6. 校庭の小さな冒険(2)
教室には、すでに二十人ほどの子供たちが集まっていた。
木製の机が整然と並び、壁にはアルヴェリア王国の地図や植物の絵が掛けられている。
窓際には大きな地球儀が置いてあった。
トビーはそれを見て、足を止めた。
地球儀には、新聞紙で作った立派な三角帽子が載せられていたのである。
正面には大きな星まで貼りつけてある。
「……何だ、あれ?」
「さあ?」
クララは口元を押さえた。
「私が来たときには、もうああなっていたわ」
トビーはしばらく地球儀を眺めた。
なぜだか妙に堂々としている。
「似合ってるじゃないか」
クララが吹き出しかけた、そのとき。
「おい、転校生!」
後ろから声がした。
振り返ると、砂色の髪を短く刈った少年が、机へ片肘をついてこちらを眺めている。
鼻の上にはそばかす。
上着の肘には大きな継ぎ当て。
いかにもじっと座っているのが苦手そうな顔をしていた。
「お前、海の方から来たんだって?」
「そうさ!」
「船に乗れるか?」
「もちろん!」
「泳げる?」
「魚より速いぜ!」
「へえ!」
少年は身を乗り出した。
「魚と競争したことがあるのか?」
「あるとも!」
「勝った?」
「魚が逃げちまったから、勝負にならなかった!」
少年は一瞬ぽかんとした。
次の瞬間、大笑いした。
「ははは! 気に入った!」
立ち上がり、手を差し出す。
「俺はジミー・フェン!」
「トビー・パーカーだ!」
二人は勢いよく握手した。
どうやらトビーが昨夜期待していた「面白いやつ」は、早くも一人見つかったらしい。
「なあ、トビー」
ジミーは急に声をひそめた。
「あの地球儀、どう思う?」
「帽子が似合ってるね」
「だろう?」
ジミーは得意そうに鼻をこすった。
「俺の傑作だ!」
「お前が作ったのか!」
「しっ!」
ジミーが慌ててトビーの口元へ指を立てる。
「声が大きいって!」
「だったら最初から言うなよ」
「誰かに見せないと、作った意味がないだろ?」
トビーはもう一度地球儀を見た。
「あれは何なんだ?」
「世界の王様」
「世界の?」
「そうさ。世界じゅうの国を頭に載せてるんだから、王様が一人いたっていいだろ?」
トビーは真面目な顔で頷いた。
「なるほど」
「だろ?」
「でも、ずいぶん頭の大きな王様だな」
「世界を治めるんだから、頭だって大きくなくちゃ駄目なんだよ!」
二人が笑っていると、隣の席から深いため息が聞こえた。
「ジミー」
黒い髪をきちんと分け、丸い眼鏡をかけた少年だった。
机の上には教科書と帳面がまっすぐ並んでいる。
「先生に見つかったら、また掃除当番を増やされるぞ」
「何だよ、オリバー。朝から縁起でもないこと言うなよ」
「僕は予言をしたんじゃない。これまでの経験から一番ありそうなことを言っただけだよ」
ジミーは顔をしかめた。
少年は眼鏡を直すと、トビーへ向き直った。
「オリバー・リードだ。よろしく」
「よろしく!」
二人は握手した。
トビーはオリバーを眺めた。
「君はずいぶん真面目そうだね」
オリバーもトビーを眺め返した。
「君はずいぶん騒がしそうだね」
「え?」
ジミーが吹き出した。
トビーもすぐに笑った。
オリバーも、少しだけ得意そうに口元を緩めている。
「オリバーの家は文房具屋なんだ」
ジミーが言った。
「紙と鉛筆のことなら何でも知ってるぜ」
「何でもは知らないよ」
オリバーは平然と答えた。
「でも、ジミーが昨日買った鉛筆を、もうなくしたことは知っている」
「何だって!?」
ジミーは慌てて上着のポケットを探った。
右。
左。
胸元。
最後に机の中を覗く。
「あれ?」
オリバーが黙ってジミーの耳を指さした。
鉛筆が一本、そこに挟まっていた。
トビーは腹を抱えて笑った。
「お前、それで探してたのかよ!」
「これは……」
ジミーは鉛筆を取りながら言った。
「なくしたんじゃない! しまった場所を忘れてただけだ!」
「それを、なくしたって言うんだよ」
オリバーが答えた。
この二人は、なかなか面白い組み合わせらしい。
そのとき、廊下から靴音が近づいてきた。
「先生だ!」
誰かが叫んだ。
教室中の子供たちが一斉に席へ戻った。
ジミーも慌てて腰を下ろす。
トビーは空いている机へ滑り込んだ。
間もなく、オルセン先生が教室へ入ってきた。
「おはよう、みなさん」
「おはようございます!」
子供たちの声が揃った。
先生は教壇へ向かい――。
窓辺の地球儀を見た。
足が止まる。
「……これは何でしょう?」
教室がしんと静まり返った。
トビーはそっとジミーを見た。
ジミーは教科書を開き、たいそう熱心に読んでいる。
ただし、本は上下逆さまだった。
トビーは笑いそうになり、慌てて口を押さえた。
オルセン先生は三角帽子をつまみ上げた。
しばらく眺める。
「なるほど」
先生は静かに言った。
「今日は地球儀も、おめかしをしたい気分だったのでしょうね」
教室のあちこちから、小さな笑いが漏れた。
「けれども、帽子をかぶせてしまうと、北の国々が見えません」
先生は帽子を教壇の端へ置いた。
「それに、世界全体を一人で治めるのは大変でしょう」
トビーは思わずジミーを見た。
ジミーの口が「何で分かった?」という形になっている。
オルセン先生は教室をゆっくり見回した。
「あとで、作者の方には少しお話を聞かせてもらいましょう」
ジミーの笑顔が、ほんの少し引きつった。
オリバーは帳面を開きながら、小さな声で言った。
「掃除当番かな」
「黙ってろ」
ジミーも小声で返した。
*
朝の挨拶が終わると、トビーは教壇の前へ呼ばれた。
「今日から新しいお友達が増えます」
オルセン先生が言った。
「パーカー君。みなさんに自己紹介をお願いします」
「はい!」
トビーは教室を見回した。
二十人ほどの顔が、一斉にこちらを向いている。
普通なら少しくらい緊張するところだろう。
だが、トビーはこういうときに緊張する性格ではなかった。
「トビー・パーカーです! カモメ湾から来ました!」
すぐに前の方から声が飛んだ。
「カモメ湾って、海があるところ?」
「そうさ! 大きな港があるんだ!」
「船に乗ったことある?」
「何度もあるよ! 父さんは漁師だったんだ!」
「魚も釣った?」
「もちろん!」
トビーは少し考え、教室の後ろを指さした。
「ジミーの頭くらいある魚を釣ったことがある!」
「何で俺の頭なんだよ!」
ジミーが叫んだ。
「ちょうどいい大きさだからさ!」
教室がどっと笑いに包まれた。
ジミー本人まで笑っている。
オルセン先生も少し口元を緩めた。
「では、パーカー君。たいへん元気な自己紹介をありがとう」
「はい!」
「魚のお話は、休み時間に続きを聞くことにしましょう」
トビーは頭をかきながら席へ戻った。
隣のクララが微笑んでいる。
「もうみんなに覚えてもらえたみたいね」
「そうかな?」
「ええ。少なくとも、ジミーの頭と魚の大きさは、みんな忘れないと思うわ」
トビーは笑った。
「それなら成功だな!」
クララもくすくす笑い、自分の教科書を開いた。
トビーも机の上を片づける。
学校というところは、どうやら友達と話しているばかりでは済まないらしい。
最初の授業は算術だった。
オルセン先生が黒板に分数の問題を書いていく。
トビーは最初の二問をすらすらと解いた。
「何だ。簡単じゃないか」
小声で呟く。
ところが三問目になると、どうしても答えが合わなくなった。
一度計算する。
違う。
消して、もう一度。
さっきとは別の答えが出た。
「……何でだ?」
三度目。
また違う。
「おかしいなあ。この問題、答えが逃げてるぞ」
隣のクララが顔を上げた。
「どうしたの?」
「こいつだけ、やるたびに答えが変わるんだ」
「問題のせいにするの?」
「だって、本当に変わるんだよ」
クララが帳面を覗き込んだ。
すぐに指をさす。
「あら。ここ」
「どこ?」
「足すところを引いているわ」
トビーは目を近づけた。
「あっ」
確かにそうだった。
「本当だ!」
急いで書き直す。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
クララはまた自分の帳面へ戻った。
その様子を後ろから見ていたオリバーが、小声で言った。
「君、数字まで船で揺らしてきたのかい?」
「うるさいな!」
トビーが振り返ろうとした。
ちょうどオルセン先生がこちらを見る。
慌てて前を向いた。
後ろでは、オリバーが口元を押さえて笑っていた。
*
休み時間になると、教室はたちまち賑やかになった。
ジミーは早速、トビーのところへやってきて「本当に魚くらい速く泳げるのか」と問いただし始めた。
トビーも負けずに「今度川で証明してやる」と答えた。
するとオリバーが横から、
「泳いでいい川かどうか、先に確認した方がいい」
と口を挟んだ。
「お前は何でも確認するんだな」
「君たちが何も確認しないからね」
そんな話をしているうちに、ジミーは別の友達に呼ばれていった。
オリバーも先生に帳面を渡しに行く。
トビーが机の上を片づけていると、一人の少女が近づいてきた。
「ねえ」
顔を上げる。
赤みがかった金色の髪を二本の三つ編みにした少女だった。
緑色の瞳。
頬には小さなそばかす。
腕には一冊のノートを大事そうに抱えている。
「あなた、本当に海のそばで暮らしていたの?」
「もちろんさ!」
「毎日、海を見ていた?」
「ほとんど毎日ね」
少女の目が輝いた。
「朝の海って、どんな色なの?」
「色?」
「銀色? 青? それとも空を映した大きな鏡みたいになるの?」
トビーは少し考えた。
「天気によるなあ。晴れていれば青いし、曇ってると灰色になる。朝早くだと、日が当たったところだけ金色に光ることもあるよ」
「金色の海……!」
少女は、まるでその景色が本当に目の前に現れたような顔になった。
「それって、太陽が海へ宝石を撒いたみたいね!」
「宝石だったら、毎朝拾いに行くのにな!」
トビーが言うと、少女は声を上げて笑った。
「あなたって面白いことを言うのね!」
「君だって、ずいぶん変わったことを考えるじゃないか」
「あら」
少女はすぐに言い返した。
「変わっているんじゃないわ。想像力が豊かなのよ」
胸を張る。
「私はエミリー・ハーパー」
「トビー・パーカー」
「知ってるわ。さっき聞いたもの」
「あ、そうか」
エミリーは抱えていたノートを少し持ち上げた。
「私ね、いつか、とびきり素晴らしい物語を書くつもりなの」
「作家になるの?」
「もちろん!」
迷いのない答えだった。
「このノートにも、もうたくさんお話が入っているのよ。王様のお話、旅をする少女のお話、誰も行ったことのない島のお話――」
「島なら僕も手伝えるぜ」
「本当?」
「船のことは結構知ってるからね。変な船を書いてたら教えてやるよ」
エミリーは目を丸くした。
「まあ、それは助かるわ!」
「たとえば、穴の空いた船で嵐の海へ出たりしたら駄目だからね」
「そんな船は書かないわよ!」
「でも、物語なら何が起きるか分からないだろ?」
「それもそうね」
エミリーは真面目に頷いた。
どうやら、この少女もなかなか面白い。
少し話しただけなのに、トビーはすぐにそう思った。
「あ、そうだわ」
エミリーが突然言った。
「あなた、昨日、時計塔の広場へ行ったでしょう?」
「ああ。行ったよ」
「じゃあ、銀の涙の泉も見た?」
「……銀の涙?」
トビーは首を傾げた。
「何だい、それ?」
「まあ!」
エミリーは心底驚いたような顔をした。
「あんなに美しい場所を知らないなんて!」
「昨日来たばっかりなんだから仕方ないだろ」
「時計塔の広場にあるでしょう? お日様が当たると、水が銀色の涙みたいにきらきらする泉が」
トビーはしばらく考えた。
「ああ!」
手を打つ。
「噴水か!」
「そうよ!」
「鳥の像があるやつだろ?」
「ええ!」
エミリーは満足そうに頷いた。
「私はあそこを『銀の涙の泉』って呼んでるの」
「誰がそんな名前をつけたんだい?」
「私よ」
トビーは黙った。
「……じゃあ、町の人に『銀の涙の泉はどこですか』って聞いても、分からないんじゃない?」
エミリーも黙った。
考える。
「……そうかもしれないわね」
「だろ?」
しかし、エミリーはすぐに顔を上げた。
「だったら、みんなに教えてあげればいいのよ!」
「何を?」
「名前を!」
「町じゅうに?」
「もちろん!」
あまりにも真面目に答えるので、トビーは吹き出した。
「そいつは大仕事だな!」
「笑わないでちょうだい。素敵な名前でしょう?」
「うん。悪くないよ」
「でしょう?」
「じゃあ、今度から僕もそう呼んでみる」
「本当?」
「ああ」
トビーは頷いた。
「ただし、道に迷ったときだけは普通の名前で教えてくれよ」
「もう!」
エミリーは頬を膨らませた。
けれども、すぐに笑い出した。
トビーも笑った。
クララとは違う。
クララと話しているときには、なぜか時々、自分が変なことを言っていないか気になった。
けれどもエミリーとは、初めて会ったばかりなのに、何でもそのまま口に出せるような気がした。
そのとき、窓の外から子供たちの歓声が聞こえた。
トビーは何気なく校庭へ目を向けた。
朝見た大きな楡の木が、窓の向こうに立っている。
風が吹き抜け、黄色い葉が何枚か枝を離れた。
その下を子供たちが駆け回っている。
「ねえ」
エミリーも窓の外を見た。
「何?」
「あの楡の木、気になる?」
トビーはぎくりとした。
「何で分かった?」
「朝から何度も見てるもの」
「そんなに見てないよ」
「今ので五回目」
「数えてたのか?」
エミリーは得意そうに笑った。
「作家になる人は、よく観察しなくちゃいけないのよ」
トビーはもう一度、楡の木を見た。
太い枝。
入り組んだ葉。
校舎の屋根より高い梢。
「あれ、登ったことある?」
「私が?」
「うん」
「ないわ」
エミリーはきっぱり答えた。
「でも――」
少し声を落とす。
「あの木には、ちょっと面白いものがあるのよ」
トビーが振り返った。
「面白いもの?」
ちょうどその瞬間、授業再開を知らせる鐘が鳴った。
廊下から子供たちが一斉に戻ってくる。
「おい、トビー! 早く座れ!」
ジミーが叫んだ。
「何があるんだよ?」
トビーはエミリーに尋ねた。
エミリーは自分の席へ戻りながら、意味ありげに笑った。
「それは、次の休み時間にね」
「何だよ、それ!」
「先生が来るわよ」
本当に廊下からオルセン先生の靴音が聞こえてきた。
トビーは仕方なく席へ戻った。
だが、頭の中では、もう次の授業のことなど半分も考えていなかった。
窓の向こうでは、大きな楡の木が秋の風に枝を揺らしている。
そしてトビーは、リンデンへ来て二日目にして、早くも学校には勉強以外にも面白いものがありそうだと思い始めていた。




