1. 新しい町、リンデン(前編)
十月に入って間もない、よく晴れた午後だった。
汽車が三度目の汽笛を鳴らしたとき、トビー・パーカーは窓に鼻を押しつけていた。
「おい、ネリー! 見ろよ! あんなに大きな山があるぞ!」
「見えてるわよ。さっきから三回も聞いたもの」
向かいの座席で、妹のネリーが呆れたように答えた。
「でも、すごいじゃないか! あの山の向こうには何があるんだろう?」
「山じゃないの?」
「そんなこと聞いてるんじゃないよ!」
「だったら、行って確かめてくれば?」
「言われなくたって、そのつもりさ!」
ネリーは小さく笑った。兄なら本当にやりかねないと思ったのである。
トビーは十二歳。日に焼けた顔に、少しくせのある栗色の髪。大きな茶色の瞳は、いつも何か面白いものを探しているように輝いていた。
細身ではあるが、手足はよく鍛えられている。木登りや水泳なら、同じ年頃の子供たちにはめったに負けなかった。
もっとも、本人に言わせれば一度も負けたことがないそうだが、実際には何度か負けている。そういう都合の悪いことを、彼はあまり長く覚えていないのである。
妹のネリーは十歳だった。兄と同じ栗色の髪を二つのおさげに結び、青いワンピースを着ている。兄ほど無鉄砲ではなかったが、負けず嫌いなところはよく似ていた。
二人が生まれ育ったのは、王国南西部にあるカモメ湾という小さな港町だった。
海に面したその町には、白い灯台と古い船着き場があった。家々は低く、通りにはいつも魚と潮の匂いが漂っていた。朝になれば漁船が次々に戻り、威勢のよい掛け声が響いたものだった。
けれども、窓の外に海はない。
代わりに、なだらかな丘と広い牧草地がどこまでも続いている。
丘の斜面に点々と生えた木々は、まだ夏の名残の緑を多く残していたが、そのところどころに赤や黄色が混じり始めていた。風が吹くたび、色づいた葉が一枚、また一枚と舞い落ちていく。
「何だか変な気分だなあ」
トビーが呟いた。
「何が?」
「海が見えないんだよ」
「ここは海のそばじゃないもの」
「分かってるけどさ。海がない町なんて、どうやって遊ぶんだろう?」
「山があるじゃない」
「そうか! 山があるんだ!」
トビーはたちまち元気になった。
まったく、彼ほど簡単に新しい楽しみを見つける人間も珍しかった。
そのとき、客車の扉が開いた。
「二人とも、そろそろ荷物をまとめなさい」
紺色の制服を着た男が顔を出した。
父親のアーサー・パーカーだった。
口髭を蓄えた背の高い男で、制服の胸には王国鉄道の金色の徽章がついていた。
「父さん、もう着くの?」
「ああ。次がリンデン駅だ」
「父さんも降りる?」
「残念だが、私はこのまま乗務を続けなければならない」
トビーは少しだけ顔を曇らせた。
「じゃあ、今度はいつ帰ってくるの?」
「三週間ほど先になるだろうな」
「そんなに?」
「手紙は出すさ。それに、マーサ伯母さんがいるだろう」
父親は息子の肩に手を置いた。
母親が亡くなってから三年。
アーサーはカモメ湾で漁師を続けながら、一人で二人の子供を育ててきた。
しかし、近頃は海で魚が獲れなくなり、漁業だけで暮らしていくのが難しくなっていた。
そこで新しい仕事を探し、故郷のリンデンで鉄道の仕事に就くことになったのである。
長距離列車の乗務員となったアーサーは、一度仕事に出れば、長い間家を空けなければならない。
そのため、姉のマーサに子供たちの世話を頼むことにしたのだった。
「伯母さんの言うことをよく聞くんだぞ。特にトビー、お前は面倒を起こすんじゃないぞ」
「僕がいつ面倒を起こしたっていうのさ!」
ネリーが横から口を挟んだ。
「先週、魚屋さんの樽に落ちたでしょう?」
「あれは樽の板が外れたんだ!」
「その前には漁師さんの網に絡まったわ」
「カニを逃がしてやろうとしたんだよ!」
「それから……」
「もういい! 父さんだって分かっただろ!」
父親は声を上げて笑った。
「まあ、元気なのは結構だ。ただし、怪我だけはしないようにな」
「任せといてよ!」
「その返事が一番心配なんだがな」
やがて汽車は速度を落とし、煉瓦造りの駅舎が近づいてきた。
ホームには荷物を抱えた旅人や、帽子をかぶった紳士たちが集まっている。
駅員が大きな声で駅名を告げた。
「リンデン! リンデン駅!」
白い蒸気がホームを覆った。
トビーとネリーは荷物を持って列車を降りた。
父親は車内から二人に手を振った。
「元気でな!」
「父さんも!」
トビーは力いっぱい手を振り返した。
汽車が動き始める。
長い客車の列が遠ざかり、やがて父親の姿も見えなくなった。
「……行っちゃったね」
ネリーが小さく言った。
「うん」
トビーは妹の顔を見た。
いつもは口の達者なネリーが、少し寂しそうにしていた。
「なあ、ネリー」
「何?」
「父さんが帰ってきたら、びっくりするくらい町に詳しくなっておこうぜ!」
「三週間で?」
「もちろん! 僕が案内してやるよ!」
ネリーは兄を見上げた。
「その前に、兄さんが迷子にならなきゃいいけど」
「なるもんか!」
トビーは胸を張った。
けれども、本当のところ、彼はまだ駅から外へ出たことさえないのである。
*
「トビー! ネリー!」
人混みの向こうから、大きな声が聞こえた。
振り向くと、ふくよかな婦人が手を振っていた。
茶色い帽子に濃い緑色の長いスカート。頬は赤く、丸い顔には人のよさそうな笑みが浮かんでいる。
「マーサ伯母さん!」
ネリーが駆け出した。
「ああ、よく来たわね!」
伯母さんはネリーを抱きしめ、それからトビーにも両腕を広げた。
「まあまあ! トビーったら、こんなに大きくなって!」
「もう十二歳だもの!」
「そうだったわねえ。最後に会ったときは、まだこんなに小さかったのに」
伯母さんは胸のあたりに手をかざしてみせた。
「そんなに小さくないよ!」
「ふふ、そうだったかしら」
マーサ伯母さんは父親の姉だった。兄妹がまだ幼かった頃、何度か港町を訪れたことがある。
けれども、ここ数年は会っていなかった。
「さあ、行きましょう。ソフィーが家で待っているわ」
三人は駅を出た。
駅前には広い通りがあり、馬車が何台も行き交っていた。
石畳の両側には二階建ての建物が並び、窓には花を植えた木箱が飾られている。
通り沿いの並木では、黄色く色づき始めた葉が秋の風に揺れていた。そのうちの一枚がくるくると回りながら落ちてきて、トビーの靴のそばへ舞い降りた。
通りの向こうには、背の高い時計塔がそびえていた。
「へえ! あれがリンデンの時計塔か!」
トビーは足を止めた。
「そうよ。町の自慢なの」
マーサ伯母さんが答えた。
「カモメ湾の時計より、ずっと大きいや! あんなに高いところにあったら、町じゅうから時間が分かるだろうな!」
「ええ。毎日、鐘の音で時刻を知らせてくれるのよ」
「てっぺんまで登れるのかな?」
「さあ、どうかしらね」
伯母さんは少し笑った。
「でも、あなたを登らせるために建てたわけじゃないのよ」
「分かってるよ!」
トビーは口をとがらせた。
「ただ、あそこからなら町が全部見渡せそうだなと思っただけさ!」
ネリーが横から言った。
「兄さんは何でも高いところへ登りたがるのね」
「高いところに登れば、遠くまで見えるだろ!」
「そうね。落っこちたときも、遠くまで見えるでしょうね」
「落ちるもんか!」
伯母さんは笑いながら歩き出した。
やがて通りの角を曲がると、立派な煉瓦造りの建物が見えてきた。
正面には広い石段があり、大きな窓がいくつも並んでいる。
「おっ、あの建物は何だい? ずいぶん立派じゃないか!」
「あれは市役所よ。リンデンの町のいろんな仕事を取り扱っているところね」
「へえ! カモメ湾の役所とは大違いだ!」
トビーは感心した。
「向こうは小さな建物だったのに、こっちはお城みたいだな!」
「リンデンはカモメ湾より、ずっと大きな町だからね」
マーサ伯母さんが説明した。
その隣には、別の煉瓦造りの建物があった。
入口のそばには郵便の看板が掲げられ、人々が封筒や小包を持って出入りしている。
「あっ、郵便局だ!」
トビーは建物を見上げた。
「リンデンの郵便局はずいぶん大きいんだな!」
「そうでしょう?」
マーサ伯母さんは微笑んだ。
「この辺りでは、大きな郵便局の一つなのよ」
「カモメ湾じゃ、こんなに立派な建物はなかったよ。手紙を船乗りのおじさんや商人に頼んで運んでもらうことも多かったしさ」
「港町なら、そういうこともあるでしょうね」
「でも、こんなに大きな町だと、毎日たくさん手紙が集まるんだろうな!」
「ええ。遠くの町へ送る手紙や荷物も、ここで扱っているのよ」
すると、ネリーが尋ねた。
「じゃあ、父さんに手紙を出すときも、ここへ持ってくればいいの?」
「そうよ。宛先を書いて、ちゃんと手続きをすれば送れるわ」
「それなら、私も父さんに手紙を書こうかしら」
ネリーは嬉しそうに言った。
「僕も書くよ!」
トビーは勢いよく答えた。
「父さんが帰ってくるまでに、リンデンで見つけた面白いものを全部教えてやるんだ!」
「全部書いたら、ものすごく長い手紙になりそうね」
ネリーが言った。
「長くたっていいじゃないか!」
トビーは笑った。
それからも、通りを進むたびに新しいものが目に入った。
大きなガラス窓の仕立屋。
何台もの時計を飾った時計屋。
焼きたてのパンを並べた店。
八百屋の軒先には赤いリンゴや大きなカボチャが並び、店の前を通るたびに、秋の実りの甘い匂いが風に混じって流れてきた。
カモメ湾にも同じような店はあったが、リンデンでは建物も通りも、ずいぶん立派に見えた。
「伯母さん、あの細い路地はどこへ続いてるの?」
「市場の裏手よ」
「じゃあ、あっちの坂道は?」
「学校の方へ続いているわ」
「その向こうは?」
「トビー、家に着くまでに町じゅうの道を覚えるつもり?」
伯母さんが笑った。
「できればね!」
ネリーはため息をついた。
マーサ伯母さんの家は、町の東側の静かな住宅街にあった。
白い壁に赤茶色の屋根を持つ二階建ての家で、庭には古い梨の木が一本立っていた。
玄関の脇には小さな花壇があり、黄色い花が秋の風に揺れている。
「素敵なお家!」
ネリーが嬉しそうに言った。
「ありがとう。さあ、入りなさい」
玄関の扉が開くと、焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。
「お母さん、帰ってきたの?」
奥から若い娘が顔を出した。
十七歳のソフィーだった。
栗色の長い髪を後ろでまとめ、白いブラウスと紺色のスカートを着ている。柔らかな灰色の瞳をした、優しそうな娘だった。
「まあ! トビー! ネリー!」
「ソフィー姉さん!」
ネリーが駆け寄った。
ソフィーは嬉しそうに両腕を広げ、ネリーをぎゅっと抱きしめた。
「ああ、ネリー! 会いたかったわ!」
「ソフィー姉さん、苦しいわ!」
「あら、ごめんなさい。でも、本当に大きくなったわね。こんなに可愛らしくなって!」
ネリーは少し照れたように笑った。
ソフィーはようやく彼女を離すと、トビーの方を見た。
「あら、あなたも大きくなったわね」
「そうだよ!」
「昔は私の後ろをついて歩いていたのに」
「そんなことしてないよ!」
「あら、そうだったかしら? 私がお庭に出ると、いつも走ってついてきたでしょう?」
「それは姉さんが持ってたお菓子が目当てだったんだよ!」
ソフィーは声を上げて笑った。
「まあ! そうだったの?」
「……たぶん」
トビーもつられて笑った。
ソフィーの笑顔を見ていると、幼い頃、カモメ湾で一緒に遊んだ日のことが思い出された。
「さあ、まずはお部屋を見せてあげるわ」
二階には小さな寝室が二つ用意されていた。
トビーの部屋には木製の寝台と机、それに古い本棚が置かれている。
窓を開けると、庭の梨の木がすぐそばに見えた。
「おっ! この木、登れそうだ!」
トビーは目を輝かせた。
「駄目よ」
ソフィーが即座に言った。
「まだ何もしてないよ!」
「顔を見れば分かるわ」
「じゃあ、顔を見せないで登ればいいのかい?」
「トビー!」
ソフィーが腰に手を当てると、ネリーが笑い出した。
「兄さんったら、着いたばかりなのに!」
「登るなんて言ってないだろ! 登れそうだって言っただけさ!」
「同じようなものよ」
ソフィーは笑いながら答えた。
「とにかく、荷物を片づけるのが先ね」
「分かってるよ!」
トビーはそう答えたが、窓の外の梨の木が気になって仕方がなかった。
太い幹から枝が大きく広がり、色づき始めた葉の間には、まだいくつか梨の実が残っている。
あの枝なら、きっと庭を見渡せるだろう。
その向こうには何があるのだろう。
トビーは窓枠に手をかけ、もう一度遠くを眺めた。
赤い屋根の家々が並び、その向こうには時計塔が見える。
さらに遠くには、赤や黄色の混じり始めた丘がいくつも連なっていた。
海辺の故郷とは、何もかもが違っている。
けれども、悪くない景色だった。
トビーはしばらく窓の外を眺めていた。
秋の風が梨の枝を揺らし、一枚の葉が庭へ静かに落ちていった。
やがて、トビーは嬉しそうに笑った。
どうやらこの町には、まだまだ面白そうな場所がたくさんありそうだった。




