第七話 毒の旋律、継母の策略
刺客が来たのは、深夜だった。
眠れない夜だった。
理由は分からない。ライデン公爵邸の夜は静かで、窓の外には星が出ていて、暖炉の残り火が部屋をうっすらと温めていた。何も不安なことはなかった。なのに——瞼を閉じるたびに、どこかが醒めていた。
仕方なく起き上がって、調律用の薬草を補充しようと思った。消耗していたものをヴェラに頼んでいたが、厨房の棚に届いているはずだ。夜中に申し訳ないとは思ったが、どうせ眠れないなら動いていた方がいい。
薄手の上衣を羽織って、廊下へ出た。
ライデン公爵邸の夜は、本当に静かだ。使用人の数が少ないせいもあるが、昼間から無駄な音が少ない邸だ。廊下を歩けば自分の足音だけが響く。その音に、今夜は——もう一つ、別の音が混じっていた。
(……弦の音が、聴こえる)
立ち止まった。
三つの弦。どれも、乱れていた。怒りではない。恐怖でもない。「命令された緊張」の色だ。自分の意志ではなく、誰かに指示されて動いている者の音——調律師としての経験が、一瞬でそう告げた。
(……外から来た人間だ)
悟った瞬間、体が動いた。逃げようとしたのではない。廊下の壁に背をつけて、息を潜めた。弦の音を辿れば、彼らがどの方角からどの速度で近づいてきているかが分かる。三人、廊下の角を曲がったところ。足音を消しているつもりらしいが、弦の音は消せない。
覆面をした男たちが、廊下の奥から現れた。
月明かりが窓から斜めに差し込んでいて、短剣の刃がかすかに光った。三人とも腰に武器を帯びている。動きが揃っている。訓練されている。
弦の奥を視た。命令された恐怖と、報酬への欲——その組み合わせで動いている人間の音だ。差し向けた者の影が、弦の奥にうっすらと滲んでいる。
(……マグダレーナ)
確信した瞬間、後ろで扉が蹴破られる音がした。
ジークフリートが、立っていた。
コートを羽織っていなかった。軍用のベルトだけを腰に締めた、シャツ一枚の格好だ。寝る前だったのかもしれない。首元のボタンが一つ外れていた。
でも——その目が、全然違った。
私はこの人の目を、毎夜見ている。執務室で書類に向かう目。調律の時に私の指先を追う目。夕食の席でワインを傾ける、少しだけ緩んだ目。それらのどれとも、今夜の目は違った。
温度がなかった。
感情が全部、計算に変わっていた。次の一手、その次の一手、最短でどう制圧するかだけを考えている——そういう目だ。戦場で何十回も人の命を裁いてきた人間の、仕事の顔だ。
刺客の三人も、その目を見た瞬間に怯んだ。弦の音が、一斉に乱れた。恐怖の色が混じった。
(……賢い反応だと思う)
次の十数秒を、私はほとんど追えなかった。
ジークフリートは一歩踏み出した。それだけで空気が変わった。先頭の男が短剣を構えた。残りの二人が左右に散ろうとした。連携した動きだ。挟み撃ちにするつもりだったのだろう。
でも——そうはならなかった。
左の男が動こうとした瞬間、ジークフリートがそちらへ半歩踏み込んだ。角度が変わった。右の男の視界が先頭の男に塞がれた。挟み撃ちの形が崩れた。その一瞬で、全てが終わっていた。
先頭の男の短剣が床に落ちた。手首を極められていた。
二人目が横から体当たりしようとして——その腕を摑まれ、一回転して廊下の壁に叩きつけられた。鈍い音がして、ずるずると崩れ落ちた。
三人目が逃げようとして——二歩走ったところで足をすくわれ、石畳に伏した。
全部で、十数秒。
ジークフリートは、乱れていなかった。呼吸も。姿勢も。一滴の血も流れていなかった。シャツの裾さえ、ほとんど乱れていなかった。月明かりの中に立っている姿が、彫像みたいに静かだった。
(……これが、不敗の将、か)
頭では知っていた。「帝国最強の魔導騎士」「戦場で負けたことがない」——そういう話は聞いていた。でも、知っているのと、目の前で見るのは、全然違う。
「マグダレーナの指示か」
ジークフリートが、床に伏した男の一人に静かに問いかけた。怒鳴っていない。声を荒げてもいない。なのに——その声を聴いた瞬間、男が震えた。
「……は、はい……」
「経路と合流地点を話せ。全部だ」
男は一秒も粘れなかった。競うように——むしろ早く話してしまいたいとでも言うように——情報を吐き出した。マグダレーナが使った中間業者の名前。合図に使った暗号。逃走ルートと合流場所。
ジークフリートは一言も漏らさず聞いて、廊下の奥から現れた護衛の騎士に引き渡した。「帝国憲兵に連絡しろ。マグダレーナ・ヴァン・アルトマンの身柄確保の準備を」「はっ」
騎士が走り去り、三人の刺客が連行されて、廊下がまた静かになった。
「……怪我は」
ジークフリートが、こちらを向いた。
さっきまでの戦場の目が、元に戻っていた。温度が戻っていた。表情はいつも通り動かないが、その目の奥に、いつもの「確かめるような色」がある。
「……ないです」
「そうか」
たった二言だった。でも——その「そうか」の中に、全部が詰まっていた気がした。確認して、安堵して、もう終わった——という意味の「そうか」だ。この人の「そうか」は、いつも何かを含んでいる。
(……よかった、って思ってくれてる)
弦は嘘をつかない。ジークフリートの黄金の弦が、怒りの余韻の後に、確かな安堵の音を奏でていた。
壁にもたれながら、私はしみじみと思っていた。
(……この人の背中が、こんなに頼もしいと思ったのは、初めてだ)
七年間、誰かに守ってもらうという感覚を知らなかった。
父は守らなかった。いつも有力者の顔色を伺って、私を差し出した。夜会で婚約破棄を宣告された夜も、父は王子の機嫌を損ねないよう揉み手をして頷いていた。血を分けた娘が路頭に迷うというのに。継母はもちろん、敵だった。七年間、地下室に閉じ込めておいて、都合が悪くなれば刺客を送ってくる。使用人たちは、マグダレーナを恐れて誰も動かなかった。
誰も——誰一人、私のために立ってくれなかった。
でもこの人は——知らせを受けた瞬間、コートも羽織らずに扉を蹴破って来た。
(……当たり前のことを当たり前にしてもらうだけで、こんなに胸が揺れるのか)
自分でも少し驚いた。でも弦は正直だった。私の胸の奥で、小さくて温かい音が、確かに鳴っていた。
翌朝、朝食の席でジークフリートが言った。「マグダレーナの身柄が確保された」
その日の午後、私は一人で庭に出た。
秋の終わりの庭は、もうほとんどの花が枯れていた。ムーンリリーも終わっていた。楓の葉が赤く染まって、風が吹くたびに一枚ずつ落ちていく。地面に積もった葉を踏みながら、私は昨夜のことを反芻した。
マグダレーナが刺客を送ってきた。ということは——私がライデン公爵邸にいることを、確実に脅威と感じているということだ。「耳が不自由な欠陥品」が、もはや邪魔な存在になった。七年間、都合よく使い続けた道具が、手の届かない場所で本物の力を発揮し始めている。その焦りが、昨夜の行動に繋がったのだろう。
(……七年間、私はあの人にとって「道具」だった)
庭石に腰を下ろして、枯れた花壇を見た。来年の春には、また何かが咲くのだろう。ここは、そういう庭だ。
憎しみが来るかと思ったけれど——来なかった。ただ、遠い場所のことを眺めているような、静かな距離感だけがあった。もうあの家は、私の世界ではない。刺客が来ても、それさえも——どこか現実感が薄かった。
スープのカップを持ったまま、固まった。「……え、もう?」「夜のうちに動いた」「仕事が早い……」「動けるうちに動く。それだけだ」
(……この人は、いつも即断即決だな)
「アルトマン伯爵の方は」「協力的だ。妻が逮捕されると分かった瞬間、すべての罪をマグダレーナに押しつける供述を始めた」
(……ああ、父様らしい)
悲しくもなかった。腹立たしくもなかった。ただ「やっぱり」と、静かに思った。父はいつもそういう人だった。嵐が来たら、一番近くにいる人間を盾にする。母が生きていた頃からずっと、そうだった。
「……ロザリアは」「現時点では容疑者ではない。だが証言次第では共犯として立件される可能性がある」
私はしばらく、スープの表面を見ていた。湯気が細く立ち上っている。
(……どうしてほしいんだろう、私は)
答えが出なかった。憎んでいるかと言えば——そうでもない。七年間、利用されてきたのは事実だ。でもロザリアもまた、母親に操られてきた側面がある。才能のない娘を「天才」に仕立てようとした親のもとで、本物の自分の音を一度も聴けないまま生きてきた。
(……あの子もまた、ある意味で被害者だった)
「……ロザリアの処遇については、閣下にお任せします」静かに言った。「私が決めることではないので」「分かった」
それだけで、その話は終わった。
その夜の調律の時、ジークフリートが静かに聞いた。「昨夜のこと——怖かったか」
夕刻、ヴェラが部屋を訪ねてきた。「奥様、昨夜は大変でしたね」彼女の弦の音に、心配と安堵が混じっていた。「……ヴェラは、知っていたんですか。昨夜のことを」「騒ぎは聞こえておりました。旦那様が動かれたと聞いて、すぐに収まると分かりましたが……」
ヴェラが静かに言った。「旦那様は——奥様が邸に来られてから、夜の警備を倍にされています。最初の夜から、ずっと」
(……最初の夜から?)
私が来た初日から。調律の契約を結んだあの夜から、ずっと。私は全く知らなかった。聞かされてもいなかった。ただ、静かにそうしていた。
弦は嘘をつかない——今更ながら、その言葉の意味を噛みしめた。
少し考えてから、正直に答えた。「……少し」「そうか」「でも、怖いと思う前に閣下が来てくださったので、怖い時間がほとんどなかったです」
ジークフリートは少しの間、無言だった。それから「……今後は一人で夜中に動くな」と言った。
「眠れなかっただけです」「理由は問わない。夜中に一人で出歩くな」
(……命令形だ)
でも、怒る気にはなれなかった。弦の音が、心配の色を帯びていたから。
「……分かりました。でも閣下こそ、コートくらい着てください。真夜中に上衣一枚では風邪を引きます」「……問題ない」「問題があります」
短い沈黙。それから——ジークフリートが、微かに口の端を動かした。笑った、と言っていいほどのものかどうか分からないが、でも確かに、いつもより少しだけ柔らかい顔だった。
(……笑った?)
驚いてしまって、続く言葉が出なかった。指先が止まりかけて、慌てて調律を再開した。弦の音が、穏やかに揺れていた。
「……今夜の調律」ジークフリートが言った。「いつもより、丁寧な気がする」「……そうですか?」「ああ」「……昨夜のお礼、かもしれません」
彼はまた少しの間、黙った。それから「礼は要らない」と言った。「……でも」「ただ——お前が無事でいることが、私には必要なことだ。それだけだ」
(……それだけ、って言うけど)
その「それだけ」が、胸の奥でひどく大きな音を立てた。弦の音と同じだ。たった一言なのに、その奥に何層もの意味が詰まっている。
「……分かりました」
今度は、うまく言えた気がした。
帰り道、廊下を歩きながら、私は昨夜のことをもう一度思い返した。
あの十数秒。ジークフリートの動きの、静かさ。月明かりの中に立っていた姿。そして——「怪我は」という、たった二言の問いかけ。
守られる、ということの感触が、じわじわと後から来ていた。温かくて、少し重くて、慣れていないから少し戸惑う。でも——嫌じゃなかった。むしろ。
(……むしろ、何だろう)
答えを言葉にするのが、少し怖かった。だから、今夜はやめておくことにした。
廊下の窓から、夜空が見えた。昨夜と同じ星が出ている。同じ空なのに、今夜は少しだけ、近い気がした。
自室に戻って、窓を少し開けた。夜の空気が、冷たく流れ込んでくる。胸いっぱいに吸い込んだ。
(……守られることを、少しずつ覚えていくのかもしれない)
七年間忘れていたことを、取り戻すのには時間がかかるだろう。でも——少しずつなら、きっと大丈夫だ。この指先がある限り、前へ進める。それは七年間で証明してきた。
弦の音が、静かに満ちていた。私の弦と、廊下の向こうにある黄金の弦と——二つの旋律が、夜の中でそれぞれに鳴っていた。




