長い名前の犬 1
旦那様はすべての魔導具に魔力を込めると私に向き直った。
「――魔導具はこれだけか?」
「ええ、これだけですよ?」
「……ほかにあるはずだ」
「でも……これで全部のはずです」
私の知る限り、これで全部だ。
けれど、旦那様の表情は深刻だ。
「おかしい……」
「何がおかしいのです?」
「これだけの量の魔導具に毎日魔力を補充したら、そうとうな鍛錬になる」
「そこまで大変だったのですか!?」
「……だが、ズレている」
旦那様は紙に数式を書き込み始めた。
「どういうことなのですか?」
「六年前に君と結婚したのだな?」
「ええ……」
「足りない」
「……え?」
「おかしいんだ。異常に基礎魔力が増えている。魔導具に補充して、討伐任務に参加していたとしても……」
旦那様の魔力量は元々多い。
誤差の範囲なのでは……と思ったが、旦那様はすべてを魔力と数字で捉えている。
だとすれば……。
「ここにいたか!」
そのとき、低い声がエントランスホールに響いた。
息を切らしているのは、副団長バーレイ様だった。
「記憶をなくしても、夫人のそばにいるとは――筆頭殿は本当にぶれない」
「……今大事な」
「こちらも大事な会議です。隣国の王族がご臨席されるのに、遅刻する気ですか」
バーレイ様の足元に、巨大な魔法陣が描かれた。転移魔法……彼も優れた魔法の使い手なのだ。
「夫人、本日の帰宅は真夜中になると思われます。先にお休みください」
「かしこまりました」
「待ってくれ……! ズレてるんだ!」
「黙って仕事に戻れ!」
子どものように叱られながら、旦那様は連れ去られてしまった。
私の力不足で、バーレイ様にご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ない。
でも、少しだけ気になる……ズレという言葉が。
それは、旦那様が計算したのに答えを出せなかったということだ。
以前にも、この言葉を口にしたあと、旦那様はかなりの確率でピンチに陥っていた気がする。気のせいだろうか……。
「あれ? 確かにそんなことが何度かあったのに、どうしても思い出せないわ……」
《……記憶の扉が開きかけているぞ》
それは、イストの声だった。
振り返ると、いつの間にかロイがイストのお腹を枕にして眠っていた。
白銀の不思議な犬。時々しゃべるけれど、《腹が減った》とか《散歩を所望する》とか、他愛ない言葉が多かったのに……。
「記憶の扉って? えーと、ヴェリーキドゥーフイストーニカ」
《名前を完全に呼べるところまで戻ってしまったか。本当に、あいつは詰めが甘くて》
「……あいつって」
《楽しいことに……なってきた》
「ううぅん……うるさいよぉ……」
《おっと、ロイが起きてしまう……わふわふ?》
そういえば、イストの長い名前を言えたのは初めてかもしれない。
『次は――僕が、君を守るから』
ロイとそっくりな可愛い声が聞こえてきた気がした。
何かを思い出せそうなのに、どうしても思い出せない。
旦那様が計算のズレが気持ち悪いのと、思い出しそうなのに思い出せない気持ち悪さは、きっと似た感覚に違いない。
私はモヤモヤとした気持ちを拭えないまま、遅れていた家事を再開するのだった。




