5. 校庭の小さな冒険(1)
翌朝、トビー・パーカーは、庭の梨の木で鳴いている小鳥の声に目を覚ました。
窓の外には、薄い朝霧が漂っていた。
赤茶色の屋根が並ぶ家々の向こうに時計塔がぼんやりと浮かび、そのさらに遠くには、リンデンを囲む丘が朝の光を待っている。
庭の梨の木は、昨日よりも少し黄色くなったように見えた。
窓を開けると、ひやりとした秋の空気が部屋へ流れ込んできた。
「うわ、寒っ」
トビーは思わず肩をすくめた。
カモメ湾なら、この時間にはもう港が目を覚ましていた。
漁船の汽笛。
荷を運ぶ男たちの掛け声。
桟橋にぶつかる波の音。
けれども、ここには海がない。
代わりに、霧の向こうから鐘の音が聞こえてきた。
ゴーン。
少し間を置いて、もう一度。
トビーはしばらく耳を澄ませていたが、次の瞬間、昨夜考えていたことを思い出した。
「そうだ!」
寝台から飛び起きる。
「今日から学校だ!」
普通なら、学校へ行く朝にこれほど嬉しそうな顔をする少年は珍しい。
もちろんトビーだって、算術や文法が楽しみで仕方がないわけではなかった。
彼が楽しみにしているのは、学校そのものではなく、そこにいる子供たちである。
カモメ湾では、仲間たちと船着き場を走り回った。
岩場で蟹を捕まえたり、海へ飛び込んで泳ぎ比べをしたり、古い木箱を積み上げて砦を作ったりもした。
一度など、漁師の舟へこっそり乗り込んだことがある。
沖へ出るつもりなどなかった。
ほんの少し、中を調べてみたかっただけなのだ。
ただし、その「ほんの少し」の間に舟が岸を離れかけ、父さんにはたいそう叱られた。
トビーとしては、なかなか面白い思い出だった。
父親にとって同じ思い出が面白かったかどうかは、かなり怪しい。
リンデンにも、そんなことを一緒にできる友達がいるだろうか。
それに――。
クララもいる。
昨日の夜、あれほど「別に同じ教室じゃなくてもいい」と自分に言い聞かせたくせに、目を覚ました途端、そのことまで思い出してしまった。
「……同じ教室だったら、まあ、便利だよな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「町の道とか教えてもらえるし」
そこまで言って、トビーは急いで顔を洗った。
それ以上考えると、また自分でもよく分からない言い訳を始めそうだった。
服を着替え、寝癖のついた栗色の髪を濡らした手で何度も押さえる。
一度はおとなしくなった。
だが、顔を洗って戻ってくる頃には、もう一房が元気よく跳ね上がっていた。
「……まあ、いいや!」
トビーは帽子をつかみ、勢いよく部屋を飛び出した。
*
台所には、焼きたてのパンと温かいミルクの匂いが漂っていた。
マーサ伯母さんが朝食の支度をしているそばで、ソフィーはネリーの髪を結っている。
「ほら、ネリー。もう少しだけこっちを向いて」
「さっきもそう言ったわ」
「だって、ここの髪が少し出ているんですもの」
「学校へ着くまでに、どうせまた乱れるわよ」
「それでも、出かけるときは綺麗な方がいいでしょう?」
ソフィーは赤いリボンを結び直した。
少し離れて眺める。
首を傾げる。
また近寄る。
「うん。今度こそ完璧だわ!」
「それ、三回目よ」
ネリーがため息をついた。
もっとも、鏡の中の自分を眺める顔は、それほど嫌そうではない。
「まあ、いいじゃない。初めての学校なんですもの」
「学校は髪を見せに行くところじゃないわ」
「でも、可愛い方がいいでしょう?」
「……悪くはないけど」
ネリーはほんの少し頬を赤くした。
そこへトビーがひょいと顔を出した。
「ねえ、姉さん」
「なあに?」
「僕の髪も見てくれよ」
ソフィーが振り返った。
しばらくトビーの頭を見つめる。
「あら」
「何だよ、その『あら』は」
「ずいぶん元気な髪ね」
「直らないんだよ」
「洗面台に櫛があるわよ」
「ネリーのは結んでやるのに?」
「あなたは自分でできるでしょう?」
「ネリーだって自分でできるって言ってるじゃないか!」
「そうね」
ソフィーはにっこりした。
「でも、私がネリーの髪を結びたいんですもの」
トビーは両手を広げた。
「ひどい不公平だ!」
ネリーが鏡越しに兄を見た。
「兄さんの頭は、外側をどんなに綺麗にしても、中身までは変わらないもの」
「何だと!」
「ほら。そうやってすぐ大声を出すところとか」
「お前が変なこと言うからだろ!」
ソフィーが吹き出した。
トビーは言い返そうとしたが、そのときマーサ伯母さんが焼きたてのパンを食卓へ置いた。
たちまち彼の注意はそちらへ移った。
「さあ、二人とも。初日から遅刻しないように、しっかりお食べ」
「うん!」
トビーは椅子へ座ると、まだ温かいパンを取った。
「伯母さん」
「何だい?」
「学校には大きな木があるって、本当?」
「ええ。校庭に立派な楡の木があるわ」
「どのくらい?」
「そうねえ……」
マーサ伯母さんは少し考えた。
「校舎の屋根に届きそうなくらいかしら」
トビーの手が止まった。
「そんなに大きいの?」
「ええ。ずいぶん昔からある木よ」
「へえ……」
トビーの目がみるみる輝いた。
「そいつは登りがいがありそうだ!」
マーサ伯母さんはパン籠を置く手を止めた。
「トビー」
「何?」
「学校へ行く前から、そんなことを考えているの?」
「まだ登るとは言ってないよ」
「じゃあ、今のは何だったんだい?」
「登りがいがありそうだなあって、木の立派さを褒めただけさ」
マーサ伯母さんはじっと甥を見た。
「ずいぶん都合のいい褒め方だねえ」
ネリーがミルクを飲みながら言った。
「伯母さん。兄さんが『登れそう』って言ったときは、だいたい登るつもりなのよ」
「余計なこと言うなよ!」
「事実でしょう?」
トビーは反論しようとした。
しかし、昨日、自分の部屋の窓から梨の木を見て、まったく同じようなことを言ったのを思い出した。
少しだけ黙る。
マーサ伯母さんは笑った。
「とにかく、まずは先生のお話をよく聞くこと。それから、お友達とは仲良くするんだよ」
「もちろん!」
トビーは大きく頷いた。
ただし、楡の木に登らないとは、一言も約束しなかった。
*
朝霧が薄くなり始めた頃、トビーとネリーはソフィーに連れられて家を出た。
ひばりの丘学校は、リンデンの北側にある緩やかな丘の上に建っていた。
坂道を登るにつれ、町の屋根が少しずつ低くなっていく。
道端では黄色く色づいた葉が朝露に濡れ、石垣の隙間から小さな草花が顔を出していた。
やがて坂の上に、淡い黄色の壁をした二階建ての校舎が見えてきた。
赤い瓦屋根。
中央には小さな鐘楼。
その前には広い校庭があり、登校してきた子供たちの声で賑わっている。
「あそこよ」
ソフィーが言った。
「ひばりの丘学校」
「へえ!」
トビーは校門をくぐった。
そして校舎を見るより先に、別のものを見つけた。
「うわあ……!」
校庭の一角に、大きな楡の木が立っていた。
本当に大きかった。
幹はトビーが両腕を広げても到底抱えきれそうにない。そこから太い枝が四方へ伸び、校庭の一角をまるごと覆っている。
葉はまだ緑を多く残していたが、ところどころ黄や褐色に色づき始めていた。
朝日が枝の隙間から差し込み、風が吹くたび、葉の影が地面の上で揺れた。
トビーは木の根元から、てっぺんまでゆっくり目で追った。
「あの枝からなら、町の向こうまで見えそうだな」
ソフィーがすぐに言った。
「トビー」
「分かってるよ」
「まだ何も言ってないわ」
「木に登るなって言うんだろ?」
「よく分かってるじゃない」
トビーは少し残念そうに木を見上げた。
「僕だって、学校へ遊びに来たわけじゃないよ」
「あら、そうなの?」
「勉強のついでに遊ぶんだよ」
ソフィーは笑いながら首を振った。
「順番が逆にならないようにね」
校舎の入口でソフィーと別れると、ネリーは下級生の教室へ向かった。
「それじゃ、兄さん。またあとでね」
「ああ!」
トビーは手を振った。
「先生に叱られるなよ!」
ネリーが足を止めた。
ゆっくり振り返る。
「それ、私が兄さんに言う言葉じゃない?」
「何だよ! 僕はまだ何もしてないぞ!」
「今はね」
「おい!」
ネリーは涼しい顔で階段を下りていった。
トビーは妹の背中へ何か言い返そうとしたが、すでに姿が見えなくなっていた。
「まったく……」
仕方なく上級生の教室を探そうとした、そのときだった。
「あら、トビー!」
聞き覚えのある声がした。
トビーは振り返った。
青いリボンで栗色の髪をまとめた少女が立っている。
クララ・ベネットだった。
昨日と同じ青いリボンだったが、朝の光の中で見ると、昨日よりも明るい青に見えた。
「おはよう!」
「や、やあ、クララ!」
トビーはなぜか急に背筋を伸ばした。
「ちゃんと学校に来られたのね」
「当たり前さ!」
トビーは胸を張った。
「このくらいの道、目をつぶってても来られるよ!」
「まあ」
クララが笑った。
「目は開けておいた方がいいと思うわ」
「たとえばの話だよ!」
「分かってるわ」
クララはくすくす笑った。
「教室は分かる?」
「これから調べるところさ!」
「つまり、分からないのね」
「まだ調べてないだけだって!」
「それなら、一緒に行きましょう」
クララは廊下の奥を指さした。
「じつは私と同じ教室なの」
「本当かい!」
トビーの顔がぱっと明るくなった。
「そいつはよかった!」
言ったあとで、少し言いすぎたような気がした。
クララがこちらを見る。
「そんなに?」
「え?」
「そんなに、よかったの?」
トビーは一瞬詰まった。
「だ、だってさ! 知ってるやつが一人でもいた方がいいだろ?」
「そうね」
クララは少しだけ楽しそうに笑った。
「私もそう思うわ」
トビーは何となく嬉しくなった。
二人は並んで廊下を歩き始めた。
途中で、下級生らしい小さな男の子が、抱えていた教科書を床へ落とした。
ばさばさと紙が散らばる。
「あっ!」
男の子が慌ててしゃがみ込む。
クララもすぐに膝をついた。
「大丈夫? 一緒に拾いましょう」
トビーも近くへ落ちた教科書を拾い上げた。
「ほら。こっちにもあるぞ」
「ありがとう!」
三人で拾うと、すぐに全部集まった。
「これで全部かな?」
「うん!」
男の子は本を抱え直した。
「ありがとう、クララ姉ちゃん!」
「どういたしまして。今度は落とさないようにね」
「うん!」
男の子は元気よく走っていった。
トビーはその背中を見送りながら尋ねた。
「知り合いなの?」
「ええ。お母さんと一緒に、うちのお店へよく買い物に来る子なの」
「ああ、青果店に?」
「そうよ」
クララは頷いた。
「商店街の子供たちは、だいたい顔を知っているわ。みんなよくお店へ来るもの」
トビーは感心した。
まだリンデンへ来たばかりの自分とは違って、クララには町じゅうに知っている人がいるらしい。
「じゃあ、リンデンのことなら何でも知ってるのかい?」
「何でもは知らないわ」
クララは少し考えた。
「でも、道ならかなり知ってると思う」
「そいつは頼もしいな!」
「昨日も役に立ったでしょう?」
「昨日?」
「帰り道」
「ああ……」
トビーは少し顔をしかめた。
「あれは迷ったわけじゃないぞ」
「そうなの?」
「ちょっと道順が頭の中で混ざっただけだ」
「それを迷うって言うんじゃないかしら」
「違うよ!」
クララは楽しそうに笑いながら、教室の扉を開けた。




