case.52「欠席」
夜の帳が下りたⅩⅢの実験棟。
無機質な白で統一された廊下に、硬質な靴音が規則的に反響する。
四月レンの双眸は、周囲の空気を凍てつかせるほどの冷気を帯びていた。
彼女の足取りは淀みなく、その攻撃は極めて正確だった。
貴重な研究資料や精密な実験器具の並ぶ軌道を完全に避け、白衣を纏った研究員たちの肉体のみを的確に蹴り飛ばしていく。
特異な構造を持つ辛の身体。もし彼が未知の病に侵された時、これらの研究データが命綱になる。
その計算が、レンの怒りに満ちた一撃に冷徹な制御をかけていた。
放たれた蹴りには高圧の電流が纏わされている。
肉体を打つ物理的な衝撃と同時に、神経を直接焼くような痛覚が研究員たちを襲った。
「かっ……四月! 何を!!」
床に這いつくばった研究員が、蹴り上げられた腹部を押さえながら呻く。
「反乱か!?」
「乱心したか」
「貴様っ!」
周囲から次々と非難の声が上がる。
「六大路辛が、お前らのせいで倒れた」
レンの唇からこぼれたのは、絶対零度の怒りを孕んだ宣告だった。
「何を」
「半妖は我わらの管轄、貴様の出る幕では……!」
反論を試みる声が、再び上がる。
それが、レンの逆鱗に触れた。
踏み込みと同時に、主任研究員の腹部へレンの右足が深く食い込む。
「かっ!」
空気が肺から搾り出される音が響く。
レンは足を振り抜かず、そのままの姿勢で床に沈んだ主任を見下ろした。
「あまりオレ、いや……私を怒らせるなよ。お前らが六大路辛へしてきた仕打ちの数々……それが彼への負担になっていた」
靴底で肉体を踏みにじりながら、低い声で告げる。
「次にまた、彼が倒れることがあったら……私は容赦はしない」
凍てつくような殺気が空間を満たす。
その場にいた研究員たちの呼吸が止まり、誰一人として言葉を発することができなくなった。
「言っておくが、私は本気だからな」
眼下の男から視線を外さず、レンは静かに言い放つ。
「四月レン、そのくらいで……」
静寂を破ったのは、落ち着き払った声だった。
通路の奥から姿を見せたのは藤原。かつて大空蒼に取引を持ち掛けた、眼鏡の男である。
研究員が襲撃されているとの報告を受け、即座に現場へ駆けつけていた。
「彼らの研究が、六大路辛の病気を治療するのに必要という点は無視できない。貴方もそれを分かっているから資料などには手をつけなかった、違うか?」
藤原は中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、状況を俯瞰する。
床に伏した研究員たちの視線が一斉に彼へと向かった。
「だったら何をしても良いというのか?」
レンは藤原に一瞥もくれず、踏みつけた主任の首筋を睨み据える。
「勿論、六大路辛は将来我々の戦力になる。あまり過剰なことは辞めさせる」
藤原は、足元で痛みに耐える研究員たちを見下ろし、冷淡に告げた。
その言葉に含まれた暗黙の圧力に、白衣の男たちが僅かに肩を震わせる。
「健康維持の為の定期検査にしろと言っておいたのに……特に今回のはやりすぎだったな」
再び眼鏡の位置を直し、藤原は短く息を吐いた。
レンは主任の腹部から足を離し、一つ深い呼気を漏らす。
「次はない。主任は変えろ」
短い要求を空間に置き去りにし、レンは踵を返して実験棟を後にした。
◇
翌日。刃ケ丘異能高等学校、一年A組の教室。
辛の体温は少し下がっていたが、肉体の底に澱む疲労感は拭い切れておらず、彼は欠席していた。
そしてもう一つ、空席があった。錆御納戸雫が欠席している。
青藤葵の視線が、主のいない机を何度も彷徨っていた。
「期末の実技は良い。しかし筆記の方、紅桔梗・蘇芳・強矢……お前らは補習決定だ」
教壇に立つ担任から、無慈悲な結果が突きつけられる。
「ぬおおおおおおおん」
紅桔梗志紀が両手で頭を抱え、机に突っ伏した。
「マジか、夏休み終わった……」
蘇芳レイヴンが天を仰ぎ、力なく呟く。
対照的に、強矢翠柳は自らの危機的状況を理解していないのか、前の席の佐倉真白の姿を熱心に目で追っていた。
張り詰めた空気が緩み、教室に小さな笑い声が広がる。
「プールとか遊びに行きたかったあ」
志紀が机に額を擦り付けながら恨み言を漏らす。
「にしてもまた辛君一位か~」
成績表を確認した黒川玄が、感嘆の息を吐く。
後ろの席の紺野爪戯も、同意するように首を縦に振った。
◇
それから数日後の昼休み。
辛は疲労から回復し、出席を果たしたが、雫の机は依然として空のままだった。
「雫……」
葵の唇から、不安に満ちた呟きがこぼれる。
「青藤さん……」
その様子を見かねて、玄が声をかけた。
「……連絡もないの。既読にもならないし」
葵が手元のスマートフォンを握りしめ、ここ数日の状況を明かす。
メッセージアプリの画面には、返信のない緑色の吹き出しが並んでいた。
「家は?」
爪戯が解決策を探るように問う。
葵は力なく首を左右に振った。
「まだ行ったことなくて、場所……知らない」
俯く葵の視線の先で、辛も静かに雫の空席を見つめている。
「ただの体調不良では?」
大空蒼が大きな欠伸を噛み殺しながら口を挟む。
「そう……なのかな……」
葵の表情は晴れない。直感的な胸のざわつきが、彼女の表情を暗くさせていた。
灰塚こころが静かに寄り添い、葵の背中にそっと手を添える。
「そのうち来るでしょ」
火乃宮朱美が腕を組み、強気な声で空気を変えようとする。
「どう思う?」
玄が辛へ意見を求めるが、辛は無言のまま短く首を横に振った。
「先生に家聞いても教えるわけないか~う~ん」
玄が腕を組み、天井を仰いで思考を巡らせる。
「あ。一つ方法ある」
不意に、爪戯が人差し指を立てた。
周囲の視線が、一斉に彼へと集まる。
「B組の炭野るか……彼の異能なら情報を知れる」
爪戯が提示した解決策。
宿泊研修においてA組の動向を正確に把握し、中間テストでも特異な能力を見せた情報屋。
葵、爪戯、玄、そして辛の四人は、連れ立って一年B組の教室へと向かった。
「ボクの異能? 良いですよ」
訪ねてきた四人に対し、紺野るかは柔和な笑みを浮かべてあっさりと了承した。
「意外、何か見返りを求められるかと思ったけど……」
葵が思わず本音をこぼす。
「まあ、出来ることなら天竜君を呼び戻す……その手伝いになるようなことを、お願いしたいんですけどね」
るかは伏し目がちに言い、右手の人差し指を自身の頬に当てた。
「天竜君を? 恐怖で支配されてたんじゃ? そんな人を呼び戻したいの?」
玄が純粋な疑問をぶつける。
B組を恐怖で統治していた天竜天色。
彼は期末の実技試験で辛に敗北し、暴走の末に蒼の異能によって鎮圧された。
現在はⅩⅢによって身柄を拘束されている。
「ボクは一人も欠けずに卒業して、ⅩⅢに入りたいんです」
るかは屈託のない笑顔で答えた。
しかし、その目の奥には計算高い光が潜んでいる。
「でも方法が思いつかないので良いです。錆御納戸雫さんのことを知りたいんですよね、今見ますね」
るかが異能を発動させる。
空間が僅かに歪み、何もない空中に一枚の水鏡が形成された。
波紋が広がり、やがて映像が像を結ぶ。
そこに映し出されたのは、白いシーツに包まれたベッドで眠る雫の姿だった。
「雫!?」
葵が弾かれたように身を乗り出し、名を叫ぶ。
「入院してる?」
爪戯も予想外の光景に目を丸くした。
「多分、ⅩⅢの監察医療棟かと」
るかが映像の背景から情報を抽出し、補足する。
「放課後行ってみるか」
辛が静かに決断を下し、三人がそれに頷いた。
教室の入り口付近。
そのやり取りを、枯野アカハが壁に寄りかかりながら静かに観察していた。
彼女の視線は辛の姿に固定されており、その横顔には微かな熱が帯びている。
四人がるかに礼を言い、教室へと戻っていく。
その後ろ姿を見送るアカハの胸の奥に、黒い靄のような不快感が膨らんでいく。
アカハはゆっくりと歩み寄り、るかの前に立った。
「A組はなんて?」
無関心を装いながらも、四人の動向を探る言葉が口を突いて出る。
「なんか一人、休みが続いているらしくて……」
るかは水鏡を消し、いつも通りの微笑みを浮かべて答えた。
「ふーん……ちなみに誰? そしてさっきの女子は誰?」
アカハの唇には笑みが張り付いている。
しかし、その瞳には一切の温度がなかった。
るかは、アカハが抱く辛への執着を正確に把握している。
「女子だよ。休んでいたのは錆御納戸雫、さっきのはその友だちの青藤葵」
るかは淡々と名前を告げた後、一歩距離を詰め、アカハの肩に軽く手を置いた。
「六大路君、心配してたね」
意図的に毒を含ませた囁きが、アカハの耳元へ落とされた。




