を、ゆるりと見回した。棚の硝子瓶を、干し草の束を、薬研を。まるで値踏みするように。その視線が、奥の書物棚で、ふと止まった。
鍵のかかった棚。その奥に眠る、革表紙の一冊。
「……『毒草譜』」
老人の唇が、その名を、そっと撫でた。
「まだ、あったのか。マティルダの、あれが」
心臓が、ひとつ、大きく打った。
祖母の名を、この人が呼んだ。親しげに。けれど、そこに温もりはなかった。もっと乾いた、何かを確かめるような響き。
「祖母を、ご存じでしたか」
「知っているとも」ヴェンツェルは微笑んだ。「先代の、宮廷筆頭薬師。実に優れた薬師だった。毒のことなら、この国で右に出る者はいないと言われた。……あなたの、ちょうど今のように」
(今の、わたしのように。)
その言い方に、うっすらと寒いものが混じっていた。
「惜しいことに」老人は、静かに続けた。「あの人は、身の程を、弁えなかった。薬師の分際で、宮廷の奥の、触れてはならぬものに、手を伸ばした。——そして、ある日、突然に。心の臓を、患ってね」
わたしは、動かなかった。表情も、声も。ただ、内側で、冷たい水がゆっくりと満ちていくのを感じていた。
(心の臓を、患って。……ばあさまが。あんなに、丈夫だった人が。十年前、突然に。)
誰も、疑わなかった。老齢だった、と。けれど今、この人の口から、その死が語られる響きは——まるで、自分で書いた筋書きを、諳んじているようだった。
「ハーゼ嬢」
ヴェンツェルの目が、すっと細くなった。絹の声のまま、けれど刃を包んで。
「あなたは、才ある薬師だ。それは認めましょう。だからこそ、忠告しておく。——祖母君と、同じ道を、辿らぬように」
「聖女の一件、見事でした。ですが、あれで、あなたは宮廷の奥を覗いてしまった。覗いた者は、覗き返される」
老人は、懐から一枚の書状を取り出し、卓に置いた。宮廷薬務の、朱の印。
「この薬房で、あなたは無許可の調剤を行っている。薬務の免状を持たぬ者が、薬を調じ、人に与える。——これは、この国の法では、れっきとした罪です」
「病んだ人を、放っておけと?」
「法は、情では動きません」ヴェンツェルは、ゆったりと言った。「薬務の名において、追って沙汰を下します。それまで、この薬房での調剤を、差し止める。……銀の薬匙も、あの書物も、じきに、然るべき所へ納めていただくことになるでしょう」
(薬房を、閉じさせる気ね。そして——『毒草譜』を、取り上げる。)
この人が本当に欲しいのは、罪状ではない。祖母の遺した、あの一冊だ。毒を体系として記した、この国で唯一の書物。それを手にすれば、毒を「薬」と偽る商いは、誰にも見破られなくなる。
わたしは、書状には手を触れなかった。ただ、まっすぐに、老人を見た。
「侍医長さま。ひとつ、伺っても?」
「なんなりと」
「あなたは、癒しを至上と説き、薬学を下賤と蔑んでこられた。……それなのに、なぜ、こんなにも『毒草譜』を欲しがるのですか。下賤の技が記された、たかが古い書物を」
ヴェンツェルの微笑が、ほんの一瞬、凍りついた。
絹の下の、刃が、ちらりと覗いた。
「……賢いお嬢さんだ。本当に、よく似ておられる」
老人は、背を向けた。
「だからこそ、惜しい」
馬車が走り去ったあと、薬房には、乾いた薬草の匂いだけが残った。わたしは、鍵のかかった棚の前に立ち、冷たいガラス越しに、祖母の『毒草譜』を見つめた。
(ばあさま。あなたは、あの人に、殺されたのね。)
(——なら、わたしがやることは、ひとつ。あなたが手を伸ばして、届かなかったものに、今度は、わたしが届いてみせる。)
銀の薬匙を、ぎゅっと握る。曇りは、何度でも、拭える。
閉ざされかけた薬房の窓の外で、宮廷の尖塔が、夕日に赤く染まっていた。
お読みいただきありがとうございます。ついに黒幕・侍医長ヴェンツェルが姿を現しました。絹のように滑らかで、けれど底冷えのするこの男——そして、十年前の祖母マティルダの死に、隠された真実が。
薬房を閉ざされ、『毒草譜』まで奪われかけたリーゼ。無位無官の彼女は、宮廷の頂に立つ男に、どう抗うのか。次話から、第二の戦いが本格化します。
続きが気になったら、ブックマークと評価(★)で応援いただけると、とても励みになります!




