3. 青いリボンの少女(前編)
買い物を終えて伯母さんの家に戻ったとき、午後の日差しはまだ庭の梨の木の梢に明るく降り注いでいた。
リンデンの空は、トビーがこれまで知っていた空とは少し違っていた。故郷の港町では、空はいつも海と競い合うように青かった。ところがこの町では、遠くに連なる山々が空の裾を取り囲み、まるで大きな緑色の鉢の中に町全体が収まっているように見えた。
トビーはその景色が気に入っていた。
ただし、いつまでも眺めているだけで満足できる性分ではなかった。
「伯母さん、ちょっと町を見てきてもいい?」
台所で買ってきた野菜を並べていたマーサ伯母さんは、振り返って眉を上げた。
「まあ、さっき帰ってきたばかりじゃないの」
「まだ見てないところがたくさんあるんだ!」
「それはそうでしょうね。リンデンは一日で全部見られるほど小さな町じゃないもの」
「だから、今のうちに少しでも見ておきたいんだよ!」
伯母さんは返事の代わりにソフィーを見た。
ソフィーは食器棚に皿をしまいながら、楽しそうに笑った。
「時計塔のある広場までなら、いいんじゃないかしら。道も難しくありませんし」
「ほら!」
「ただし、夕食までには必ず帰ってくること。それから、知らない建物や危ない場所へ勝手に入ってはいけませんよ」
「分かった!」
「本当に分かったの?」
「もちろん! 広場まで行って、見物して、ちゃんと帰ってくる。それでいいだろ?」
トビーは指を折りながら答えた。
マーサ伯母さんは、ようやく頷いた。
「それなら行ってらっしゃい」
「やった!」
トビーは帽子をひっつかんだ。
「兄さん!」
居間からネリーが顔を出した。
「また何かやらかさないでよ!」
「やらかすって何だよ!」
「兄さんなら、自分で分かるでしょう?」
「僕は町を見に行くだけだぞ! 泥棒を捕まえたり、悪党と決闘したりするわけじゃないんだから!」
「そんなこと、誰も言ってないわよ」
ソフィーが吹き出した。
トビーは何とも不満そうな顔をしたが、言い返す時間が惜しかった。
新しい町が、玄関の向こうで彼を待っていたからである。
*
リンデンの町には、午後になると独特の美しさがあった。
石畳の上には建物の影が伸び、二階の窓から下がった花籠には、赤や紫の花がこぼれんばかりに咲いている。
焼きたてのパンの匂いが漂う角を曲がると、今度は革をなめす匂いがした。時計屋の店先には金色の懐中時計が並び、仕立屋の窓には、トビーにはひどく窮屈そうに見える立派な上着が飾ってあった。
「へえ、あんな服を着て、どうやって木に登るんだろう?」
トビーは真剣に考えた。
もっとも、仕立屋は木登りのために服を作っているわけではなかった。
広場へ続く通りには、馬車の車輪の音や商人たちの呼び声が絶えなかった。
故郷では、町の人々はほとんど誰もが知り合いだった。ところがリンデンでは、すれ違う人の顔を誰一人知らない。
それは少し寂しくもあったが、同時に、何とも胸の躍ることだった。
知らない人が百人いれば、これから知り合える人が百人いるということではないか。
トビーは、そう考える少年だった。
やがて時計塔のある広場へ出た。
白い石で造られた噴水の中央には、翼を広げた鳥の像が立っている。水は鳥のくちばしから細い弧を描いて落ち、日の光を受けて小さな宝石のようにきらめいていた。
広場の向こうには、大きな時計塔がそびえていた。
古い煉瓦の壁を蔦が這い、青銅の時計盤は長い年月のために少しくすんでいる。それでも針はきちんと時を刻んでいた。
「へえ……立派なもんだなあ」
トビーは時計塔を見上げた。
もしあの上へ登れたら、町が全部見えるだろう。
山も、森も、鉄道も。
ひょっとしたら、秘密の抜け道だって見つかるかもしれない。
そんなことを考えながら噴水の縁に腰を下ろしたとき、広場の外れに一人の少女が立っているのが目に入った。
少女は通りに面した掲示板に貼られた紙を、熱心に読んでいた。
年の頃はトビーと同じくらいだろうか。
栗色の髪を後ろでまとめ、大きな青いリボンを結んでいる。淡い水色の服には白い襟がついていて、足元の革靴はきれいに磨かれていた。
腕には小さな買い物籠を下げている。
トビーはしばらく、その少女を眺めていた。
きちんとした服装も、背筋を伸ばした立ち姿も、どこか故郷の女の子たちとは違って見えた。
「……可愛い子だな」
思わず口に出してしまい、トビーは慌てて周りを見回した。
幸い、誰も聞いていなかった。
そのとき、一台の馬車が通りの向こうから近づいてきた。
トビーは、ぎょっとした。
馬車が道路の左側を走っていたのである。
故郷の港町では、馬車は右側を走る決まりだった。
だからトビーには、こちらへ向かってくる馬車が間違った側を走っているように見えた。
しかも、その先には少女が立っている。
少女は掲示板を読み終え、ちょうど通りの方へ顔を向けたところだった。
「危ない!」
トビーは叫んだ。
少女が振り返った。
その瞬間、トビーは駆け出していた。
「えっ?」
彼は少女の腕をつかみ、歩道の奥へ引っ張った。
「きゃっ!」
少女の買い物籠が大きく揺れ、中にあった小さな紙包みが石畳に落ちた。
馬車は何事もなく通り過ぎていった。
御者は一瞬、驚いたようにこちらを見たが、そのまま手綱を操って走り去った。
トビーは胸を撫で下ろした。
「ふう! 危ないところだった!」
ところが少女は、驚いた顔で彼を見つめていた。
「……あなた、いったい何をするの?」
「何って、馬車が来ただろ!」
「ええ、来たわね」
「あんなところを走ってたら危ないじゃないか!」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「あんなところって?」
「左側だよ! あの御者、決まりを知らないのか?」
少女は一瞬、口を開きかけた。
それから何かに気づいたように、トビーの顔をまじまじと見た。
「あなた、ひょっとして、この町の子じゃないでしょう?」
「そうだけど?」
「やっぱり!」
少女の口元がほころんだ。
「リンデンではね、馬車は左側を走るのよ」
「……え?」
「それが決まりなの」
トビーは道路を見た。
ちょうど別の馬車がやってきた。なるほど、こちらも進行方向の左側を走っている。
「……本当だ」
「でしょう?」
「じゃあ、さっきの馬車は……」
「ちゃんと決まりを守っていたのよ。それに私は歩道にいたんだから、大丈夫だったわ」
トビーの耳が、みるみる赤くなった。
これは困ったことになった。
彼は少女を助けたつもりだったのに、何の危険もないところから、わざわざ引っ張ってしまったらしい。
「……ごめん」
トビーは帽子を取った。
「僕、知らなかったんだ」
少女はしばらく彼を見つめていた。
「びっくりしたわ。急に腕をつかまれたんですもの」
「うん……悪かったよ」
「でも、私が危ないと思ってくれたのね」
「そ、そりゃあ……」
「それなら、ありがとう」
少女は微笑んだ。
「だけど、次からはちゃんと確かめてね。私、転びそうになったんだから」
「分かった!」
トビーは勢いよく頷いた。
「次は、もっと上手に助けるよ!」
「次なんて、ない方がいいわ!」
少女は思わず笑い出した。
トビーもつられて笑った。
ところが、彼女が笑った顔を見たとたん、今度は別の理由で顔が熱くなった。
灰青色の瞳は澄んだ湖のようで、笑うと頬に小さなくぼみができる。
トビーは女の子にこんなふうに微笑みかけられることに、まるで慣れていなかった。
「あ、あの……」
「なあに?」
「そ、その、落としたもの……」
トビーは慌てて紙包みを拾い上げた。
「ありがとう。母に頼まれた糸なの」
少女は包みを受け取り、籠にしまった。
「そうだわ。まだ名前を聞いていなかったわね」
「トビー。トビー・パーカー」
「私はクララ。クララ・ベネットよ」
「クララ……」
トビーは小さくその名を繰り返した。
響きのいい名前だと思った。
「あなた、どこから来たの?」
「南の方の、小さな港町だよ。今日引っ越してきたんだ」
「まあ、海の近くなの?」
「近くなんてもんじゃないよ! 家から歩いてすぐ海なんだ!」
クララは目を輝かせた。
「素敵ね。私、海を見たことがないの」
「本当!?」
トビーは心底驚いた。
「じゃあ、いつか見においでよ! 僕が案内してあげる!」
「ふふっ。ありがとう。でも、あなたはもうここに住むのでしょう?」
「あっ、そうか」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑い出した。
「でもね、海には行ってみたいわ」
クララは少し遠くを見るように言った。
「本で読んだことはあるの。水平線って、空と海の境目が分からなくなるくらい遠くにあるんでしょう?」
「うん! 天気のいい日は、海が空を映して、どっちも青くなるんだ!」
「まあ、素敵!」
「でも、嵐の日はすごいぞ! 波が家より高くなったりしてさ!」
「そんなときに外へ出たら危ないでしょう?」
「大丈夫さ! 僕、泳ぐのは得意なんだ!」
「泳ぎが得意でも、嵐の海へ入っていいわけじゃないわよ」
クララはきっぱりと言った。
トビーは少しだけ口を尖らせた。
「……分かってるよ。そんなことしないさ」
「それならいいけれど」
クララは真面目に頷いた。
けれども、すぐにまた微笑んだ。
「あなた、海が大好きなのね」
「うん!」
「それじゃあ、ここでは寂しくなるんじゃない?」
トビーは少し考えた。
「どうかな。でも、ここには山があるし、森もあるだろ?」
「ええ」
「だったら、面白いこともいっぱいあると思うんだ!」
クララは感心したように彼を見た。
「あなたって、ずいぶん元気なのね」
「そうかな?」
「そうよ。それに、少し無鉄砲みたい」
「そんなことないよ!」
「さっき、知らない女の子をいきなり引っ張ったのは誰かしら?」
「……僕です」
トビーが観念して答えると、クララはまた笑った。
その笑い声は、噴水の水音に混じって、明るい午後の広場に響いた。




