第九話 断罪のフォルテッシモ
アルトマン伯爵家の爵位剥奪が正式に宣言されたのは、公開調律の儀から一週間後のことだった。
帝国法務院の大広間というのは、帝都の中でも特に威圧感のある場所だ。天井が高く、石造りの柱が左右に立ち並び、正面の壁には帝国の紋章が刻まれた石板が掲げられている。音が響く。靴音も、紙をめくる音も、誰かが息を飲む音でさえも、広間の空気に吸収されることなく壁を伝って広がっていく。
私は傍聴席の端に座っていた。隣にジークフリートがいた。
正面の証言台に、ギルバート・ヴァン・アルトマン伯爵と、継母マグダレーナが並んで立っていた。
(……来なくてもよかったのに、とジークフリートは言ってくれたけど)
来たかった。七年間、その家の地下室にいた。最後くらいは——終わる瞬間を、自分の目で見届けたかった。
マグダレーナは、最後まで毅然としていた。
背筋を伸ばして、顎を上げて、法務長官の視線を正面から受け止めていた。表情が崩れなかった。社交界で磨いてきた鉄の仮面だ。七年間、私に向けてきたのと同じ顔だ。
でも——弦の音は、正直だった。
激しく乱れていた。怒りと恐怖と——後悔。後悔が混じっていることに、少し驚いた。この人が何かを悔いているとは思っていなかった。でも弦は嘘をつかない。何を悔いているのかまでは分からなかったけれど、確かにそこにあった。
父のギルバートは——泣いていた。
男泣きというより、ただ惨めに。声は出していなかったが、目が赤くなっていた。肩が細かく震えていた。自分の判断と命令が全て正しかったと信じていた人間が、その全てが崩れていく時の——あの崩れ方だった。
(……父様)
七年間、一度も父親らしいことをしてくれなかった人だ。母が死んで、継母が来て、私を地下室に閉じ込めておきながら、全部を知りながら、何もしなかった人だ。婚約破棄の夜も、フェリックスに揉み手をして頷いていた。
憎しみが来るかと思ったけれど、来なかった。
ただ——遠い、という感覚だけがあった。川の向こうに立っている人を見ているような、遠さ。もうずっと前から、私と父の間には川があった。それが今夜、岸がはっきりと分かれただけだ。
広間の傍聴席の奥——目立たない柱の陰に、一人の人物が立っていた。
フェリックスだ。
今日の彼は、正装していなかった。廷臣服を着ているが、いつもの華やかな装飾が少ない。顔色もよくなかった。頬がこけて、目の下に影がある。弦の腐蝕が体に出始めている証拠だ。
彼は証言台のマグダレーナを見ていた。視線が動かなかった。その目の奥が——じわりと、暗く濁っていた。焦りと怒りと屈辱が絡まった、黒い弦の音が漏れてくる。まだ諦めていない。追い詰められているのに、まだ、何かを企てている。
ジークフリートが気づいていた。視線だけでフェリックスを捕捉していた。何も言わなかったが、その弦の音が一瞬だけ引き締まった。
(……今夜が終わっても、まだ続くのかもしれない)
そう思った時、宣告が始まった。
ロザリアは、広間にいなかった。
体調不良という名目で欠席していた。本当のことは分からない。ただ——弦の音というのは、遠くにいても時々かすかに聴こえることがある。今この瞬間、どこかでロザリアの弦が小刻みに震えているような気がした。気のせいかもしれない。でも、そんな気がした。
法務長官が宣告文を読み上げ始めた。
一つ一つの言葉が、石の広間に響く。爵位剥奪。財産没収。マグダレーナへの刑事訴追——弦への毒物投与の疑い。それから、ロザリアへの調律師資格の永久停止。
マグダレーナの弦が、宣告のたびにぴくりと揺れた。でも表情には出なかった。この人は最後まで、感情を弦の奥に隠し続けるのだろう。そのまま死ぬまで——そういう人だと、今は思う。
「……以上をもって、アルトマン伯爵家の断罪を宣告する」
法務長官の声が、広間に反響した。
静寂。
それから、傍聴席がざわめいた。
広間を出ると、秋の終わりの光が眩しかった。
石畳の廊下を、ジークフリートと並んで歩いた。どちらも何も言わなかった。しばらく、ただ歩いた。外に出ると、冷たい風が吹いていた。冬がもうすぐそこまで来ている。
「……終わりましたね」私が言った。
「ああ」
「……思っていたより、静かでした」
「どんな感情を予想していた」
少し考えてから、答えた。「もっと、すっとするかと思っていました。痛快な気持ちが来るかと。でも案外——ただ、静かでした」
ジークフリートは少しの間、前を向いたまま歩いた。それから「それは、お前がその感情を七年前に全部処理し終えたからだ。今夜の断罪は、結果の確認に過ぎない」と言った。
(……そうかもしれない)
七年間、地下室で毎日感じていた。怒りも、悲しみも、悔しさも——全部、指先に溶かしながら弦を整え続けてきた。今夜を迎えた時には、もう全部、終わっていたのかもしれない。
「……閣下は、こういう感情に慣れていますか。決着がついた後の、静けさに」
「……慣れたことはない。ただ」ジークフリートが少し間を置いた。「お前が静かにしていられるなら、それでいい」
その一言が、じわりと胸に沁みた。
私の感情を基準にして、判断する。この人はいつも、そうだ。
帝国法務院の建物を出ると、馬車が待っていた。乗り込む前に、私は少しだけ足を止めた。
石畳の広場に、秋の光が斜めに差し込んでいた。枯れ葉が一枚、風に舞って足元に落ちてきた。踏まないように、そっと避けた。
(……終わった)
もう一度、胸の中で確かめた。今度は言葉として、ちゃんと。アルトマン家が断罪された。七年間、私を閉じ込めた場所が、今日で消えた。
不思議と、涙は出なかった。悲しくも、うれしくもなかった。ただ——ある種の重さが、肩からすうっと降りていった。気づいていなかったけれど、ずっとそこにあった重さが。
ジークフリートが隣に立った。「……行くか」「はい」
馬車に乗り込みながら、窓の外の広場をもう一度見た。枯れ葉が、また一枚、風に舞っていた。
三日後、ロザリアから短い手紙が届いた。
封を開けると、細い文字で一行だけ書いてあった。「……お姉様、今まで申し訳ありませんでした。それだけ言いたくて」
それだけだった。
私はしばらく、その手紙を窓際の光の中で見ていた。ロザリアの字だ。いつもより、震えていた。
(……謝罪を、受け取るべきか)
七年間のことが、一枚の紙で消えるとは思わない。でも——受け取らないことが正しいとも思えなかった。ロザリアもまた、彼女なりの地獄にいた。才能のない娘として産まれて、母親に「天才」として生きることを強いられて、本物の自分の音を一度も聴けないまま生きてきた。あの公開調律の夜に、私がロザリアの本来の弦に触れた時——それがただの普通の音で、でも確かに存在していた時——私は、あの子への怒りの最後の欠片が、すうっと消えていくのを感じた。
羽ペンを持って、しばらく白い便箋を見つめた。何を書くべきか、考えた。謝罪を受け入れる言葉か。七年間のことを少しだけ伝えるべきか。
でも——長く書く必要はないと思った。今のロザリアに必要なのは、説教でも同情でもないはずだ。ただ、前を向くための、小さな言葉だけでいい。
私は便箋に書いた。
「受け取りました。どうか、これからは自分の本来の音を聴いてください。あなたの弦は、悪くないです」
それだけにした。それだけで、十分だと思ったから。
手紙を出した夜の調律の時、ジークフリートの弦はこれまでで一番、澄んでいた。
まるで——断罪の決着が、彼の弦にも何かを解放したみたいに。いや、あるいは。
「……今夜の弦、よく聴こえます」私は思わず言った。
「そうか」
「……何か、ありましたか。いつもより軽いです」
ジークフリートは少し間を置いてから言った。「お前の表情が、今日は少し、楽そうだった」
(……私の表情が?)
「……閣下の弦が澄んでいるのは、私ではなくて閣下自身の変化ではないですか」「かもしれない」「それとも」「……両方だろう」
短い沈黙の後、ジークフリートがまた言った。「お前が軽くなると、私の弦も軽くなる。それだけのことだ」
(それだけのこと、って言うけど)
その「それだけ」が、ひどく大切なことに聞こえた。私の状態が、この人の弦に影響する。この人は、それを当たり前のことのように言う。でも私には——当たり前ではなかった。誰かの弦に、自分の存在がそんなふうに関わっているなんて、七年間で一度も考えたことがなかった。
頬が、少し熱くなった。調律の手が止まりかけて、慌てて続けた。
その夜、調律が終わった後、ジークフリートが珍しいことを言った。
「……少し、いいか」
椅子に座ったまま帰り支度をしていた私は、顔を上げた。「何ですか」「お前に、一つ話しておきたいことがある」
改まった声音だった。弦の音が、わずかに引き締まっていた。
「……フェリックスの弦が、先週から急激に悪化している」
胸の中で、何かが冷えた。
「……どのくらい」「腐蝕が、表層から核に近い部分まで達し始めている。このまま進めば——弦が完全に断裂する前に、何らかの行動に出る可能性が高い」「……それは、いつ頃」「分からない。だが、遠くはない」
私は少しの間、沈黙した。フェリックスの弦の音を、最後に聴いた時のことを思い出した。あの濁った、燻るような音。まだ諦めていない、と感じた。追い詰められた人間が、最後の賭けに出ようとしている時の音だ。
「……私が標的になる可能性は」「ある。帝国の調律師として公に認められた今、お前はフェリックスにとって最も邪魔な存在の一つだ」
正直に言ってくれる人だ、と思った。慰めない。でも——弦の音が、その正直さの奥に確かな覚悟を帯びていた。何があってもお前を守る、という覚悟が。
「……分かりました」静かに答えた。「怖いですか」とジークフリートが聞いた。珍しい問いかけだった。「……少し」「そうか」「でも——閣下がいてくださるので」
続きを言おうとして、少し迷った。それから、言うことにした。
「……あまり、怖くないです。今は」
ジークフリートは何も言わなかった。でも弦が——静かに、温かく、揺れていた。今夜一番の音だった。
執務室を出る時、ジークフリートが「エルゼ」と呼んだ。
振り返ると、彼が少しだけ躊躇うような間を置いてから言った。「……無理はするな」
(……無理、か)
七年間、無理しかしてこなかった。無理することが当たり前だった。体が限界でも、眠れなくても、誰かに頼ることを知らなかった。
「……はい」と答えた。今夜だけは、素直にそう言えた気がした。
寝室に戻る廊下で、私はふと立ち止まった。
窓の外に、月が出ていた。満月に近い、大きな月だ。夜の帝都の屋根の上に、白く浮かんでいる。
(……七年間の話が、今夜で一区切りついた)
アルトマン家は断罪された。マグダレーナは拘束された。ロザリアへの返事も書いた。全部に、けじめがついた。
でも物語は、まだ続く。フェリックスの弦は腐蝕し続けている。帝国のどこかで、次の不協和音が生まれようとしている。
それでも——今夜は、静かだった。
月を見ながら、私はそっと自分の胸に手を当てた。調律師は自分の弦を聴けない。でも、指先の感触だけは分かる。今夜の弦は——七年間でいちばん、穏やかな気がした。
(……これが、普通の夜の感触か)
普通の夜を知らなかった。でも今夜初めて、その感触が何なのか、少しだけ分かった気がした。
廊下の向こうに、黄金の弦の音がかすかに響いていた。静かで、澄んでいた。
この人の弦の音を、初めて聴いた夜のことを思い出した。断裂寸前の、黄金の弦。今にも切れそうで、かすかに鳴っていた音。
今は——こんなに澄んでいる。
(……私が、この音を変えたのかな)
そう思ったことが、少し誇らしかった。七年間、誰かの役に立てたと思えた瞬間はなかった。ただ使われていた。でも今夜は——この人の弦が澄んでいることが、少しだけ自分のことのように思えた。
それを聴きながら、私は自室の扉を開けた。




