失踪
ダイニングに残された二人は、しばらく呆然としていた。
「エイジくん…。」
尚美は、今でも信じられない気持ちでいた。
エイジは、真面目な顔で尚美を見て言った。
「尚美さん、本当はもっと、ロマンチックな状況で、二人っきりの時に告白したかった。なのに、こんなタイミングで言ってしまうなんて…。本当にごめん。」
「エイジくん、本気なの?」
エイジは尚美の手を取って、ひざまづいた。そして、その左の薬指にキスをした。
「尚美さん、今の僕にはプロポーズの為の指輪を用意する事すら出来ない。だけど、それでも僕はあなたと一緒にいたい、これから先もずっと…。だから、この地で仕事を探します。そして、オーベルジュも手伝います。だから、どうか僕と結婚してください。」
そう語ったエイジの言葉にも表情にも、俳優らしい芝居がかったロマンチックさなどかけらも無かった。そこにあるのは、一人の人間の真実の姿だけだった。
尚美は、返す言葉さえ出ずに、涙ぐんで頷いた。
その夜、二人は初めて一夜を共にした…。
坂出みずきは、部屋に戻った。その部屋は一階の客間だった。
吉原尚美の部屋は、キッチンの隣の部屋だったので、みずきにも同じ一階に泊まってもらうことにした。そこには、みずきにエイジと同じ二階に泊まって欲しくない、という尚美の気持ちが作用していた。
みずきは、部屋の明かりをつけず、暗い中、ベッドに横たわっていた。しかし、まったく眠れなかった。ショックと興奮が同時に襲ってきて、目は冴えていた。
何時間も、とりとめのない思いが浮かんでは消えた。
そのまま数時間が経った頃、みずきは気付いた。
おそらく、尚美とエイジの二人は今夜、一緒に居るだろう…。
鋭い女の直感で、(物音がしたわけではなかったが)二人が二階のエイジの部屋に居ると確信した。
すると、もう一秒たりとも、彼らと同じ屋根の下にいる事が、耐えられない事のように思えてきた。
みずきは、自分でも無意識のうちに起き上がり、ブーツを履き、コートを羽織って、部屋のドアを開けて廊下へ出、キッチンを通って勝手口から表へ出た。
そして、「オーベルジュ・シェル・エトワール」の裏門から、フラフラと外に出て、行く当てもなく歩いていた。
今が何時なのか、みずきには分らなかったが、実際には午前四時を過ぎていた。
みずきは、カシミアの腰まである長いセーターの上にミンクのロングコートを羽織っていたが、それでも外は刺すような冷気だった。
凍てつく寒さの中だったが、みずきは寒いという感覚すら麻痺するほどのショックを受けていた。
寒さなど、このショックに比べたら些細な事だった…。
みずきはぐるぐると脳内で同じ思考を繰り返していた。
…庄ちゃんは、今でもずっと私を愛してくれていると思っていた。
まさか、あんな年上の女性に心変わりしていたなんて、思ってもみなかった…。
東雲あさりとのスキャンダルの時は、全然気にもしなかった。
あんなの、事実無根の嘘に決まってるとわかっていた。
なのに、今回は違った。どうして…?
もう、これ以上、あの二人の愛の巣に一秒たりとも留まっていたくない。
堪えられない。
みずきは一体、どうやって外に出たのか、自分でもわからなかった。
でも、とにかくあの場所から離れたかった。
その本能に従っただけだった…。
みすきは、暗くて寒い雪が降り積もる山の中を、当てもなく歩き続けた。
今はただ、大きなショックを受け、頭の中が真っ白になると同時に、心の中がまっ暗になっていた。
外は、外灯も少なく、暗かった。
だが、今のみずきにとって、この程度の暗さは、暗いうちに入らなかった。
自分自身の心の暗さと比べたら、ちっとも暗くなんかなかった。
バックスキンのブーツは雪でシミになっていた。
靴の中まで雪が水滴となって染み込み、つま先を凍らせている気がした。
ヒールが雪に埋まり、足を取られ、歩きにくかった。
でも、そんな事ちっとも辛くない、とみずきは思った。
…この失恋の心の辛さに比べたら…。
心が凍り付きそうだった。
心に雪が染み込んだみたいに冷たく凍りかけているようだった。
「…もうすぐ私は死ぬのだろうか…。」
みずきは自分の心の声に耳を傾ける事だけにとらわれ、寒さにも暗さにも麻痺したように無感覚になっていた。
…背後から、恐ろしい闇が迫ってくるようだ…。
何か、得体のしれないものに、つけ狙われているような気配を感じた。
…だけど今なら、どんなに獰猛な獣や、幽霊が出て来たって、ちっとも恐くない。
殺されたって、かまわない。
死んだも同然なのだから…。
もう、やぶれかぶれだ。
私は、いくつもの過ちを犯した…。
そして、仕事と愛の両方を失った…。
今では、事務所の厄介者で、世間の嫌われ者だ…。
たった一人の希望だった庄ちゃんにも捨てられた…。
私の行く先はどこにもない…。
私なんか、死んじゃえばいいんだ…。
みずきはそんな事を、頭の中でグルグルと繰り返し考えながら、あてどなく歩き続けた。
夜明け前の空が少し白んできて、うっすらと前方に急な下り坂が見えた…。
突然、ドンッと背後から何かにぶつかられたような感じがした。
その反動でみずきの体はよろめき、半回転し、ぶつかって来たものが何かをはっきりと確認する間もなく、雪で滑って坂道を流れるように落ちていった。
そして、坂の下の平地の隅に滑り着き、そのまま動かなくなった…。
尚美とエイジの二人は、幸福感に満ちて朝を迎えた。
尚美は、先に起きだして朝食の準備をした。
外は朝方まで降り積もった雪も止み、きれいな白銀の世界だった。
みずきさんも、もうそろそろ起きてくるだろう…。
それから三十分ほどが過ぎ、エイジが起きてきた。
「おはよう、尚美。」エイジはすぐ、背後から尚美の肩を抱き、頬を摺り寄せてきた。
「なあに?さっそく呼び捨て?」尚美は、くすぐったそうにしながら微笑んだ。
「駄目?」エイジが潤んだ目で見つめた。
「ほらほら、みずきさんが起きてくるわよ。」
尚美が照れくさそうに、エイジを引き離しながら言った。
しかし、それから一時間が過ぎてもみずきはやって来なかった。
「変ねえ。昨日の事がショックで寝込んじゃってるのかしら…。」
エイジは頭を抱えた。
「ああ…、僕のせいだ。本当にどうしようもない馬鹿だな、僕ってやつは…。自分が嫌になるよ…。…みずき大丈夫かなあ。ちょっと、見てくるよ。」
エイジがみずきの部屋に見に行った。
「尚美さん、みずきがいないんだけど!」
「えっ、本当?」
みずきの部屋は空っぽだった。
だが、持ってきたバッグはそのまま置いてあったので、黙って東京へ戻ったわけではなさそうだった。
しかし真冬の深雪の季節に、不案内な人里離れた場所で、着の身着のまま急に姿を消すのは尋常ではない事だった。
尚美とエイジの二人は、屋敷内と庭を探し回った。
だが、みずきの姿はどこにもなかった。
エイジは焦っていた。
自分が昨夜、あんな事を言ったせいだ。
だから、みずきは屋敷を出て行ったんだ。
そこまで相手が傷ついたのに、僕は鈍くて、みずきの気持ちを深く考えてあげられなかった。
(言い訳に過ぎないけど)昨夜は自分でも思いがけないタイミングで、尚美さんにプロポーズしたことで、心が浮ついて何だかソワソワして、他の事が考えられなくなっていたんだ。
なんてろくでなしなんだ、僕という人間は!
ああ、みずき…。
もしかしたら、もう死んでいるかもしれない…。
なにもかも全部、自分が悪いんだ…。
エイジは顔面蒼白でうなだれた。
「今は、くよくよ考えるのはよしましょう。もう少し、範囲を広げて探しましょう。」
尚美は励ますようにエイジの肩をさすった。
二人は、屋敷の外も探し回った。
近所の別荘の付近や、旋風が森や、「つむじロッジ」まで行った。だが、どこにもみずきの姿はなかった。
「オーベルジュ・シェル・エトワール」の裏門を出て右折すると、なだらかな上りカーブの車道に出る。そこをしばらく行くと、右手に険しい渓谷がのぞめ、そこに細長い橋が架かっている。旋風渓谷橋という。この橋のたもとには、平らで小さなスペースがあり、そこに立って下を見ると、深い渓谷を眺めることができる。峡谷の遥か下にはゆったりと水を湛えた川が流れている。だが、途中の崖の岩があちこちせり出しているため、川の手前の岸辺は、岩に隠れて見えなかった。
エイジは橋のたもとから下を眺めた。美しい眺めだった。
「きれいな所だね。でも、下が見えない。もしみずきがここから下に落ちたとしても、なかなか見つからないだろうね。」
「そうね。そんな事になっていないように祈るしかないわ…。」
尚美が言った。
渓谷を見下ろしながら、尚美はあの夜の事を思い出していた。
東雲あさりの死体を、ただ一人で台車に乗せて運び出し、車に積んで、この旋風渓谷まで運んだことを…。
そして、この場所からほんの十メートルも離れていない地点から、ビニールシートの端を掴んで引っ張り、死体を転がしながら真っ逆さまに落した事を…。
あの夜は、用心のためにエイジのワインに睡眠薬を入れて飲ませた。
あの夜は新月で、星も見えない夜だった…。




