第5話 小さな安らぎ
ーー 二十日後 ーー
「アステリアーナちゃん、起きてー」
「……ん……」
ぼんやりと目を開ける。
薄暗い馬車の中に、朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
「おはよう。よく寝てたわね」
ユール副隊長が、馬車のカーテンを少し開けながら声をかける。
「……おはようございます」
「まだ眠そうね」
「……昨日、みんなが話しているのを聞いていたら、遅くなっちゃって……」
「ふふ。すっかりみんなと仲良くなったわね」
「……別に、仲良くなったわけじゃありません」
少し間を置いてから、小さく付け足す。
「……ちょっとだけです」
王都へ向かう移動が始まってから、二十日。
最初の頃は、馬車の外から聞こえる隊員たちの声が怖かった。
何を話しているのか。
どんな人たちなのか。
自分のことをどう思っているのか。
分からないことばかりだった。
けれど、同じ人たちとご飯を食べ、一緒に休憩しているうちに、少しずつ相手のことが分かるようになってきた。
誰が朝に弱いのか。
誰が料理をすると味が濃くなるのか。
誰が馬の世話をするのが得意なのか。
「おーい! アステ!」
馬車の外から声が聞こえた。
窓の外を見ると、レオンさんが馬に乗りながら、馬車の横を進んでいた。
「おはようございます、レオンさん」
「おう! おはよう!」
「なんだか、とっても眠そうですね」
「夜通し走ってたからな」
「ふふっ」
最初の頃は、どう返せばいいのか分からなかった。
でも今は、こうして普通に話せる。
それが少しだけ嬉しかった。
しばらくすると、馬車がゆっくりと速度を落とした。
外を見ると、朝露の残る草原が広がっている。
遠くには低い丘が見え、大きな木が何本か並んでいた。
「ここで少し休憩するわね」
ユール副隊長がそう言う。
馬車が止まると、アステは自分で外へ降りた。
ひんやりとした朝の空気が頬に触れる。
土の冷たい匂いがした。
隊員たちは馬車から荷物を降ろしたり、馬の様子を確認したりしている。
馬たちも少し疲れているようで、ゆっくりと鼻を鳴らしていた。
アステはその場で身体を伸ばす。
「んー……」
ずっと馬車にいるからか少しだけ足が重い。
二十日前は、身体中が痛くて立つことすらできなかった。
けれど、今ではすっかり治っていた。
周りを見る。
馬の様子を確認している人。
水を飲んでいる人。
まだ眠そうに欠伸をしている人。
荷物を整理している人。
それぞれが、いつものように動いていた。
「アステ、飯できたぞ」
ザインさんの声が飛んでくる。
「何してんだ?」
「景色が綺麗だなーって」
木々の隙間から野原が見えていた。
その奥には、青い花が一面に咲いていた。
「俺は景色なんてわかんねーけどもう春なんだな」
「ザインさんは季節とか景色とか興味無さそうですもんね」
「そうだな」
「私は今すぐあの花畑に行きたいくらい好きですけどね」
「今度、花摘んできてやるよ。」
少しだけ黙って二人で遠くにある花畑をみた。
「飯を呼びに来たんだった。行くぞアステ」
「はい!」
小さな火のそばでは、エドガーさんとレオンさんが料理をしていた。
湯気と一緒に、温かな匂いが漂ってくる。
「今日は何ですか?」
「昨日の残りを、少し手を加えただけだ」
アステはふーっと冷ましてから、口へ運んだ。
「昨日より美味しいです」
「それはよかった」
「昨日はガイルさんが塩を入れすぎたからな!」
「おい! 余計なことを言うな!」
「ふふっ」
食事をしながら、隊員たちの話を聞く。
これだけ一緒に過ごしていれば、自然と分かってくることもある。
夜になると必ず欠伸をする人。
薪を集めるのが早い人。
誰と誰が仲がいいのか。
誰が冗談を言うのか。
最初は何も知らなかった。
今では、声を聞くだけで誰なのか分かる。
食事が終わる頃、ザインさんが薪を抱えて戻ってきた。
「ザインさん、昨日より少なくないですか?」
「……よく見てるな」
「毎日見ていますから」
「そうかよ」
ザインさんは少しだけ笑うと、持ってきた薪を置いた。
「じゃあ、もう少し取ってくる」
「え? もう十分だろ」
その横で、フィンさんが口を挟む。
「ザイン、お前アステの前だと働きすぎじゃね?」
「うるせぇ」
「ほら、やっぱり」
「フィン、お前も薪を取ってこい」
「えぇ……俺、今食べたばっかりなんだけど」
ザインさんがじっとフィンさんを見る。
「……行ってきます」
その様子がおかしくて、アステは思わず笑った。
「アステリアーナちゃん」
「はい?」
ユール副隊長が隣に座る。
「だいぶこの生活にも慣れたわね」
「慣れたくはなかったのですけど……」
「でも、無理に慣れようとしなくてもいいのよ」
ユール副隊長は、優しく笑った。
「私はアステリアーナちゃんの味方だから」
「……味方?」
「ええ。何かあったら、何でも言ってね」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
移動の途中で、何度も違う景色を見た。
森。
草原。
小さな村。
知らない町。
そして、夜になると広がる星空。
毎日違う景色を見ているけれど、そこにいる人たちの姿は、いつの間にか見慣れたものになっていた。
馬の世話をするカイルさんとノアさん。
料理をするエドガーさん。
薪を集めるザインさん。
いつも誰かと話しているレオンさんやロイドさん。
そんな光景を見ていると、自然とその日のことを思い出す。
どこへ行っても知らない場所ばかりだけれど。
そこにいる人たちのことは、もう少しだけ知っている。
そんな小さな記憶が、今も増えている。
「アステー! そろそろ出発するぞ! 準備しろよー!」
「はーい!」
カイルさんが馬の手綱を確認している。
その隣では、ノアさんが馬の様子を見ていた。
「あれ? ノアさん、馬のお世話ですか?」
「そうだよ。少し手伝ってるんだ」
ノアさんが答える。
「アステも昨日、ブラシをかけてくれただろ?」
「はい!」
「馬も嬉しそうだったよ」
「本当ですか?」
嬉しくなって、アステは笑う。
「アステー! 置いてくぞー! 早くしろー!」
ロイドさんが遠くから声をかけてくる。
「ちょっと! 待ってください!」
「ロイド、アステをからかうな」
エリオットさんが呆れたように言う。
そのやり取りを見て、また笑った。
二十日前。
私は突然、連れていかれた。
怖かった。
帰りたかった。
お母様に会いたかった。
お父様に会いたかった。
セイルにも。
ルナにも、リナにも。
リーゼにも。
今でも、その気持ちは変わらない。
それでも。
二十日前には、誰の名前も知らなかった人たちのことを、今は少しずつ知っている。
「アステリアーナちゃん。準備できた?」
「はい」
馬車に乗り込む。
ユール副隊長が手を差し出してくれた。
その手を取って、馬車へ乗る。
「じゃあ、出発しましょうか」
「はい!」
馬車がゆっくりと動き始める。
少しずつだけれど。
この人たちのことを、知ってきた。
そして、しばらく移動を続けていると、前方に小さな村が見えてきた。
「今日は、あの村で少し休憩するぞ」
二十日間、移動と野宿を繰り返してきた。
村で休憩するのは、これが初めてだった。
馬車がゆっくりと速度を落とし、村の中へ入っていく。
小さな家がいくつか並び、その間を細い道が通っている。
畑では村人たちが作業をしていて、子どもたちの声も聞こえてきた。
久しぶりに見る、隊員たち以外の人の姿だった。
アステは思わず窓の外を眺める。
すると、ユール副隊長が静かに声をかけた。
「アステリアーナちゃん」
「はい?」
「ここでは、外に出るときは私と一緒にいてね」
「……どうしてですか?」
ユール副隊長は、少しだけ表情を引き締めた。
「アステリアーナちゃんは、外部の人と接触してはいけないことになっているの」
「外部の人……?」
「ええ。この村の人たちもそうよ」
そう言いながら、ユール副隊長は馬車の窓にかかっているカーテンを閉めた。
外から中が見えないように、隙間まで丁寧に確認する。
「アステリアーナちゃんの姿を、村の人に見られないようにするためよ」
「……話すのも、駄目ですか?」
「うん」
ユール副隊長は迷いなく答えた。
「……」
「もちろん、アステリアーナちゃんが悪いわけじゃないよ」
そう言って、ユール副隊長は少しだけ困ったように笑った。
「でも、あなたのことを知っている人が増えるのは、今は避けなければならないの」
アステは閉じられたカーテンを見る。
さっきまで見えていた村の景色は、もう見えない。
外からは、村人たちの話し声や足音だけが聞こえてくる。
「……分かりました」
「ありがとう」
ユール副隊長はそう言うと、カーテンから離れた。
その後、隊員たちは村の人たちと必要なやり取りを済ませていった。
食料を受け取ったり、必要なものを確認したり。
外では隊員たちの声が聞こえる。
けれど、その間、アステが馬車から出ることはなかった。
少しだけ、外へ出てみたいと思った。
村の人たちと話してみたいとも思った。
けれど、それはできない。
今の自分は、外の人に知られてはいけないらしい。
そう思うと、胸の奥が少しだけざわついた。
しばらくすると、ユール副隊長が戻ってきた。
「アステリアーナちゃん。今日は少しゆっくりできそうよ」
「?」
「お風呂を借りられることになったの」
「……お風呂!?」
その言葉に、アステの顔がぱっと明るくなる。
二十日ぶりのお風呂だ。
今まではお湯を沸かしてもらい、馬車の中で身体を拭いていた。
川が近くにある時は、そこで身体を洗うこともあった。
「隊員が使える時間を用意してもらったから、私が一緒に行くわ」
「はい!」
ユール副隊長に連れられて、村の中にある小さな浴室へ向かう。
扉を開けると、ふわりと温かい空気が流れてきた。
久しぶりに見る、湯気。
それだけで、アステの顔が自然と緩む。
「……お風呂……」
「ゆっくり入ってきていいわよ。外で待ってるから」
「はい!」
服を脱ぎ、身体を洗ってから、ゆっくりと湯船へ入る。
「……あったかい……」
肩までお湯に浸かると、身体の奥までじんわりと温かくなっていく。
思わず、ふぅっと息を吐いた。
ずっと身体に入っていた力が、少しずつ抜けていくようだった。
「……気持ちいい……」
目を閉じる。
温かいお湯に包まれていると、それだけで安心する。
家を出てから、こんなふうにゆっくりお風呂に入ったのは初めてだった。
毎日、移動して。
休んで。
ご飯を食べて。
また移動して。
気がつけば、二十日も経っていた。
ふと、家のことを思い出す。
お母様がみんなの着替えを用意して。
お父様が先に入るのか、セイルが先に入るのかで揉めて。
ルナとリナが楽しそうに話していて。
リーゼが呆れながら、その様子を見ている。
そんな光景が頭に浮かぶ。
「……帰りたいな」
小さく呟く。
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
それでも、今は泣かなかった。
ただ、もう少しだけ。
この温かさの中にいたかった。
ゆっくりと身体を温めていると、疲れていた身体が少し軽くなっていく。
「……もう少しだけ、入っていよう」
そう呟いて、アステは再び目を閉じた。
しばらくして浴室を出ると、外ではユール副隊長が待っていた。
「どうだった?」
「……気持ちよかったです」
「それならよかった」
ユール副隊長は微笑む。
「少しは疲れも取れたかしら?」
「はい」
アステは小さく頷いた。
久しぶりのお風呂は、身体だけではなく、心まで少しだけ温めてくれた気がした。




