第6話 警星
人目につかないように、ユール副隊長が馬車まで誘導してくれた。
「んじゃ、アステリアーナちゃんは先に休んでね。なんかあったら、外に誰かいると思うから声かけてね」
そう言って、ユール副隊長は隊員が一番多い方向へ向かっていった。
馬車の中に戻る。
外からは、かすかに村人たちの声が聞こえてくる。
近くでは、隊員の誰かがあくびをしている声も聞こえた。
馬が地面を蹴っている蹄の音や、鼻を鳴らす音。
いつもと変わらない、夜の音。
そんな音を聞いているうちに、だんだんと眠くなってきた。
ウトウトし始めたとき、ふと身体にかかっている毛布を見る。
そういえば、この毛布。
臭い毛布だ。
……洗ってもらえばよかった。
そんなことを思い出しながら、私は眠りに落ちた。
遠くから、悲鳴が聞こえた。
女の人の高い声。
子供が泣いている声。
「なんだろう……」
なんで、こんなに騒がしいの……
気になって、身体を起こした。
馬車の中は暗い。
外から、何かが走る音が聞こえる。
人の声。
馬の鳴き声。
そして。
聞いたことのない、大きな音。
私はゆっくりと、カーテンの隙間へ近づいた。
外を見てはいけないと思った。
でも……
それでも。
ほんの少しだけ。
カーテンを開けた。
「……っ!」
そこには、見たことのない生き物がいた。
大きい。
馬よりも、ずっと大きい。
四本の脚で地面を踏みしめ、低く身を構えている。
暗闇の中でも分かるほど大きな爪。
口には鋭い牙が並び、開かれた口からは粘ついた唾液が糸を引いていた。
その口元には、赤黒いものがこびりついている。
「……なに、あれ……」
初めて見る、その姿に。
身体が動かなくなった。
その瞬間。
「陣形を崩すな! うろたえるな!」
声が響いた。
いつもの優しそうな声とは違う。
冷静で、鋭い。
ユール副隊長の声だった。
ユール副隊長は近くに繋がれていた馬のところまで駆け寄ると、手にしていた剣で紐を切った。
そのまま軽やかに馬へ跨る。
「アステリアーナに近づけさせるな!」
「はい!」
「分かりました!」
隊員たちが一斉に動き出す。
「ザイン、ノア! アステリアーナちゃんを頼む!」
「了解!」
「任せてください!」
二人がすぐに馬車の前へ移動する。
アステは何が起きているのか分からないまま、その背中を見つめていた。
ユール副隊長は魔獣へ視線を向ける。
冷静に、目の前の敵を見据えている。
「私が魔獣を引きつける」
そう言うと、ユール副隊長は馬を走らせた。
魔獣の横をすり抜ける瞬間、剣を振るう。
「――っ!」
魔獣の身体から血が飛び散った。
「こっちだ!」
ユール副隊長が叫ぶ。
魔獣がゆっくりと振り返った。
そして、ユール副隊長を追うように地面を蹴った。
「今だ! 追え!」
隊員たちも一斉に馬を走らせる。
何頭もの馬の蹄の音が、夜の村を駆け抜けていく。
ユール副隊長と魔獣。
その後を追う隊員たち。
遠ざかっていく音を、アステはただ呆然と聞いていた。
やがて、その姿が見えなくなる。
静かになったわけではない。
村のあちこちから、まだ悲鳴や泣き声が聞こえている。
けれど、アステのいる場所だけが、取り残されたように感じた。
「…………」
ふと、視線を下げる。
そこには、さっきまで魔獣がいた場所があった。
地面は赤く染まっていた。
土の上には、何かの欠片が散らばっている。
それが何なのか。
考えたくなかった。
けれど、その中に人のものだと分かるものが混じっている。
「…………っ」
アステは口元を押さえた。
すぐ近くで。
人が、殺された。
「…………」
声を出すことが出来なかった。
ザインさんとノアさんが、すぐそばにいる。
二人とも剣を構えたまま、周囲を警戒している。
けれどアステの目には、その二人の姿さえ遠く感じられた。
頭の中に、先ほど見た魔獣の姿が焼きついて離れない。
そして。
血に染まった地面も。
そこに残されたものも。
もう、目を逸らしても消えてくれなかった。
しばらくすると。
地面を踏みしめる音が聞こえた。
ドン。
ドン。
ゆっくりと近づいてくる。
「……え?」
ザインが顔を上げる。
ノアも音のする方向へ視線を向けた。
暗闇の中から、大きな影が現れる。
「……魔獣」
ザインの声が震えた。
その姿を見た瞬間、二人の表情が変わる。
「……っ!」
二人が魔獣へ剣を向ける。
魔獣が低く唸った。
次の瞬間、地面を蹴る。
「来るぞ!」
ザインが剣を振り上げた。
ガキィン!!
鋭い音が響く。
「ぐっ……!」
魔獣の爪が剣を弾き飛ばした。
「ザイン!」
ノアも斬りかかる。
けれど。
ガンッ!!
ノアの身体も大きく弾き飛ばされた。
「うわっ!」
二人が体勢を崩す。
その瞬間。
魔獣が馬車へ向かって身体をぶつけた。
――ドォン!!
「きゃあっ!!」
馬車が今までにないほど大きく揺れた。
身体が浮く。
「きゃ……っ!」
壁に肩をぶつける。
「痛っ……!」
何度も身体をぶつけながら、馬車の中を転がる。
何が起きているのか分からない。
ただ、馬車が揺れている。
いや。
揺れているなんてものじゃない。
まるで、大きな何かに振り回されているみたいだった。
「アステ!」
外からノアの声が聞こえる。
けれど、返事をする余裕なんてない。
――バキッ!!
大きな音がした。
馬車の壁に亀裂が走る。
「……っ」
もう一度、衝撃。
――バキバキッ!!
木が折れる音がする。
壁の一部が崩れ、外の夜が見えた。
「……!」
アステは必死に身体を起こした。
その隙間から外へ転がり出る。
地面に倒れ込んだ。
「痛……」
顔を上げる。
すぐ目の前に、ザインさんとノアさんがいた。
ザインがアステを抱え、木の影へ隠れる。
魔獣は壊れた馬車を振り回していた。
「お前……!」
ザインが震える声を上げた。
「お前、悪魔の力持ってんじゃねーのかよ!!」
「ザイン!」
ノアが止めようとする。
けれど、ザインは止まらない。
「なんで戦わねぇんだよ!!」
「……」
何を言われているのか分からなかった。
「俺たちじゃ、あいつに勝てねぇ!」
ザインがアステを睨む。
「お前なら……お前なら、何かできるんじゃねぇのかよ!」
「やめろ!」
ノアが叫ぶ。
「魔力持ちだ。覚醒前なんだぞ!」
「うるせぇ!」
ザインが怒鳴った。
「じゃなきゃ、俺たちが死ぬことになる!」
そう言って、ザインはアステの肩を強く掴んだ。
「なぁ!」
身体を揺さぶられる。
「……ザインさん……痛い……」
その言葉に、ザインがはっとした。
掴んでいた手の力が緩む。
「……っ」
ザインは何も言えずに手を離した。
ノアが低い声で言う。
「変に煽るな。暴走する可能性だってあるんだぞ」
「……くそっ」
ザインが拳を握る。
その瞬間。
魔獣の影が動いた。
「――っ!」
鋭い爪が振り下ろされる。
「アステ!」
ザインが咄嗟にアステを抱きかかえ、横へ飛び退く。
ドォン!!
爪が地面を抉った。
「……っ、危なかった……」
ザインが息を切らす。
ノアが周囲を見回した。
「とりあえず逃げるぞ」
「でも……」
「二人じゃ無理だ」
ノアは剣を構え直す。
「今は生き残ることだけ考えろ!」
「……分かった」
ザインがアステを抱え直す。
三人は魔獣から離れるように、村の奥へ向かって走り出した。
ザインはアステを片腕で抱え、走っている。
アステの顔は、ザインの進行方向とは反対を向いていた。
身体は前へ運ばれているのに、顔だけは後ろを向いている。
ザインの腕に身体を預けたまま、アステは何度も上下に揺れていた。
「……っ、はぁ……!」
ザインの荒い息が聞こえる。
そのとき。
後ろから、ドスン、ドスン、と地面を踏み鳴らす音が近づいてきた。
アステは怖くて目を閉じた。
けれど。
「……っ」
恐る恐る、顔を上げる。
そこに。
魔獣がいた。
暗闇の中から、こちらへ迫ってきている。
四本の脚が地面を踏みしめるたび、土が大きく跳ねる。
鋭い爪が地面を抉り、走るたびに土や草が宙へ舞っている。
大きく開かれた口からは、粘ついた唾液が糸を引いていた。
身体中に赤黒いものがこびりついている。
「グルルル……」
低い唸り声が響く。
「……怖い……」
アステは震えながら、ザインの服を強く握った。
「とにかく、こいつだけは守らないと俺たちの意味がねぇ」
ザインが前を向いたまま言った。
「そうだな。……ユール副隊長は、一体どこに」
ノアが息を切らしながら答える。
「……全滅したんじゃねーの」
ザインの声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。
「え?」
アステは思わず顔を上げる。
「全滅……!?」
「ユール副隊長は、そんなに弱くないだろ?」
ノアが言う。
「……」
二人とも黙った。
しばらく、誰も何も言わない。
「……最悪の予想だけど……」
ノアが、ぽつりと口を開く。
「魔獣は一体じゃない……」
「おいおいやめろって。冗談じゃねーよ」
ザインが吐き捨てるように言った。
そのとき。
夜空へ、赤い光が打ち上がった。
「……?」
赤い光は高く昇っていく。
そして、空中で弾けるように強く輝いた。
周囲が一気に明るくなる。
夜なのに、まるで昼間のように。
赤く照らされた村の景色は、どこか不思議な光景だった。
けれど。
今は、その光さえ怖かった。
「……警星灯」
ザインとノアが、同時に呟いた。
数日前。
カイルさんに、普段持ち歩いているものを教えてもらったことを思い出す。
その中に、筒形のものがあった。
名前は、警星灯。
危険を知らせるため、緊急時に使うものらしい。
「滅多に使わないんだ」
カイルさんはそう言っていた。
カイルさん自身も、まだ一度も使ったことがないらしい。
そんなものが。
今、夜空に上がっている。
「おい、ザイン! 警星灯持ってるか!?」
ノアが叫ぶ。
「あー? 持ってたと思うけど」
「打ち上げろ」
「分かったよ」
ザインはアステをノアへ預けた。
ノアはアステを両腕で抱き上げた。
さっきまで身体を乱暴に揺さぶられていたのが嘘みたいに、身体が安定した。
けれど、アステからはもう魔獣の姿が見えない。
魔獣の足音だけが聞こえる。
ザインは身体をあちこち探し始める。
腰。
胸元。
ポケット。
「……ねぇな」
さらに探す。
「……あったわ」
ザインが筒を取り出した。
それを横に捻る。
次の瞬間。
赤い光が、夜空へ打ち上がった。
「……っ」
眩しい。
赤い光が周囲を照らし、二人の顔まで赤く染める。
ザインが空を見上げた。
「お前の予想、当たってるかもな」
「……ああ」
ノアも赤く染まった空を見上げる。
二人は短く言葉を交わすと、走る方向を変えた。
合流するためなのか。
アステには分からない。
ただ。
ノアの腕の中で、背後から聞こえる魔獣の足音だけが、ずっと響いていた。
赤い光が、夜空の上で燃え続けている。
ノアの腕の中で、アステはじっと身を縮めていた。
背後から聞こえる足音が、どんどん近づいてくる。
ドスン。
ドスン。
ドスン。
「……っ」
地面を踏みしめる音が、すぐそこまで迫っていた。
ザインが振り返る。
「……来るぞ」
「分かってる!」
ノアが走る速度を上げる。
けれど。
次の瞬間。
――グアアアアッ!!
背後から、魔獣の咆哮が響いた。
「……っ!」
アステが身体を強張らせる。
ノアが振り返った。
「ザイン!」
魔獣が跳んだ。
大きな身体が宙へ浮かび、鋭い爪が、ノアとアステへ向かって振り下ろされる。
「くそっ!」
ザインが咄嗟にノアたちの前へ出た。
「アステを頼む!」
「ザイン!?」
ガキィン!!
剣と爪がぶつかる。
凄まじい衝撃だった。
「ぐっ……!」
ザインの身体が大きく沈む。
両手で剣を横に構え、必死に爪を受け止める。
けれど。
「……っ、重……!」
魔獣の力が強すぎる。
剣が少しずつ押し込まれていく。
刃が、わずかに傾いた。
「……っ」
次の瞬間。
鋭い爪が、ザインの身体へ食い込んだ。
「――ぐぁっ!!」
赤いものが飛び散る。
「ザイン!!」
ノアの声が響いた。
ザインの身体を、魔獣の爪が深く抉っていた。
それでも。
ザインは倒れなかった。
歯を食いしばり、魔獣を押し返す。
「……っ、行け……!」
「ザインさん……!」
アステが震えた声を漏らす。
「見るな!」
ザインが叫ぶ。
「アステは、前だけ見てろ!」
ノアがアステを抱いたまま走り出す。
ザインもすぐに後を追った。
「ザイン! お前、走れるのか!?」
「……走るしかねぇだろ!」
息を荒くしながら、ザインが答える。
けれど。
走るたび、傷口から血が落ちた。
暗い地面に、赤い跡が点々と続いていく。
一歩。
また一歩。
足を止めれば、追いつかれる。
だから。
ザインは走った。
ただ、二人についていく。
それだけだった。
「……もう少しだ!」
ノアが前方を見た。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえてくる。
そして。
「アステリアーナ!」
聞き覚えのある声。
ユール副隊長だ。
けれど。
いつもの声とは違った。
低い。
冷たい。
余裕がない。
アステは顔を上げた。
暗闇の向こうから、一頭の馬が近づいてくる。
ユールは三人の姿を確認した瞬間、馬を止めた。
「……何があった」
低い声だった。
アステは、その声に違和感を覚えた。
いつものユールは、もっと柔らかい。
笑っているような声で、アステリアーナちゃん、と呼ぶ。
けれど今の声には、その柔らかさが一つもなかった。
ユールの視線が、ザインへ向く。
「……ザイン」
短く名前を呼ぶ。
その目が、ザインの身体に付いた血を捉えた。
「その傷、魔獣か」
「……はい」
ノアが答える。
「こいつが、俺とアステを庇って……」
「そうか」
ユールはそれだけ言った。
そして馬から降りる。
「ノア。アステリアーナを頼む」
「分かりました」
「ザインは俺が運ぶ」
「でも……」
「いいから」
静かな声だった。
それなのに、逆らえないほど強い。
ユールはザインの腕を肩に回す。
「立て」
「……っ」
ザインが身体を起こす。
けれど、傷の痛みに顔を歪める。
その瞬間。
ユールの目が鋭くなる。
「……くそ」
小さく吐き捨てるような声。
アステは、その横顔を見つめていた。
いつものユールとは違う。
笑わない。
冗談も言わない。
優しい声もしない。
ただ、目の前にいる人間を生きて連れて帰ることだけを考えている。
そんな顔だった。
「ユール副隊長……」
アステが小さく呼ぶ。
ユールは振り返らない。
「大丈夫だ」
低い声で言う。
その言葉が、アステに向けられたものなのか。
それとも、自分自身に言い聞かせているのか。
アステには分からなかった。
ただ。
その声には、いつもの余裕がなかった。
「……行くぞ」
ユールがザインを見る。
「ノア。アステリアーナを連れて行け」
「はい」
ザインが首を横に振った。
「……俺は残る」
「ザイン」
ユールの声が低く響く。
「お前はもう……」
そこまで言って、ユールは口を閉じた。
視線だけが、ザインの身体へ向けられる。
服は血で赤く染まっている。
立っていることさえ、不思議なくらいだった。
それでも。
ザインは剣を握っていた。
「俺が残ったほうがいい」
「……」
「このまま四人で逃げたら、追いつかれる」
ザインは魔獣を見る。
その足は震えていた。
それでも、下がらない。
「……なら、俺が残る」
「ザイン」
「俺がここで足止めする。その間に、お前たちは距離を稼げ」
ザインは剣を握り直した。
「俺がここで止める」
ノアがザインを見る。
「ザイン……」
「アステを頼む」
「……分かった」
ノアが答える。
それ以上、何も言わなかった。
ユールも、しばらくザインを見ていた。
「……本当に、それでいいんだな」
「……ああ」
ザインが頷く。
ユールは目を伏せる。
ほんの一瞬だけ。
けれど、すぐに顔を上げた。
「分かった」
短い言葉だった。
「行くぞ、アステリアーナ、ノア」
「……でも……」
アステはザインを見る。
血で濡れた服。
荒い呼吸。
それでも、こちらを見ている。
「大丈夫だ」
ザインが言った。
さっきまで怒鳴っていた声とは違う。
静かで穏やかな声だった。
「だから、行け」
アステは何も言えなかった。
「行こう」
歩き出す。
けれど。
数歩進んだところで、アステは振り返った。
ザインはまだそこにいる。
剣を握りしめ。
一人で。
魔獣と向き合っている。
「……ザインさん……」
小さく呟く。
けれど、返事はない。
「アステリアーナ」
ユールの低い声がする。
「振り返るな」
「……」
「前を見ろ」
その声は怖かった。
アステは言われた通り、前を向いた。
その背後で。
「――来い!!」
ザインの叫び声が響いた。
直後。
魔獣の咆哮が、夜の村を震わせる。
「グアアアアアッ!!」
そして。
剣が何かにぶつかる音がした。
「……っ」
「走れ」
ユールの低い声が響いた。
まるで、後ろを見るなと言っているかのようだった。
アステは唇を噛みしめる。
そして。
ノアとユールに連れられ、暗い村の奥へと走っていった。




