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第4話 遠ざかる日常

ゆっくりと、目を開ける。


窓から差し込む柔らかな光が、ぼんやりとした視界を照らしていた。


頬には、机の冷たい感触が残っている。


「……あれ……?」


顔を上げると、目の前には作りかけの妹たちに渡す小物入れと、広げっぱなしの布や糸。


どうやら、作っている途中で眠ってしまったらしい。


けれど、不思議と慌てる気にはならなかった。


家の中から、いつもの生活音が聞こえてくる。


台所からは、お母様がおやつを作っている音。


「もう少しでできるから、待っていてね」


廊下からは、お父様が何かを探している声。


「あれはどこに置いたかな……」


その向こうでは、セイルが妹たちにちょっかいを出している。


「もう、お兄ちゃんやめてよ!」


「いいじゃん、ちょっとくらい」


「もう!」


そして、それを聞いたリーゼが呆れたようにため息をつく。


「まったく……走り回るなら、せめて掃除が終わってからにしてくださいね」


いつもの光景。


いつもの声。


いつもの家。


アステはしばらく、ぼんやりとその音を聞いていた。


そして、ふっと笑う。


「……平和だなぁ」


机の上に置かれた小物入れへ視線を落とす。


まだ途中だ。


「よし……もう少し作ろうかな」


そう呟いて、アステは再び手を伸ばした。


――その瞬間。


ガタンッ。


身体が大きく揺れた。


「……え?」


目を開ける。


目の前には、見慣れない座席があった。


誰かが向かい側に座っている。


「目が覚めたかい?」


私は、いつの間にか寝ていたんだ。


ぼんやりとした頭で、目の前の人物を見る。


一瞬、誰なのか分からなかった。


けれど、少しずつ視界がはっきりしてくる。


長く、青く、さらさらとした髪。


そして、男の人とは思えないほど綺麗な顔立ち。


「……ユール副隊長?」


名前を口にすると、ユール副隊長は少し驚いたように目を見開いた。


それから、嬉しそうに笑う。


「私のこと覚えてくれたんだね。ありがとう」


窓の外へ視線を向ける。


木々が、次々と後ろへ流れていく。


……移動している。


馬車は、もう走り始めていた。


散々泣いた挙句、そのまま寝てしまったんだ。


そう理解すると、少しずつ記憶が戻ってくる。


私に手を伸ばしていた、セイルお兄様。


その顔は、青ざめていた。


「……そういえば、ちゃんと名乗ってなかったわね」


ユール副隊長が、ふっと笑う。


「私は王国視察隊の二番隊、副隊長のユールよ。ユールって呼んでいいわよ! よろしくね、アステリアーナちゃん」


窓の外を見る。


空は、もう夕焼けに染まっていた。


赤い光が、流れていく木々を照らしている。


本当なら、もうとっくに家に帰っているはずだった。


今日は、私の誕生日。


お母様とリーゼは、私のためにご馳走を作っている頃だろう。


帰ったら、今日あった出来事を話して。


お父様がまた大剣の話をしていたと、みんなに愚痴って。


そんな、いつもの一日を過ごしているはずだった。


けれど――


そんな日常が、来ることはない。


「……」


ギュルギュル……


静かな車内に、お腹の音が響いた。


「……」


そういえば。


朝ごはんを食べてから、何も食べていない。


寝てしまう前にユール副隊長から渡された軽食も、一口も食べなかった。


お腹を押さえていると、ユール副隊長がこちらを見て、少し困ったように笑った。


「どうぞ」


差し出されたのは、固形の軽食だった。


「あまり美味しいものじゃないけど、お腹には溜まるから、これ食べて?」


「……ありがとうございます」


私は軽食を受け取った。


さっきまで眠っていたせいか、身体にはまだ力が入らない。


私は、目の前の軽食を見つめた。


ユール副隊長から貰った軽食を口にする。


口に入れた瞬間、ほんのりと甘い香りが広がった。


……けれど、それも束の間だった。


噛むたびに細かな生地がほろほろと崩れ、口の中の水分を容赦なく奪っていく。


ぱさぱさしている。


とにかく、ぱさぱさしている。


まるで、口の中にサラサラとした砂を詰め込まれたみたい。


舌でまとめようとしても、細かな生地がまたほろほろと崩れていく。


「…………」


どうにか飲み込む。


けれど、口の中にはまだ粉っぽい感触が残っていた。


……これは、本当に食べ物なのだろうか。


「……なにこれ、パサパサしてる……」


心の中で言ったつもりが、口から出ていた。


「ふっはは、だよね。美味しくないよね。私もそれ好きじゃないんだ」


ユール副隊長が笑う。


「もう少ししたら今日の野営地につくから、それまでそれを食べて我慢しててね」


確かに、お腹には溜まりそうだ。


けれど、飲み物がなければ食べ続けられない。


それに、あまり食欲も湧かなかった。


私は食べかけの物体を手に持ったまま、食べることを諦めた。


――しばらく、ぼーっとしていると。


ガタン、と馬車が揺れた。


やがて、ゆっくりと速度が落ちていく。


そして、馬車が止まった。


窓から外を見る。


少し開けた場所に、後ろからついてきていた隊員たちが次々と集まってきていた。


馬から降りた隊員たちは、慣れた様子で手際よく動き始める。


ある者は馬の手綱を外し、近くの木へ括りつける。


別の者は荷物を馬車から降ろし、野営に使う道具を運び出していく。


「これ、そっちに置いとけ」


「了解」


「薪、もう少し必要そうだな」


「俺、拾ってくる」


それぞれが声を掛け合いながら、迷うことなく自分の役割をこなしていく。


テントを張る者。


荷物をまとめる者。


薪を集める者。


馬の様子を確認する者。


誰かに細かく指示されている様子はない。


それでも、十人ほどの隊員たちは次々と準備を進めていった。


やがて、乾いた木が組まれ、その中央に火が灯される。


ぱちっ、と薪が爆ぜた。


薄暗くなり始めていた周囲が、焚き火の明かりによって一気に照らされる。


揺れる炎の向こうで、隊員たちの影が長く伸びていた。


「着いたのですか?」


私が尋ねると、ユール副隊長が頷く。


「えぇ。でも、私たちはしばらくこのまま待ってた方がいいわ」


「……どうして?」


「まだ準備中だからね。もう少ししたら一緒に行こうね」


それからしばらくすると、野営の準備もほとんど終わったようだった。


隊員たちは焚き火の周りに集まり始め、疲れたように腰を下ろしたり、馬の様子を見に行ったりしている。


そんな様子を眺めていると、ユール副隊長が立ち上がった。


「よし! そろそろ行こうか!」


そう言って、馬車の扉を開ける。


「……降りていいの?」


「別に、私たちのそばにいる時はいいよ〜」


ユール副隊長は、外へ視線を向ける。


「だいぶレヴェリア男爵領からは離れてるしね。アステリアーナちゃんも、死ぬようなことしないでしょ?」


「……」


私のことを、脅しているような言い方。


けれど、反論する気力もなかった。


私は馬車から降りようと、足に力を入れる。


その瞬間。


「……っ」


足に鋭い痛みが走った。


「痛……」


立ち上がろうとしても、足に力が入らない。


そういえば、今まで痛みを感じていなかった。


捕まえられたときも。


馬車に乗せられたときも。


ユール副隊長に手当てをしてもらったときも。


痛かったはずなのに。


何も感じていなかった。


「痛いの?」


ユール副隊長が、私の足を見る。


「……まぁ、その足じゃあね。痛いよね」


その言葉を聞いた瞬間だった。


足だけじゃない。


手も。


身体も。


あちこちが、急に痛み始めた。


「……っ」


今まで感じないようにしていた痛みが、一気に押し寄せてくる。


「暴れないでね」


「え?」


次の瞬間。


身体がふわりと浮いた。


「……!」


ユール副隊長に、ひょいっと抱き上げられていた。


「ちょ、ちょっと……!」


言葉が出るより先に、馬車の外へ運ばれていく。


「大丈夫、大丈夫。落とさないから」


ユール副隊長は、そのまま私を抱えて歩いていく。


焚き火の明かりが近づいてくる。


そのまま、私は焚き火の前まで運ばれ――


そっと地面に座らされた。


焚き火の前に座ると、じんわりとした暖かさが身体を包んだ。


冷えていた指先を炎の近くにかざす。


ぱちっ、と薪が小さく爆ぜた。


炎が揺れるたび、その向こうにいる隊員たちの姿もぼんやりと揺れて見える。


さっきまで馬車の中から見ていた人たち。


近くで見ると、みんな思っていたよりも普通の人たちだった。


誰かは焚き火のそばに座って靴を脱ぎ、足を休めている。


別の人は馬の様子を見ながら、水を飲ませていた。


少し離れたところでは、隊員同士が小さな声で話をしている。


「今日、結構走ったな」


「明日はさらにスピードあげるらしいぞ?」


「来る時は楽だったのにな」


そんな声が、焚き火の音に混じって聞こえてくる。


森の中は静かだった。


風が木々の葉を揺らす音。


馬が地面を踏む音。


薪が燃える音。


さっきまでの馬車の揺れとは違う、ゆっくりとした時間が流れている。


私はそんな景色を、ぼんやりと眺めていた。


すると、隣に座ったユール副隊長が私の顔を覗き込む。


「寒くない?」


「……大丈夫です」


「そう? でも、身体冷えてるわよ」


そう言って、ユール副隊長は近くに置いてあった毛布を手に取った。


「これ、使って」


「……いいんですか?」


「もちろん」


毛布を受け取る。


ふわりとした感触が手に触れた。


けれど――


「……」


少しだけ、鼻を寄せる。


……なんだろう。


ちょっと、臭い。


土のような匂いと、焚き火の煙のような匂いが混ざっている。


それに、ほんの少しだけ獣っぽい。


「…………」


私は何とも言えない顔をしながら、それを身体にかけた。


「……暖かいです」


「でしょ?」


ユール副隊長は満足そうに笑った。


暖かい。


暖かいのだけれど……。


……やっぱり、ちょっと臭い。


私は鼻から少し離れたところで、毛布をぎゅっと握った。


しばらくすると、身体の震えも少しずつ収まってきた。


けれど、心の中はまだ落ち着かない。


私は毛布にくるまりながら、焚き火を見つめた。


「……ユール副隊長」


「なぁに?」


「みんな……これからどうするんですか?」


「どうするって?」


「……私を」


言葉が続かない。


私は毛布の端を握った。


「私を……どこに連れていくんですか?」


ユール副隊長は、少しだけ黙った。


そして、焚き火の向こうへ視線を向ける。


「グランディルよ」


「……王都?」


「そう」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。


グランディル。


バレンティス王国の王都。


私が今まで、本の中でしか知らなかった場所。


「……どうして?」


「それは、王都に着いてから説明するわ」


「……」


「今は、何も考えなくていいよ」


ユール副隊長はそう言って、私の頭を軽く撫でた。


「今日はもう、いっぱい頑張ったんだから」


その言葉を聞いた瞬間。


胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


いっぱい頑張った……。


私は何も言わず、毛布をぎゅっと握った。


焚き火の暖かさが、少しだけ心まで届いた気がした。


しばらく焚き火を眺めていると、近くにいた隊員の一人がこちらへやってきた。


「ユール副隊長、飯できましたよ」


「もうできたの? ありがとう」


隊員は手に持っていた器を、ユール副隊長へ渡す。


白い湯気が、ふわりと立ち上っていた。


「アステリアーナちゃん、食べられそう?」


「……ご飯?」


「そう。さっきのよりは、ちゃんとしたものよ」


ユール副隊長が笑いながら、器を私の前へ差し出す。


恐る恐る受け取る。


器から立ち上る湯気が、冷えていた顔をそっと撫でた。


ふわりとした匂いがする。


さっき食べた軽食とは違う。


ちゃんとした料理の匂いだった。


「……いい匂い」


思わず呟く。


「でしょ?」


ユール副隊長が嬉しそうに笑う。


器の中には、柔らかく煮込まれた野菜と肉が入っていた。


見た目は決して豪華ではない。


けれど、今の私にはそれがとても美味しそうに見えた。


「いただきます……」


小さく呟いて、スプーンを手に取る。


一口。


口に入れた瞬間、温かさが広がった。


「……」


思わず、もう一口。


柔らかく煮込まれた野菜は、簡単に口の中で崩れる。


肉も少し硬いけれど、ちゃんと味がする。


気がつけば、私は黙々とスプーンを動かしていた。


「ふふ」


向かいに座っていたユール副隊長が、そんな私を見て笑う。


「お腹空いてたのね」


「……」


言われて、自分でも気づく。


朝から食べてないもの……。


食べているうちに、空っぽだったお腹が少しずつ満たされていく。


けれど――


家で食べるご飯とは、やっぱり違う。


お母様が作ってくれるご飯。


お父様が「今日も美味しそうだな」と言いながら席につく姿。


セイルお兄様が妹たちのお皿からこっそりおかずを取って、怒られる姿。


そんな光景が、頭の中に浮かんだ。


「……」


スプーンを持つ手が止まる。


「……どうしたの?」


「……なんでも、ないです」


私はもう一度、料理を口に運んだ。


温かい。


美味しい。


それなのに、少しだけ寂しかった。


「……」


もう一度、スプーンを動かそうとする。


けれど――


なんだか、急に眠くなってきた。


身体が温まったからだろうか。


それとも、ずっと張りつめていたからだろうか。


瞼が、重い。


「……眠い」


小さく呟く。


まだ器には、少しだけ料理が残っている。


食べないと。


そう思って、スプーンを持ち上げる。


けれど、手が思うように動かない。


「……ん」


一口食べる。


もぐ、もぐ。


ゆっくりと口を動かしているうちに、視界がぼんやりとしてきた。


焚き火の炎が、滲んで見える。


「アステリアーナちゃん?」


ユール副隊長の声が聞こえた。


「……だいじょうぶ……」


そう答えたつもりだった。


けれど、自分でも何を言ったのかよく分からない。


スプーンを持ったまま、頭が少しずつ下がっていく。


「副隊長、その子もう寝そうですよ」


近くにいた隊員の声が聞こえた。


「みたいねぇ」


ユール副隊長が私の顔を覗き込む。


「アステリアーナちゃん、もう食べなくていいわよ」


「……でも……」


「明日また食べればいいから」


「……」


返事をしようとしたけれど、声が出てこない。


「副隊長、馬車に運びます?」


「えぇ。お願い……と言いたいところだけど」


ユール副隊長が少し考える。


「この子、私が運ぶわ」


ユール副隊長が、私の顔を覗き込む。


「こんなに眠そうな子を起こすのも可哀想じゃない?」


「それは確かに、俺じゃ起こしかねない」


隊員が頷く。


「じゃあ、食器は俺が片付けておきます」


「お願いね」


「はい」


そんな会話が聞こえる。


けれど、もう何を話しているのかよく分からない。


眠い。


とても眠い。


私はスプーンを持った手を器の横に置いた。


そのまま、身体から力が抜けていく。


「……アステリアーナちゃん?」


ユール副隊長の声が、少し遠くに聞こえた。


「……ん……」


次の瞬間。


身体が、ふわりと浮いた。


「……!」


一瞬だけ目を開ける。


ぼんやりとした視界の中に、長い青い髪が見えた。


「……ユール……副隊長……?」


「そうよ。眠いでしょう?」


「……うん……」


自分でも驚くほど小さな声だった。


身体がゆっくりと運ばれていく。


揺れる。


暖かい。


焚き火の赤い光が、視界の端を流れていく。


「あなたたちも早めに休んでね」


「了解です」


そんな声が聞こえた。


私は薄く目を開けたまま、焚き火の向こうをぼんやりと見る。


隊員たちの姿が、少しずつ遠ざかっていく。


やがて、馬車の中へ運ばれた。


身体がゆっくりと横たえられる。


「ほら、もう寝ていいからね」


ふわり、と毛布がかけられる。


「……おやすみ、アステリアーナちゃん」


その声を最後に――


私は、深い眠りへと落ちていった。

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