第5話:治ったはずの人が、また倒れる理由
その朝、薬房の戸を叩いたのは、三人目の「治ったはずの人」だった。
パン屋のカミラという女で、頬に脂汗を浮かべ、戸口にすがるようにして立っていた。手足が痺れて力が入らない、と彼女は言った。
「聖女さまの御手で、いちど治していただいたんです。ちゃんと、すっかりよくなったのに」
それが七日と保たずに、また同じ具合に倒れた——そう訴える顔は、怯えというより、裏切られたような色をしていた。
わたしはカミラを寝台に横たえ、脈をとった。速く、浅い。舌の裏が、うっすらと青みを帯びている。
(この痺れ方。……知っている。)
銀の薬匙を、彼女の唇にそっと当ててみる。祖母の形見の匙は、毒に触れると曇る。金属の面が、息を吐きかけたように白く濁った。
「銀泪ね」
わたしは声に出さず、口の中だけでその名を呼んだ。蓄積毒。少しずつ体に溜まり、あるところで一気に牙をむく、静かな毒だ。
問題は、カミラが一度「治って」いることだった。
わたしは奥の帳面を開いた。この十日で薬房を訪れた者の名と、症状と、日付を書きつけてある。祖母に叩き込まれた癖だった——薬師は覚えるな、書け、と。
仕立て屋のヨナス。花売りのメルダ。そして今日のカミラ。
三人とも、まず倒れ、聖女オリヴィアの「癒し」で回復し、そして決まって七日ほどで、まったく同じ症状でぶり返している。
「ニナ」
薬をすり潰していた侍女のニナが顔を上げた。持病を診て以来、この薬房に通ってくれている、数少ない味方だ。
「この三人、住んでいる区は、ばらばらよね」
「ええ。カミラさんは西門、ヨナスさんは川沿い……揃っているのは、聖女さまに癒していただいた、ということだけです」
ニナの言葉が、みぞおちの奥で嫌な形に結晶した。
(揃っているのは、そこだけ。)
わたしは帳面の日付を、指でなぞった。
倒れる。癒される。しばらくして、また倒れる。三人とも、判で押したように同じ間隔で。
病というものは、こう規則正しくは並ばない。風邪も、腹下しも、人によって出方が違うのが当たり前だ。なのにこの三人は、まるで同じ楽譜を渡された演奏者みたいに、揃って倒れ、揃って持ち直し、また揃って崩れていく。
(まるで——誰かが治しては、また同じ病を、仕込んでいるみたいに。)
背筋が、すっと冷えた。
癒しは、症状を消す。回復魔法は熱を下げ、痛みを取り、痺れをほどく。けれど、体に溜まった毒そのものを、外へ流しはしない。だから消えたように見えて、毒は残る。残った毒に、また新しい毒が足されれば——溜まって、あふれて、また倒れる。
症状を消すのと、治すのは違う。わたしがいつも患者に言うことが、こんな形で証明されるとは思わなかった。
「先生」
トビアスが、薬草の束を抱えたまま、わたしの顔を覗き込んでいた。九つの、薬師に憧れる下働きの子だ。
「先生、こわい顔してる」
「……そう? ごめんね」
わたしは帳面を閉じた。まだ、誰にも言えない。これはただの見立て、疑いにすぎない。証拠は、何もない。
だが、その疑いに——向こうから、答え合わせが来た。
昼を過ぎたころ、薬房の戸が、ノックもなく開いた。
透けるような金の髪が、まず光を弾いた。潤んだ瞳、白い喪服めいた聖女の衣。オリヴィアだった。供も連れず、けれど戸口を背にして立つその姿は、まるでこちらを逃がさないための壁のようだった。
「あなたが、リーゼ」
鈴を転がすような声で、彼女は微笑んだ。目だけが、笑っていなかった。
「聞きましたわ。西門のパン屋の女が、ここに来ていると。わたくしがせっかく癒して差し上げたのに、薬売りの家に転がり込むだなんて。恩知らずなこと」
わたしは立ち上がり、匙を袖に隠した。曇ったままの、その匙を。
「カミラさんは、また倒れました。あなたに癒された、そのあとで」
「あら。だったら、信心が足りなかったのね」
オリヴィアは小首をかしげ、いかにも憐れむように睫毛を伏せた。演技だ、と一目でわかる憐れみだった。
「病は、心の弱さから来るもの。わたくしの御業を疑うような者は、何度でも倒れますわ。当然のことでしょう?」
(心の弱さ。……ずいぶん都合のいい理屈ね。倒れることに、理由があるとは、決して言わせないための。)
「症状が、あまりに揃いすぎているんです」わたしは静かに言った。「同じ間隔で倒れて、同じ間隔で治って。まるで、順番が決まっているみたいに」
その瞬間、オリヴィアの潤んだ瞳から、水気がすっと引いた。
庇護欲を誘う少女の面が、一枚めくれる。下から現れたのは、こちらを値踏みする、冷たく乾いた目だった。
「薬売り風情が、聖女の御業に口を出すの?」
彼女は一歩、踏み込んできた。声だけが、まだ甘い。
「穢れた手を、下げてくださらない? 薬草だの毒草だのを弄る、その汚らわしい手で、わたくしの癒しに触れないでいただきたいの」
わたしは手を下げなかった。袖の中で、曇った匙が、指に冷たかった。
オリヴィアが去ったあと、薬房には、香の甘い匂いだけが残った。
ニナが不安げにわたしを見る。トビアスが、それでも心配そうに袖を引く。わたしは帳面をもう一度開き、三人の名の下に、新しく一行を書き足した。
——この“癒し”には、隠された順番があるのではないか。
(治しては、また仕込む。……もしそうなら、この人は、患者を救っているんじゃない。飼っているんだわ。)
匙の曇りは、拭いても拭いても、消えなかった。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。リーゼがついに“癒しの正体”の輪郭に触れ、オリヴィアが牙をむきました。「治しては、また仕込む」——この規則性の裏に、いったい誰の手があるのか。次話、リーゼは疑いを確かめるために、危うい一歩を踏み出します。
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