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第八話 公開調律の儀

王立歌劇場というのは、音を聴くための建物だ。


天井の高さ、石材の質、柱の間隔——全てが音の響きを計算して設計されている。舞台から発せられた音が客席のどの端まで届くか、残響がどのくらいの時間持続するか。かつて帝国で最も名高い歌手たちが声を上げ、演奏家たちが弓を引いてきた舞台。その場所が今夜、「公開調律の儀」の会場として使われることになった。

(……大げさな話になったな、と思う)

私は楽屋の鏡の前に座りながら、そう思っていた。元はといえば、アルトマン家の件が宮中に広まり、「本物の調律師はどちらか」という疑念が帝国貴族院を巻き込んだ結果だ。ロザリアの支持者たちが「公開の場で審判を」と主張した。ジークフリートは「受けない理由がない」と即答した。

そういう経緯で、今夜がある。

控室に入る前、ジークフリートが低く言った。「緊張しているか」「……少し」「お前の力を出せばいい。それ以上でも以下でもない」

(……この人の言葉は、いつも削ぎ落とされている)

余計な飾りがない。慰めでも励ましでもなく、ただ事実だけを言う。でもその弦の音が、言葉の奥にあるものを全部補ってくれていた。心配している。でもお前ならできると信じている。その両方が、たった一言の「それ以上でも以下でもない」に詰まっていた。

「……はい」と答えた。それで十分だった。


鏡の中の私は——夜藍色のドレスを着ていた。ジークフリートが贈ってくれた、弦の波紋を模した刺繍のドレスだ。胸元の刺繍が、楽屋の照明を受けてかすかに光っている。

今夜これを選んだのに、理由があるかと言えば——ある。でも言葉にしたら少し恥ずかしかったので、考えるのをやめた。

「……準備はいいか」

扉の外から、ジークフリートの声がした。

「はい」と答えて立ち上がる。扉を開けると、彼が廊下に立っていた。軍服ではなく、今夜は礼装だ。黒に金の刺繍が入った正装が、この人の銀髪と切れ長の目によく映えていた。

ジークフリートが、私を一瞥した。「……そのドレスを選んだのか」「はい。今夜に合っていると思って」「……そうか」

それだけだった。でもその「そうか」の弦の音が、わずかに温かかった。


歌劇場の大広間は、もうほとんど埋まっていた。

帝国貴族院の主要な面々、宮中の廷臣たち、いくつかの公爵家の当主。壁際には帝国法務院の役人が数名。さらには——帝都の社交界でこの一件を耳にした貴族たちが、招かれてもいないのに押しかけてきたらしく、客席は予定より随分と多い人数で埋まっていた。

(……みんな、見物に来てる)

弦の音が、一斉に押し寄せてきた。好奇心。期待。それから——野次馬的な興奮。誰かが転落するのを楽しみにしている人間の弦の音だ。誰が転落するかについては、半々といったところだった。

私はこめかみをそっと押さえて、「音量」を絞った。七年間で身につけた技だ。全部の弦の音を意識から切り離して、必要なものだけに集中する。

舞台袖で、ロザリアを見た。

薔薇色のドレス、完璧に整えられた金の巻き毛、社交用の微笑み——外見だけは、いつもの「天才調律師」のままだ。でも弦の音が、かつてないほど乱れていた。焦りと恐怖と虚勢が絡み合った、切れそうな音だ。

(……かわいそうに)

怒りではなかった。本当に、そう思った。あの子は七年間、偽物の音を「自分の音」だと信じて生きてきた。今夜、それが終わる。


審査の形式は、二人が交互に依頼人の調律を行い、審査委員が結果を判定するというものだった。依頼人は中程度の弦の乱れを持つ廷臣が三名。審査委員は三名——ギルド長の老調律師と、帝国の魔法学者、そしてフェリックスが指名した廷臣が一名。最後の一人は、私を失格にするための人選だと一目で分かった。

ロザリアが先に座った。

依頼人の前で深呼吸をして、手を伸ばした。指先が、依頼人の手に触れる。

その瞬間、ロザリアの懐から小さな金属製のケースが覗いた。取り出して、膝の上でそっと開ける。中に何かが入っていた。

(……あれは)

弦の音が、私に教えた。ケースから漏れ出すかすかな周波数——液体だ。弦を「一時的に整ったように見せる」薬液。調律師ギルドが禁制品に指定している薬だ。そのまま使えば、依頼人の弦を表面上だけ整えることができる。効果は短い。でも審査の場だけ乗り切れればいい、という計算なのだろう。

(……母の遺品のケースを、そんなことに使うの)

あのケースは、母セシリアが使っていた調律補助具だ。ケース自体は違法ではない。でも中身が——問題だった。

怒りより先に、静かな悲しみが来た。あの子は本当に、それしか方法を知らないのだ、と。


ロザリアの調律が始まった。

表面上は、整っているように見えた。依頼人の弦が、少し落ち着いた。観客席の一部から「さすが」という声が上がった。フェリックスが指名した廷臣が、満足そうに頷いた。

でも——弦の奥の音が、嘘をついていた。

薬の効果で形だけ整えられた弦には、本来の旋律がない。まるで、ひびの入った陶器の上に美しい釉薬だけを重ねたみたいだ。外から見れば綺麗に見える。でも叩けば、空洞の音がする。魔感を持つ者には——全部、聴こえてしまう。

ギルド長の老調律師が、わずかに眉を動かした。気づいている。でもまだ、何も言わなかった。


次に、私が座った。

最初の依頼人——中年の男性廷臣——の前に椅子を引き寄せる。向かい合って座り、「手をお借りしてもよいですか」と聞くと、男性は少し緊張した顔で差し出してくれた。

その手のひらに、そっと指先を重ねた。目を閉じる。意識を沈める。

弦の音が聴こえてきた。

仕事の疲れが積もっている。家族への心配が細い糸のように絡まっている。老いへの漠然とした恐怖が、弦の端をかすかに引っ張っている。いくつかの感情が複雑に絡み合った弦だったが——根っこには、誠実で真面目な人間の音があった。

(……ここから、始めよう)

急がない。焦らない。この人の本来の音に耳を傾けながら、それが自然に蘇るのを待つように——指先を動かす。痛んでいる箇所をなぞり、魔力の糸を細く通す。傷ついた弦が少しずつほぐれていく。

ピン、と清らかな音が鳴った。

その瞬間、客席が変わった。

隣に座った老婦人が、無意識に深く息をついた。最前列の侯爵が、固くなっていた肩の力をほっと抜いた。三列後ろに座った若い廷臣が、気づかないまま背筋をすっと伸ばした。調律の波紋が、椅子から客席へ、天井へ、柱の奥まで静かに広がっていく。

直接調律したのは、この廷臣一人だ。でも弦の音というのは、共鳴する。一本の弦が美しく整うと、近くにある弦も少しだけ、影響を受ける。まるで一本の音叉が鳴ると、隣の音叉も揺れ始めるように。

魔感を持たない人間には、弦の音は聴こえない。でも「感じる」ことはできる。自分の体の奥の何かが静かに整っていく感覚。知らないうちに抱えていた重さが少し降りていく感覚。言葉にはできないが、確かに何かが変わった——その感触だけが残る。それが、本物の調律の痕跡だ。

私はゆっくりと手を離して、一礼した。依頼人の目が、少し潤んでいた。「……ありがとうございました」その一言が、今夜一番、静かに胸に届いた。


「……これが、本物か」

誰かの囁きが、静かな劇場に溶けていった。


二人目、三人目と続けた。どちらも、問題なかった。

三人目の調律が終わった時点で、もう結果は明らかだった——と、後で多くの人が証言した。ロザリアの調律の後は「少し楽になった気がした」という感想が多かったのに対し、私の調律の後は「涙が出そうになった」「なぜか昔のことを思い出した」「体が軽くなった」という声が上がっていた。弦が「本来の音」を取り戻した時の感覚は、人によって様々な形で現れる。それは薬液で表面を整えるだけでは、決して起きないことだ。


審査委員が評議のために席を立つ直前——

ロザリアのケースが、フェリックスの廷臣の目に留まった。

「……それは何ですか、ロザリア嬢」廷臣が問うた。「これは——ただの薬草入れで……」「開けてもよろしいですか」

ロザリアの手が、小さく震えた。

廷臣がケースを手に取り、開けた。中の液体の匂いが広がった瞬間——ギルド長の老調律師が立ち上がった。「……これは弦の一時的安定剤です。調律師ギルドの審査規則第十七条により、審査の場での使用は禁じられています」

客席がざわめいた。

「……ちが、違います、私は——ただ、お守りのつもりで持っていただけで——使ってはいませんでした——」

ロザリアの声が上ずった。弦の音が、完全に崩れていた。欲と恐怖と羞恥が全部一度に弾けて、音が割れている。七年間張り続けていた「天才の仮面」が、今夜、公衆の前で砕けていく音が——私には聴こえていた。

その後ろで、マグダレーナが扇を閉じた。もうここにはいない人間の影が、それでもまだ娘の弦の奥に残っている。継母に「天才でいろ」と言われ続けた七年間の重さが、今この瞬間、全部崩れていく。

広間の奥——客席の端に、一人の人物が立っていた。

フェリックスだ。

今夜の彼は、静かだった。怒鳴りも、騒ぎもしなかった。ただ、腕を組んで、舞台の上のロザリアを見ていた。その瞳の奥が——じわりと、暗く濁っていた。弦の音が、かつて聴いた時より、もっとひどくなっている。

(……終わった、と気づいている)

フェリックスは、自分が仕掛けたことが全て裏目に出たと、今夜分かったのだろう。でも弦の音に悔恨はなかった。あるのは——燻るような、怒りの残滓だ。まだ、諦めていない。

その弦の音が、私の背中に刺さるような気がした。



審査委員長の宣言が終わって、舞台袖に戻った時——ロザリアが、私の前にいた。

泣いていた。化粧が崩れていた。薔薇色のドレスが、少し皺になっていた。「天才調律師」の完璧な外見が、今夜初めて、ただの若い娘の顔になっていた。

「……お姉様」ロザリアが言った。「……まだ何かするつもり? もう全部終わったじゃない」

私は何も言わずに、ロザリアの手に指先を触れた。

「……っ! 何を——」「少し、だけ」

薬液で歪んだ弦を、元の音に戻す。責めるためではなかった。哀れむためでもなかった。ただ——この子の本来の弦を、ちゃんと聴かせてあげたかった。

ぺらぺらで頼りなくて、でも確かに存在している音。嘘のない、ただの普通の弦の音。一度も「自分の音」として認識したことのなかったはずの、でもそれがちゃんとある。

(……これが、あなたの本来の音だよ)

ロザリアが、声を上げて泣いた。

舞台袖に、その声が響いた。誰も、何も言わなかった。ただ、泣いていた。


帰りの馬車の中、ジークフリートが静かに言った。「……よくやった」

今夜はそれだけだった。

でも——窓の外を流れていく夜の帝都を見ながら、私はその一言をしばらく胸の中で転がした。

「……ロザリアのことを、最後に調律したのは」「聞いていた」「怒りますか」「なぜ怒る」「……敵、でしたから」「お前が怒っていないなら、私が怒る理由はない」

(……そういう答え方をする人だ)

私の感情を、まず確認してから判断する。この人は、いつもそうだ。

「……ロザリアの弦の音は、悪くなかったです。本来の音は」「そうか」「もし機会があれば、ちゃんと調律してあげたいとは思います。いつか、気が向いたら」「——お前は、本当に優しいな」

今夜で二度目だった。「優しい」と言われるのが。

「……調律師の職業病です」と、今夜も同じように答えた。ジークフリートは今夜も「そうか」と言って、少し口の端を動かした。

馬車の窓から、夜の帝都が流れていく。煌めく街の光が、川面に映って揺れていた。

ジークフリートが、窓の外を見ながら言った。「……ロザリアの件は、これで一区切りだ。後は法務院が動く」「分かりました」「お前はもう、何も気にしなくていい」

(……何も気にしなくていい)

その言葉が、じんわりと胸に沁みた。七年間、何かを気にしない日が一日もなかった。継母の顔色。ロザリアの機嫌。依頼人の要求。どこかへ出かけるたびに、何かを警戒していた。それが——もう要らない。

(……終わった、のかな。今夜で、何かが)

全部ではない。アルトマン家の断罪はまだこれからだ。でも——七年間、私が陰で奏でてきた音が、今夜初めて「本物の調律師の音」として公の場で鳴り響いた。それは、確かなことだった。

ジークフリートの黄金の弦が、馬車の揺れの中で穏やかに鳴っていた。今夜の弦は——これまでで一番、澄んでいた。



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