2. 新しい町、リンデン(後編)
荷物を片づけ、昼食を済ませた頃、マーサ伯母さんが台所から声をかけた。
「ソフィー、夕食の買い物をお願いできる?」
「ええ、いいわよ」
「僕も行く!」
トビーが勢いよく立ち上がった。
「あら、さっそく町を見たいのね」
「うん! さっきは通り過ぎただけだったからさ!」
「それじゃあ、ネリーも一緒に行ってらっしゃい」
マーサ伯母さんが言った。
「ただし、あまり遅くならないようにね」
「分かってるよ!」
トビーは帽子をつかんだ。
「それと、トビー」
「何?」
「ソフィーの言うことをちゃんと聞くんだよ」
「もちろんさ!」
「……その返事、お父さんにもしていたんじゃない?」
ネリーが横から言った。
「何だよ! 僕はちゃんと聞いてるぞ!」
「聞いているだけじゃ駄目なのよ」
ネリーが涼しい顔で答えると、マーサ伯母さんは声を上げて笑った。
ソフィーもくすくす笑いながら、買い物籠を手に取った。
「さあ、行きましょう」
*
外へ出ると、秋の風が庭の梨の木を揺らしていた。
黄色くなり始めた葉が一枚、トビーの肩へ落ちてくる。
彼はそれをつまんで眺めると、すぐに風へ放した。
葉はくるくると回りながら庭の向こうへ飛んでいった。
午後の商店街は、駅前とはまた違った賑わいを見せていた。
石畳の上を荷馬車がごとごとと走り、通りの両側にはさまざまな店が並んでいる。
パン屋の店先からは焼きたてのパンの香りが漂い、花屋には秋咲きの花々が色鮮やかに飾られていた。
肉屋では大きな男が白い前掛けをつけて客と話し、通りの向こうでは新聞売りの少年が声を張り上げている。
「へえ! ずいぶん店が多いんだなあ!」
トビーは右を見たり左を見たりしていた。
「リンデンはこの辺りじゃ大きな町なのよ」
ソフィーが説明した。
「カモメ湾とは全然違うや!」
「海がないのは残念?」
「少しね。でも、ここには面白そうなものがいっぱいあるよ!」
トビーは目を輝かせた。
通りの角には、磨き上げられた靴を並べた店があった。
その隣の時計屋では、大きな柱時計から小さな懐中時計まで、いくつもの時計が窓いっぱいに飾られている。
「おっ、見ろよ、ネリー! 時計があんなにあるぞ!」
「時計屋さんなんだから、当たり前でしょう?」
「でも、あんなにたくさんあったら、どれを見ればいいか迷っちゃうな!」
「兄さんは時計を見ても、約束の時間を忘れそうだけど」
「忘れないさ!」
トビーはそう言いながら、今度は通りの反対側に目を向けた。
そこには大きなガラス窓の仕立屋があり、色鮮やかなドレスが飾られていた。
「あら、素敵!」
ネリーが足を止めた。
ソフィーも嬉しそうに窓を覗き込む。
「まあ、本当に綺麗ね。ネリーには、あの淡い青色が似合いそうだわ」
「そうかしら?」
「ええ、きっと可愛いわよ!」
ソフィーはネリーの肩を抱いた。
ネリーは少し照れたように笑った。
トビーは二人を振り返った。
「ねえ、まだ行かないの?」
「あら、ちょっと待ってちょうだい」
「さっきから服ばっかり見てるじゃないか!」
「女の子には大切なことなのよ」
ソフィーは楽しそうに答えた。
「僕にはよく分からないなあ」
「兄さんには、その帽子がお似合いよ」
ネリーが言った。
「そうだろ!」
トビーは得意そうに帽子のつばを上げた。
「ええ。少しくらい泥がついていても、誰も驚かないでしょうから」
「何だよ、それ!」
ソフィーは思わず吹き出した。
トビーは不満そうに口をとがらせたが、すぐにまた別の店へ目を向けた。
彼にとっては、綺麗な服よりも、まだ知らない路地や、その向こうに何があるのかということの方が、ずっと気になるのである。
*
それから間もなく、三人は緑色のひさしがついた果物屋の前に来た。
看板には『ベネット青果店』と書かれている。
店先には真っ赤なリンゴや黄色い梨、紫色のブドウが木箱いっぱいに並び、その脇には大小さまざまなカボチャも積まれていた。
いかにも秋らしい、豊かな店先だった。
「わあ、うまそう!」
トビーは足を止めた。
中でも、大きなリンゴが目に入った。
赤くつやつやしていて、いかにも甘そうだった。
トビーは一つ手に取って眺めた。
故郷のカモメ湾では、果物を積んだ船が港に入ると、顔なじみの船乗りや商人が子供たちに傷物を分けてくれることがあった。
トビーもよく、知り合いの店でリンゴを一つもらっていた。
もちろん、リンゴが売り物だということくらい知っている。
ただ、カモメ湾では顔なじみの店主が「一つ持っていきな」と気前よく渡してくれることも多かったのである。
そんな故郷の習慣が、つい出てしまった。
「おじさん、これ一つもらってくよ!」
そう言って歩き出そうとした。
「おい、ちょっと待ちな!」
店の奥から、太った男が顔を出した。
「代金はどうした?」
「代金?」
トビーはきょとんとした。
「リンゴ一つだよ?」
「一つでも二つでも、売り物は売り物だ!」
「えっ?」
トビーは目を丸くした。
「でも、こんなにたくさんあるじゃないか!」
「たくさんあるから売ってるんだよ!」
店主は呆れたように言った。
「お前さん、いったいどこの子だい?」
トビーはリンゴを持ったまま立ち止まった。
どうやら、カモメ湾の顔なじみの店とは勝手が違うらしい。
そこへ、ネリーが駆け寄ってきた。
「兄さん!」
「何だよ」
「勝手に持っていっちゃ駄目でしょう!」
「今、分かったところだよ!」
ネリーは兄の手にあるリンゴを見て、それから店主の顔を見た。
事情を察したらしい。
「すみません。兄が失礼しました」
ネリーが頭を下げると、少し離れたところで野菜を選んでいたソフィーも、騒ぎに気づいてやってきた。
「あら、どうしたの?」
店主が答えた。
「この坊主が、リンゴを持っていこうとしたんだよ」
「まあ!」
ソフィーは驚いてトビーを見た。
「トビー、本当なの?」
「持っていこうとしただけだよ! カモメ湾じゃ、いつもリンゴを分けてもらってたからさ」
「まあ、トビーったら!」
ソフィーは慌てて店主に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません。私が一緒にいながら、きちんと見ていなくて……」
「いえ、兄が失礼しました」
ネリーも隣でもう一度頭を下げた。
ソフィーは続けた。
「私たち、今日リンデンへ引っ越してきたばかりなんです。この子は港町で育ったものですから、知り合いの商人の方に果物を分けてもらうことがよくあって……」
「ほう、そうなのかい?」
店主はトビーを見た。
「だからって、どこの店でもただでもらえるわけじゃないぞ、坊主」
「うん。分かったよ」
トビーは手の中のリンゴを見つめた。
それから店主に差し出した。
「ごめんなさい。つい、いつもの癖でさ。勝手に持っていこうとしたのは僕が悪かったよ」
店主はしばらくトビーの顔を見ていた。
やがて、ふっと表情を和らげた。
「まあ、ちゃんと分かったならいいさ」
「ありがとうございます」
ソフィーはもう一度、軽く頭を下げた。
「それじゃあ、このリンゴを一ついただけますか?」
「はいよ!」
店主は値段を告げた。
ソフィーが財布を取り出そうとすると、ネリーが横から小さな財布を差し出した。
「私が払うわ。兄さんが食べたかったんでしょう?」
「あら、ネリー。いいの?」
「ええ。兄さんに貸しを作っておくのも悪くないもの」
「おい! 何だよ、それ!」
トビーが抗議すると、店主まで笑い出した。
「ははは! しっかりした妹さんだな!」
ネリーは涼しい顔で銅貨を渡した。
「ありがとうございます」
「毎度ありがとう!」
店主はリンゴを紙袋に入れてくれた。
トビーはそれを受け取り、店主へ帽子を持ち上げてみせた。
「ありがとう、おじさん!」
「ああ。またおいで。ただし、今度はちゃんとお金を持ってくるんだぞ!」
「もちろんさ!」
トビーが元気よく答えると、店主はまた笑った。
*
三人が店を離れると、ソフィーはトビーに向き直った。
「トビー、今度からは気をつけてね」
「分かってるよ!」
「知らない町では、故郷と同じようにはいかないこともあるんだから」
「うん。もう勝手には持っていかないさ!」
ネリーが横から言った。
「当たり前でしょう?」
「お前は黙ってろよ!」
「私が払ってあげたのに?」
トビーは言葉に詰まった。
ソフィーがくすくす笑った。
「まあまあ、二人とも。ちゃんと謝れたんだから、もういいでしょう?」
「そうだよ!」
トビーは元気を取り戻した。
「それに、リンデンじゃ顔なじみでもないのに、リンゴをもらおうとしちゃいけないって分かったんだからさ!」
「兄さん、それはどこの町でも同じだと思うわ」
「そんなことないさ! カモメ湾のおじさんたちはくれたもの!」
「それは兄さんのことを知っていたからでしょう?」
「……まあ、そうかもしれないけど」
ネリーは呆れたように笑った。
トビーは紙袋からリンゴを取り出し、一口かじろうとした。
しかし、そこでふと妹の顔を見た。
「……なあ、ネリー」
「何?」
「これ、お前が買ってくれたんだよな」
「そうよ」
「じゃあ、半分やるよ」
そう言ってリンゴを割ろうとしたが、なかなかうまくいかなかった。
「くそっ、ずいぶん頑丈なリンゴだな!」
「リンゴにまで喧嘩を売らないでちょうだい」
ネリーが言った。
「喧嘩してるんじゃないよ!」
トビーはもう一度力を込めたが、やっぱり割れなかった。
結局、ソフィーに小刀で切ってもらうことになった。
「ほら、ネリー」
トビーは大きい方を妹に差し出した。
「えっ、私に?」
「お前が買ってくれたんだろ。半分はお前のだよ」
「でも、兄さんが食べたかったんでしょう?」
「いいんだよ。僕はこっちで十分さ!」
ネリーは少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに受け取った。
「ありがとう、兄さん」
「いいってことさ!」
ソフィーは二人を見て微笑んだ。
「あら、優しいお兄さんね」
「そうだろ!」
トビーは得意そうに胸を張った。
するとネリーが、リンゴを一口かじりながら言った。
「いつもこうなら、もっといいんだけど」
「何だよ! せっかく分けてやったのに!」
「だから、お礼を言ったでしょう?」
トビーは口を開いたが、結局言い返せなかった。
ソフィーはまた楽しそうに笑った。
*
買い物を終えた三人は、伯母さんの家へ向かって歩き始めた。
時計塔の針はまだ午後の早い時刻を指しており、通りには柔らかな秋の日差しが降り注いでいる。
行き交う人々の声に、荷車の車輪の音。
どこかの店からは陽気な鼻歌が聞こえ、二階の窓辺では猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。
並木の葉が風に揺れ、石畳の上を何枚かの落ち葉が追いかけ合うように転がっていった。
トビーは歩きながら、もう一度町を見回した。
大きな駅。
立派な時計塔。
賑やかな商店街。
そして、故郷とは少し勝手の違う果物屋。
知らない道がいくつもあり、角を曲がるたびに新しい景色が現れる。
トビーは、そのどれもが面白くてたまらなかった。
「ねえ、ソフィー姉さん」
「なあに?」
「あとで、もう一度町を見に来てもいい?」
「あら、まだ見足りないの?」
「当たり前だよ! こんなに面白そうなところがあるんだもの!」
ソフィーはくすくす笑った。
「それなら、お母さんに聞いてみましょうね」
「やった!」
「まだいいとは言ってないわよ」
「でも、駄目とも言ってないだろ?」
ソフィーは思わず吹き出した。
「まあ、あなたったら!」
ネリーも笑った。
トビーは得意そうに胸を張り、もう一度町を見回した。
まだ歩いたことのない道が、あちらにもこちらにも伸びている。
黄色く色づき始めた並木の向こうには、時計塔の屋根が午後の日差しを受けて輝いていた。
今日はもう一度、あの時計塔まで行ってみよう。
そんなことを考えながら、トビーは二人の少し先を歩き始めた。




