4. 青いリボンの少女(後編)
それから二人は、広場の噴水のそばまで歩いた。
トビーは故郷のことを話した。
港に並ぶ漁船のこと。海の向こうへ沈む大きな夕日のこと。嵐の翌朝には、浜辺に見たこともない貝が打ち上げられること。
クララもリンデンの話をしてくれた。
春になると丘一面に小さな花が咲くこと。秋には森が金色に染まること。冬には山から冷たい風が吹き下ろし、ときには町にも雪が積もること。
「雪がそんなに降るのかい?」
「ええ。寒い冬にはね」
「へえ! そいつは楽しみだ!」
「冬になれば、きっと寒いって文句を言うわよ」
「言わないさ!」
「本当?」
「たぶんね!」
クララは声を立てて笑った。
話しているうちに、トビーも少しずつ緊張しなくなってきた。
この少女はきちんとしていて、優しいだけでなく、なかなかしっかりしたところもあった。話していると楽しくて、時間が経つのを忘れてしまう。
それに、故郷の話を興味深そうに聞いてくれるのが嬉しかった。
「そういえば、学校はどこへ行くの?」
クララが尋ねた。
「ひばりの丘学校だよ。明日からなんだ」
「まあ!」
クララの顔がぱっと明るくなった。
「私もそこに通っているのよ!」
「本当!?」
「ええ。あなたと同じ十二歳だから、同じ教室になるかもしれないわね」
トビーは何とも嬉しくなった。
学校というものは、新しい土地で暮らす以上、どうしたって避けられないものだ。
けれども、そこにクララがいると思うだけで、明日が急に楽しみになってきた。
「じゃあ、また明日会えるね!」
「ええ。楽しみにしているわ」
そのとき、時計塔が四時を告げた。
ゴーン、ゴーン、と重々しい鐘の音が広場に響き渡る。
トビーは、はっと顔を上げた。
「いけない! 帰らなくちゃ!」
「あら、もうそんな時間?」
「夕食までに帰るって約束したんだ!」
「それなら、帰り道は分かる?」
「もちろん!」
トビーは胸を張った。
「時計塔を背中にして、郵便局の角を曲がって、それから……」
そこで少し黙った。
クララが首を傾げる。
「それから?」
「……ええと」
「分かってないじゃない!」
「分かってるよ! 今、思い出してるんだ!」
クララは笑いながら、道順を教えてくれた。
「ありがとう!」
「どういたしまして。今度は道を間違えないでね」
「任せといてよ!」
トビーは帽子を振った。
「じゃあ、また明日!」
「さようなら、トビー」
少女は小さく手を振った。
トビーも手を振り返した。
そして、広場を抜けて家へ向かって走り出した。
途中で一度だけ振り返ると、クララはまだそこにいた。
目が合うと、彼女はもう一度笑ってくれた。
トビーは慌てて前を向いた。
どういうわけか、心臓がいつもより速く動いているようだった。
*
家に戻ると、台所からいい匂いが漂ってきた。
「ただいま!」
「あら、お帰りなさい」
ソフィーが顔を出した。
「どうだった? 町の探検は」
「面白かったよ!」
「それはよかったわ」
ソフィーは彼の顔を見た。
「……あら?」
「何?」
「ずいぶん嬉しそうね」
「そう?」
「何かいいことでもあったの?」
「べ、別に!」
トビーは急に落ち着かなくなった。
ソフィーは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。
夕食には、魚と野菜をたっぷり入れたシチューが出た。
食卓にはマーサ伯母さんとソフィー、ネリー、そしてトビーが揃った。
窓の外には夕闇が降り始め、食堂のランプが柔らかな光を投げかけていた。
「それで、トビー。町はどうだったの?」
マーサ伯母さんが尋ねた。
「すごく面白かった!」
「何が一番気に入った?」
「ええと……」
トビーは少し考えた。
時計塔。
噴水。
賑やかな商店街。
どれも面白かった。
けれども、一番最初に頭に浮かんだのは、青いリボンをつけた少女の笑顔だった。
「……時計塔かな」
トビーは答えた。
「まあ、立派な時計塔でしょう?」
「うん!」
ネリーが兄の顔をじっと見た。
「兄さん、なんだか変ね」
「何が?」
「さっきから、にやにやしてる」
「してないよ!」
「そう?」
「そうだよ!」
ネリーは少し考えた。
「……ひょっとして、女の子にでも会った?」
トビーはシチューを飲み込み損ねた。
「な、何でそうなるんだよ!」
「当たった!」
「当たってない!」
ソフィーは口元を押さえて笑った。
マーサ伯母さんも、面白そうに兄妹を眺めている。
「まあまあ、ネリー。あまりお兄さんをからかわないの」
「だって、顔が真っ赤なんだもの!」
「これは暑いからだよ!」
「今日はそんなに暑くなかったわよ」
「シチューが熱いんだ!」
トビーが必死に言い張るので、とうとうソフィーまで声を上げて笑ってしまった。
トビーはすっかりふくれっ面になった。
しかし、しばらくすると、またいつものように今日見た町の様子を話し始めた。
時計塔の高さや、噴水の鳥の像、それから立派な店がたくさん並んでいたこと。
もちろん、馬車の勘違いについては黙っていた。
あれを話したら、ネリーに何と言われるか分かったものではなかったからである。
*
夕食が終わると、ソフィーはネリーを窓辺の椅子に座らせた。
「さあ、ネリー。髪を結び直してあげるわ」
「ソフィー姉さん、さっきも結んでくれたじゃない」
「でも、少しほどけているでしょう? せっかく可愛い髪なんですもの」
「自分でできるわよ」
「知ってるわ。でも、私がしてあげたいの」
ネリーは仕方なさそうに肩をすくめたが、椅子から立ち上がろうとはしなかった。
ソフィーは嬉しそうに櫛を取り、妹のような従妹の髪を優しく梳き始めた。
「僕の髪も梳いてくれていいんだぞ」
トビーが横から口を挟んだ。
「あなたは自分でできるでしょう?」
「ネリーだって自分でできるって言ってるじゃないか!」
「そうね。でも、ネリーは可愛いんですもの」
「……それじゃ、僕は可愛くないってことかい?」
「兄さん、今さら何を確かめてるの?」
ネリーが鏡越しに言った。
トビーは口を開いたが、何も言い返せなかった。
マーサ伯母さんは、洗った食器を拭きながら笑っていた。
「本当に賑やかになったねえ。昨日まで、この家はずいぶん静かだったのに」
「私は嬉しいわ、母さん。特にネリーが来てくれて」
「僕はどうなんだい!」
「あなたもよ、トビー。もちろんね」
その「もちろん」が、どうにも取ってつけたように聞こえた。
ソフィーはネリーの髪に淡い色のリボンを結び、満足そうに眺めた。
「ほら、できたわ。まあ、可愛い!」
「……ありがとう、ソフィー姉さん」
ネリーは鏡の中の自分を見つめた。
口元が少し緩んでいる。
ソフィーはそんなネリーの顔を見て、ふと手を止めた。
「ああ、やっぱり似ているわ」
「何が?」
ネリーが尋ねた。
「ねえ、母さん。こうしていると、ネリーって本当にサリー叔母さんによく似ていると思わない?」
マーサ伯母さんも振り返った。
「ああ、そうだね。笑ったときの目元なんて、そっくりだよ」
「ええ。それに、ちょっとすました顔で人に言い返すところまでね」
ソフィーが楽しそうに付け加えた。
「まあ、ソフィー姉さんったら!」
ネリーは少し頬を膨らませた。
「それじゃ、私がいつも生意気なことを言っているみたいじゃない」
「違うの?」
トビーが横から口を挟んだ。
「兄さんには言われたくないわ」
ネリーがすかさず言い返すと、ソフィーは声を上げて笑った。
「ほら、そういうところまでそっくり!」
マーサ伯母さんも懐かしそうに微笑んだ。
「そういえば、あなたたちのお母さんも、よくアーサーを言い負かしていたものだよ」
「父さんを?」
トビーが顔を上げた。
「そうさ。お父さんだって、昔はなかなか口が達者だったんだ。でも、お母さんには敵わなかったねえ」
「へえ!」
トビーは面白そうに笑った。
「じゃあ、ネリーが口喧嘩に強いのも母さん譲りってわけか!」
「兄さんがいつも負けるのは、兄さんが悪いだけでしょう?」
ネリーは涼しい顔で答えた。
「何だと!」
またしても笑い声が広がった。
その笑いが収まると、ソフィーはネリーの肩にそっと手を置いた。
「でもね、ネリー。本当にサリー叔母さんによく似ているのよ。こうして笑う顔を見ていると、ときどき懐かしくなるくらい」
ネリーは鏡の中の自分をもう一度見つめた。
お母さんに似ていると言われたのは、これが初めてではなかった。
父さんも、以前からときどきそう言ってくれていた。
それでも、ソフィーやマーサ伯母さんから改めて言われると、やはり嬉しかった。
「……そんなによく似ている?」
ネリーは少し照れくさそうに尋ねた。
「ええ、とっても」
ソフィーは優しく答えた。
「特に今みたいに笑ったときね」
「そうかしら」
ネリーは何でもないことのように言った。
けれども、その顔には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
マーサ伯母さんが目を細めた。
「サリーさんも、綺麗なリボンが好きだったねえ。髪を結ぶときは、いつも丁寧に整えていたものだよ」
「覚えてるわ」
ネリーは小さく頷いた。
「母さん、私の髪もよく結んでくれたもの」
「そうね」
ソフィーは微笑んだ。
「私も、何度か一緒にいたことがあるわ」
ネリーは鏡の中のリボンに指先で触れた。
「……じゃあ、明日もこのリボンにしようかしら」
「あら、もちろん! 明日の朝も私が結んであげるわ!」
「自分でできるってば」
「でも、結ばせてくれるでしょう?」
ネリーはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……一回だけならね」
ソフィーは嬉しそうにネリーを抱きしめた。
「ああ、もう! なんて可愛いの!」
「ソフィー姉さん! 苦しいわ!」
そう言いながらも、ネリーは笑っていた。
トビーは椅子の背にもたれながら、二人の様子を眺めていた。
母が亡くなって、もう三年になる。
けれども、トビーは母の笑顔をよく覚えていた。
港から帰ってきた父さんを迎えるときの顔も、いたずらを見つけて困ったように笑う顔も。
そして、ネリーが笑うときの目元が母に似ていることも、前から知っていた。
ただ、こうして家族みんなで母の話をしていると、昔の食卓の賑やかさまで思い出されるようだった。
「ねえ、伯母さん」
トビーはふと思いついて言った。
「母さんって、僕がいたずらすると、よく笑ってたよね?」
「ええ。笑っていたねえ」
マーサ伯母さんは頷いた。
「でも、そのあとでちゃんと叱っていたでしょう?」
「……そうだったっけ?」
「都合の悪いところだけ忘れちゃいけないよ」
伯母さんが笑うと、ネリーもすかさず口を挟んだ。
「兄さん、母さんに叱られた回数なら、きっと町で一番だったでしょうね」
「そんなことないさ!」
「じゃあ、二番?」
「何で順位をつけるんだよ!」
また食堂に笑い声が広がった。
悲しいことを忘れたわけではなかった。
けれども、この家では亡くなった母のことも、こうして笑いながら懐かしく話すことができた。
*
「ところで母さん」
ソフィーがネリーのリボンの端を整えながら言った。
「アーサー叔父さん、次はいつ帰ってくるの?」
「三週間後くらいだそうよ。新しい仕事だから、しばらくは忙しいんですって」
「三週間も!」
ネリーが口を尖らせた。
「父さん、そんなに長く帰れないの?」
「そうねえ。長距離列車のお仕事だから、一度出発すると、なかなか戻れないんだよ」
マーサ伯母さんは優しく言った。
「でも、帰ってきたら、きっとたくさんお話を聞いてくれるわよ」
「それにしても、アーサーが漁師をやめて、鉄道の仕事を始めるなんてねえ」
伯母さんは懐かしそうに笑った。
「昔は船に乗ることしか考えていない子だったのに」
「カモメ湾では、この頃ずいぶん魚が獲れなくなったんでしょう?」
ソフィーが尋ねた。
「そうらしいね。アーサーもずいぶん苦労したみたいだよ」
マーサ伯母さんは頷いた。
「漁だけで暮らしていくのが難しくなっていたそうだからね。それに、あの子たちの学校のこともあったんだよ」
「カモメ湾の学校は小さかったものね」
ネリーが言った。
「ええ。リンデンなら、この先もきちんと勉強を続けられるからね」
伯母さんは二人を見た。
「アーサーも、ずいぶん考えて決めたことなんだろうよ」
「それに、叔父さんの故郷ですものね」
ソフィーが言った。
「そうさ。あの子も小さい頃は、この町を走り回っていたんだよ」
「父さんも?」
トビーが興味深そうに身を乗り出した。
「もちろん。あなたに負けないくらい腕白だったんだから」
「へえ!」
「木に登ったり、川へ遊びに行ったり、私を困らせることばかりしていたねえ」
トビーは嬉しくなった。
「やっぱり父さんも、そうだったんだ!」
「感心するところじゃないよ」
マーサ伯母さんは笑った。
「それでも、困っているときはお互いさまだもの。弟が頼ってくれるなら、姉として嬉しいことだよ」
「おかげで、こんなに可愛い子たちがうちに来てくれたんですもの」
ソフィーはそう言って、またネリーの肩を抱いた。
「特にネリーが!」
「僕はどうなんだい!」
「あなたも大切よ、トビー」
「どうして、いつもあとからなんだよ!」
「だって、あなたは元気いっぱいで、放っておいても大丈夫そうなんですもの」
「僕だって、たまには甘やかされたいんだけどなあ!」
するとネリーが、ソフィーの腕の中から顔を出した。
「兄さんが甘やかされたら、ますます手がつけられなくなるでしょう?」
トビーは口を開いた。
しかし、すぐには言い返せなかった。
どう考えても、この二人が組んだら勝ち目がないのである。
*
しばらくして、トビーはふと思いついて尋ねた。
「ねえ、伯母さん。父さんが帰ってきたら、僕らの学校も見に来られるかな?」
「都合がつけばね。アーサーも、二人がどんな学校に通うのか気にしていたから」
「じゃあ、それまでに僕もすっかりリンデンのことに詳しくなっておかなくちゃ!」
「学校の勉強にも詳しくなっておくれよ」
マーサ伯母さんがすかさず言った。
「分かってるよ!」
するとネリーが、ソフィーの腕の中から顔を出した。
「三週間もあれば、兄さんは先生に名前を覚えてもらっているでしょうね」
「そりゃもちろん!」
「褒められる方じゃなくて、叱られる方で」
「何だと!」
ネリーの言うことが妙にありそうな話だったので、トビーはその先を言い返せなかった。
ソフィーはとうとう、お腹を抱えて笑い出した。
*
そのあと、ソフィーはトビーの翌日の服と教科書を一緒に確かめてくれた。
「明日は初めての学校ね」
「うん!」
「緊張してない?」
「少しも!」
トビーは胸を張った。
「面白いやつがたくさんいるといいな!」
「きっといるわよ」
「だったら、すぐ友達になれるさ!」
ソフィーは微笑んだ。
「でも、授業中にはちゃんと先生のお話を聞くのよ」
「分かってるよ!」
「いたずらも、ほどほどにね」
「まだ何もしてないのに!」
トビーが抗議すると、ソフィーは楽しそうに笑った。
「そうね。でも、あなたの場合は、今のうちに言っておいた方がよさそうだもの」
「ひどいなあ!」
トビーは口をとがらせた。
けれども、明日の学校のことを考えると、すぐにまた嬉しくなった。
*
やがて夜も更け、トビーは自分の部屋へ戻った。
窓を開けると、涼しい風が頬を撫でた。
夜のリンデンは静かだった。
遠くで時計塔の鐘が鳴り、どこかの家からピアノの音がかすかに聞こえてくる。
故郷のような波の音はない。
夜になると聞こえていた船の汽笛も、港で働く男たちの声も聞こえなかった。
けれども、もうそれほど寂しくはなかった。
トビーは窓辺に肘をつき、今日出会った少女のことを思い出していた。
クララ・ベネット。
なかなか可愛い子だった。
しかも、明日も会える。
「……同じ教室だったらいいな」
そう呟いてから、彼は自分の言葉に驚いた。
「いや、別に……どっちでもいいけどさ」
誰も聞いていないのに、慌てて言い訳をする。
それから少し考えて、首を振った。
「それより、どんな男の子がいるんだろうな!」
故郷で仲間たちと遊んだ日々を思い出した。
港の木箱を積み上げて砦を作ったこと。
船着き場から飛び込んで、誰が一番遠くまで泳げるか競争したこと。
そして、誰かが思いついたいたずらを、みんなでもっと大きないたずらにしてしまったこと。
ここにも、そんな友達がいるだろうか。
トビーは窓を閉め、寝台へ潜り込んだ。
明日は初めての学校だ。
どんな先生がいるのだろう。
どんな友達ができるのだろう。
そして、クララは本当に同じ教室なのだろうか。
そんなことを考えているうちに、彼はいつの間にか眠っていた。
リンデンの夜は静かに更けていった。
新しい町での二日目には、きっとまた、何か面白いことが待っている。
トビーはそう信じて、心地よい眠りの中へ落ちていった。




