第13話:薬と偽られた、毒の帳
差し止めの沙汰が下りてから、薬房は、静かすぎた。
人の来ない薬房は、ただの物置に似ている。乾いた薬草の匂いだけが、行き場をなくして棚のあいだに淀んでいた。
(癒せる手があるのに、法が、それを縛る。……ばあさまも、こんな静けさの中にいたのかしら。)
その静けさを破ったのは、老薬僕ギルベルトの、掠れた声だった。
「嬢様。……大奥様のことで、ずっと、申し上げられずにいたことが」
彼は、皺だらけの手で、鍵のかかった書物棚を示した。
「大奥様は、亡くなる少し前に、わたくしにこう仰いました。——ギルベルト、わたしに何かあったら、譜を、隅々まで、読ませなさい、と」
「隅々、まで」
わたしは、鍵を開けた。革表紙の『毒草譜』を、卓の上に、そっと置く。
何度も繰り返し読んだ書物だ。毒草の見立て、解毒の配合、症状の一覧。祖母マティルダの、几帳面な筆跡。——けれど、「隅々まで」と、わざわざ言い遺すからには。
「ギルベルト。ばあさまは、覚えるな、書け、と言う人だった」
「さようでございます。覚えるな、書け、と。……嬢様と、同じでございます」
わたしは、頁ではなく、見返しを検めた。表紙の裏、糊で貼られた遊び紙。指の腹で撫でると、端が、わずかに浮いている。
(——ここ。誰かに読ませるための頁じゃない。隠すための、紙。)
薬匙の柄で、慎重に、糊を剥がした。二枚に重ねられた紙のあいだから、細かい文字の並ぶ、一葉が滑り落ちる。
祖母の字。けれど、いつもの筆致ではない。薬草の名と、数と、日付。そして、名の代わりに置かれた、印のような記号が、几帳面に並んでいた。
「暗号……いえ、これは」
わたしは、息を詰めて、その並びを追った。
薬草の名の横に、ごく小さな数字。それが、七日ごとに、少しずつ、増えていく。増えて、ある量を超えたところで、こんどは別の記号——衰弱、震え、そして、心の臓、と読める走り書き。
(分量の、記録。……ばあさまは、量を、追っていた。)
「銀泪」
声に出すと、背筋が冷えた。蓄積毒。少しずつ体に溜まり、ある日、堰を切ったように効く。祖母は、その微量が、宮廷に「薬」として流れていく道筋を、日付ごとに書き留めていたのだ。
「ギルベルト。薬と毒はね、——別のものではないの」
わたしは、頁の数字を指でなぞりながら、言った。
「同じ草でも、匙の先に載るほどの量なら、痛みを鎮める薬になる。けれど、それを、毎日、少しずつ、長く盛れば」
「……毒に、なりますので」
「なるだけじゃない。体が、それに慣れてしまう。慣れた体は、薬をやめると、かえって苦しむの。もっと欲しがって、離れられなくなる。そうして、じわじわと、弱っていく。——薬と毒を分けるのは、草の種類じゃない。量と、時間なのよ」
言いながら、わたしの指は、震えていた。
(高価な薬、と称して。実は、微量の毒を、長く盛り続ける。患者は、効いていると信じて、離れられなくなる。弱っていくのを、老いや持病のせいだと思い込んで。……そういう、仕組み。)
顔のある一人が、毒を盛るのではない。「薬務」という名の、正しい顔をした帳簿が、ゆっくりと人を殺していく。祖母は、その帳の正体に、十年前、たどり着いていた。
(ばあさま。あなたは、殺される前に、ちゃんと、遺していってくれたのね。)
銀の薬匙を、握りしめる。柄の冷たさが、決意のように、掌に馴染んだ。
その夜、薬房の裏戸を叩いたのは、灰色の瞳の男だった。
王弟ジークフリート。近衛の外套の下に、何かを庇うように、腕を回している。無口な男の額に、うっすらと汗が滲んでいた。
「危ない橋を、渡らせたわ」
「案ずるな」ジークは、短く言った。「薬務の帳は、写せなかった。だが、動いた分の数だけは、この目で覚えた。……そして、これを」
彼は、外套の内から、小さな紙包みを一つ、卓に置いた。蝋で封じられ、宮廷薬務の朱の印。「上等の気付け薬」と、麗しい字で記されている。
「宮廷の、さる方に配られていたものだ。持ち出せたのは、一包だけだ。……これで、足りるか」
「充分よ」
わたしは、封を切った。中の、白い粉。指先に少し取り、匂いを確かめる。甘く、上品な、薬めいた香り。——けれど、その奥に、玄人が丁寧に隠した、あの匂いがある。
銀の薬匙を、粉に、そっと差し入れた。
息を、詰める。ジークも、ギルベルトも、身じろぎひとつしない。
やがて、匙の面が、ゆっくりと——曇っていった。磨いた銀が、白い霧を吐くように、鈍く濁っていく。
(やっぱり。……「薬」じゃ、ない。)
「銀泪よ」わたしは、掠れた声で言った。「気付け薬の顔をして、蓄積毒が仕込んである。少量だから、一度では効かない。けれど、七日、七日と重ねれば」
「……人が、一人、消える」
ジークの声に、抑えた怒りが滲んだ。
「これが、薬務の帳の、正体だ」
「ええ。薬と偽られた、毒の帳」
証拠は、掌の中にある。祖母の遺した記録と、曇った匙と、一包の毒。——けれど、まだ、足りない。
(帳簿の写しがいる。配られた先の証言がいる。あと一歩。ここで焦って告発すれば、握り潰されて、わたしたちが「毒を盛った側」に仕立てられる。……もう一歩、固めなければ。)
わたしは、証拠の紙包みを、『毒草譜』の見返しへ、祖母がそうしたように、そっと隠した。
「ジーク。あと、少し。決定的な一つを、掴むまで、動きを悟られないように——」
言いかけて、わたしは、口を噤んだ。
薬房の窓の外。灯りの落ちた路地に、いつからか、人影が一つ、微動だにせず立っていた。
風が、その影のほうから流れてくる。乾いた薬草の匂いに混じって、——ほんの微か。玄人の手で調えられた、甘い匂いが、鼻先をかすめた。
(この匂い。……見張られて、いる。)
銀の薬匙が、掌の中で、また、そっと曇りはじめていた。
お読みいただきありがとうございます。祖母マティルダは、殺される前に、ちゃんと証拠を遺していました。「薬と偽られた毒の帳」——ヴェンツェルの手口の核心に、リーゼの手がようやく届きかけます。
けれど、証拠に手が届いたその時、向こうも動き出しました。次話、ヴェンツェル側が差し向けるものとは。緊迫の第14話へ続きます。
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