第六話 沈みゆく伯爵家
秋が終わる頃、アルトマン伯爵家は静かに、しかし確実に、崩れ始めていた。
私がその変化を最初に感じたのは、帝都の茶会だった。
いつもと同じ、絢爛な白亜のサロン。シャンデリアが光を散らし、絹のドレスが擦れる音がして、カップとソーサーがかすかに触れ合う。どこへ行っても似たような景色だ。でも——弦の音が、違っていた。
社交界の貴婦人たちが交わす弦の音に、新しい色が混じり始めていた。憐れみ。それから、薄い嘲笑。そしてその奥に——ほんのわずかな「安堵」。
(……アルトマン家の話か)
耳を澄ますまでもなかった。弦の音というのは、言葉より正直だ。貴婦人たちが口では「まあ、あのロザリア嬢が最近お見えにならないのね」と優雅に言いながら、その弦の奥では「やっぱり偽物だったのでは」という確信がじわじわと育っている。「耳が不自由」という嘘でずっと抑えつけられてきた疑念が、私という存在が消えたことで一気に浮かび上がってきているのだ。
七年間、影から支えてきた調律師が消えた。結果は、想像していた通りだった。
ジークフリートの執務室で、その報告書を見せてもらったのは、十一月に入った週のことだ。
羊皮紙に整然と並んだ数字と文章を、私は黙って読んだ。解約件数。賠償請求の動向。信用の失墜度合いを示す帝国貴族院の内部評価。どれも、一家の没落を示す数字だった。
「ロザリアに調律を依頼していた貴族の九割が、今月に入って契約を解除している」彼は書類を私の前に置きながら、淡々と言った。「残り一割は、まだ事実を認めたくないか、あるいはアルトマン家に対して何らかの借りがある者だ」
「……そうですか」
自分の声が、思ったより静かだった。
(……これが、七年間の終わりの形か)
感慨があるかと言えば——正直、あまりなかった。怒りは七年前に終わっていた。悲しみも、地下室でとっくに指先に溶かした。今ここにあるのは、ただ静かな「確認」だ。やはりそうなったか、という。海の向こうで大きな波が立ったと聞いても、岸にいる人間には風しか届かないような——そんな感覚だ。
「エルゼ」
ジークフリートが、私の名を呼んだ。顔を上げると、彼が私を見ていた。表情はいつも通り動かないのに、その目の奥に何かがある。問いかけるような、確かめるような色だ。
「……つらいか」
直球だった。
(この人、本当に直球しか投げない)
少し考えてから、正直に答えた。
「……いいえ。あまり」
「そうか」
「七年間で、全部終わらせてきたので」
ジークフリートは少しの間、無言だった。書類に目を落とすでもなく、ただ私を見ていた。それから「そうか」ともう一度言った。今度の「そうか」は、少し重かった気がする。言葉は同じなのに、弦の音が違う。この人の「そうか」には、いくつもの意味が詰まっている。
数日後、私はある夢を見た。
地下室の夢だ。
窓のない石の部屋。ぼんやりした燭台の光が、石壁の染みを浮かび上がらせている。空気が湿っていて、昼も夜も区別がない。椅子に座って、ひたすら弦を調律し続けている。依頼人の顔が見えない。ただ、手だけがある。老いた手、若い手、荒れた手、細い手。それぞれの弦が乱れていて、私はひたすら、一本一本、丁寧に整えていく。
夢の中で、私は泣いていた。
声は出ていない。ただ、頬を涙が伝っていた。次の依頼人の手を取りながら、泣いていた。
目が覚めると、目は乾いていた。
雨の音がした。外で、静かに降っている。窓のある部屋で雨の音が聴けることを、地下室にいた頃は知らなかった。あの場所では雨が降っているかどうかさえ分からなかった。
雨の音というのは、弦の音がない。ただ水が落ちるだけだ。それが今は、ひどく心地よかった。
(……夢の中でだけ、泣けたんだろうな)
朝の光が窓から差し込んでいた。白い天井。清潔なシーツ。窓の外には秋の空が広がっていて、庭の楓が風に揺れている。
ここはライデン公爵邸だ。地下室じゃない。窓がある。空が見える。
もうあそこには戻らない。
それだけを確認して、私は起き上がった。朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。地下室の夢を見た夜の翌朝は、いつもそうすることにしていた。今ここにある空気の味を、ちゃんと確かめるために。
ロザリアが最初に公衆の場で「失敗」したのは、その週の王宮の小茶会だったと後から聞いた。
その場にいた廷臣から話を聞いたのは、ヴェラ経由だった。詳細を話してくれたヴェラの弦に、かすかな同情の色が混じっていた。
ロザリアは、なんとかしようとしたらしい。まず深呼吸をして、目を閉じて、母から習ったはずの手順を頭の中でなぞった。指先に意識を集中させる。魔力を流す。弦の音に耳を澄ませる——
でも、聴こえなかった。
七年間ずっとそこにあったはずの「感覚」が、消えていた。種火が消えた暗い竈のように、何もなかった。指先から魔力を流しても、依頼人の弦は反応しない。静かなままだ。
依頼人が首を傾げた。「……あの、まだですか」その一言で、ロザリアの指先が震えた。
(……お姉様が、いない)
七年間、ずっとそこにいた。影の中から、音を整えてくれていた存在が——もうどこにもいない。その空白の大きさを、ロザリアは初めてその時、全身で感じたのだろう。
依頼人の前に座り、手を伸ばし、調律しようとして——何も起きなかった。
依頼人の弦が、揺れさえしなかった。
当然だ。ロザリアの「魔感」は、七年間私が補い続けてきた。彼女自身には調律師としての才能がほぼない。指先に魔力を乗せることはできても、弦の「声」を聴き取る能力が根本的に育っていない。私が陰でこなしていた仕事の核心部分——弦の奥の本来の音を探し当てること——が、彼女には最初からできなかったのだ。私が隣にいなければ、ただそれだけのことだ。
(……ずっと、本人も薄々は気づいていたはずなんだけど)
弦の音というのは、本人にだけは聴こえない。調律師の唯一の盲点だ。だから七年間、ロザリアは自分の限界を直視せずに済んでいた。自分が「奏でている」と思っていた音が、実は全部他人の音だったと——気づかずに済んでいた。
今となっては、それがどちらにとって不幸だったのか、よく分からない。
同じ夜、王宮の一角では、また別の崩壊が進んでいた。
フェリックス第二王子の弦の悪化が、ここ数週間で急速に加速しているという。ジークフリートが帝都の情報網から得た話によれば、王子は連日のように側近を怒鳴りつけ、夜中に一人で酒を飲み、鏡の前に立っては自分の顔を長い時間見つめているという。
弦が腐蝕していく人間には、共通したパターンがある。
焦りが怒りを呼ぶ。怒りが恐怖を呼ぶ。恐怖がまた焦りを生む。その悪循環が一度動き出すと、弦はあっという間に黒く濁っていく。自分の弦の音が聴こえない人間は、その腐蝕を自覚できない。だからこそ止められない。
フェリックスは今、その渦の中に首まで浸かっていた。
王宮の私室で、フェリックスが鏡の前に立っているという。ジークフリートの情報員がそう報告してきた。
一人で酒を飲みながら、自分の顔を見つめている。かつては「完璧な王子」と称えられた顔だ。整った顔立ち、輝くような金の髪。でも今は——瞳の奥が、じわりと濁っている。自分でもそれが分かるのか、フェリックスは鏡を覗き込んでは、また酒を飲む。
その弦の音が、遠くからでも聴こえてきそうだった。黒く腐食した不協和音。焦りと嫉妬と怒りが腐って固まったような、不快な音。あの夜、婚約破棄の場で聴いた音より、ずっとひどくなっている。
(……あのまま放置したら、半年と保たない)
婚約破棄の夜に私が言った言葉が、今更ながら現実になろうとしていた。あの時は誰も信じなかっただろう。でも弦は正直だ。あの夜、私が感じたことは間違いではなかった。
「……フェリックスのことが、心配ですか」
夕食後、テーブルを挟んで向かい合いながら、私はジークフリートに聞いた。彼は少しの間、ワイングラスを見てから答えた。
「心配、ではない。警戒、だ」
「違いは?」
「心配は相手の利益を考えることだ。警戒は、こちらの被害を最小化することを考える」
(……なるほど)
「……フェリックスは、これからどうしますか。弦が腐蝕し続けたら」
「追い詰められた者は、必ず何かをする。理性が飛ぶ前に、最後の賭けに出ようとする。焦りが頂点に達した時——人間は、最も危険な行動に出る」
それだけ言って、彼は窓の外を見た。秋の夜の帝都が、遠くに光っている。
(……その「何か」が何なのか、まだ分からない。でも確かに弦は鳴っている——濁った、警告のような音で)
私は胸の中で、フェリックスの弦の最後に聴いた音を思い出した。黒く腐蝕した不協和音の奥に、かすかに残っていた旋律。あれが完全に消える前に、何かが起きる。
その予感が、胸の奥でずっと、消えなかった。
その夜の調律は、いつもより少し時間がかかった。
執務室に入ると、ジークフリートはいつものように書類仕事の最中だった。羽ペンが走る音だけが静かに響いている。それだけで、弦の状態が分かる。今夜は少し、音が硬い。
椅子を引き寄せて向かい合い、「手を」と言うと、大きな手がゆっくりと開かれた。この手の動きが、最初の頃と全然違う。初めての夜は、どこか構えるような固さがあった。今は——私の指先を待っているような、柔らかい開き方だ。
ジークフリートの弦は確実に回復を続けていたけれど、今夜は仕事の疲れと長距離の緊張が重なっていて、また少し張りが戻っていた。指先でゆっくりと解きほぐしながら、私はその弦の奥に積もった一日の重さを丁寧に確かめていった。
(……この人も、いろいろ背負っているんだな)
帝国最強の公爵、不敗の将、鉄の神経。そう言われている人間でも、弦は正直に全部を語る。疲れを。不安を。誰にも言えない重さを。指先を通じて伝わってくるその重さを、私はいつもそっと受け取って、できる限り軽くしてから返す。
(……それを知っているのは、今この世界で、私だけだ)
そう気づいた瞬間、何か温かいものが胸の奥で揺れた。少し恥ずかしかったけれど——指先は、いつもより少しだけ丁寧に動いた気がした。
「……今夜は、時間がかかったな」
調律が終わって、ジークフリートが言った。
「少し張っていたので」
「そうか。すまない」
「謝らなくていいです。弦が教えてくれることが、仕事ですから」
彼は少しの間、私を見てから「……そうか」と言った。今夜の「そうか」は、柔らかかった。疲れが解けた後の人間の声だ。
帰りがけ、廊下に出ると夜風が冷たかった。窓の外では、冬の気配がし始めた空に、星が冴えざえと光っていた。
(……アルトマン家は崩れていく。フェリックスの弦は腐蝕していく。でも今夜、ここは静かだ)
その静けさが、今は何より貴重だと思った。
翌週、継母マグダレーナから手紙が届いた。
ジークフリートが封を開ける前に確認して、無言で私の前に置いた。内容は短かった。「エルゼ、帰っておいで。家族として迎える用意がある」
私はその手紙を一度だけ読んで、静かにテーブルに置いた。
「家族として迎える」——七年間、家族だったことなど一度もなかったくせに、土壇場になってその言葉を使うのかと、かすかに苦笑した。弦が崩れていく音が聴こえるようだった。窮地に追い込まれた人間が、最後に使う言葉というのは、いつも同じだ。
「……どうする」ジークフリートが聞いた。
「返事はしません」
「そうか」
「……もう、関係ないので」
彼は頷いた。それだけだった。
でもその夜、私の部屋の暖炉に、いつもより多めに薪が入っていた。誰がやったのかは聞かなかった。聞かなくても、分かっていたから。
弦は、嘘をつかない。この人の、穏やかで静かな気遣いが、今夜も確かに——指先の少し奥のところで、温かく聴こえていた。
眠りにつく前、窓の外の星を見た。今夜もよく晴れている。秋が深まって、空気が澄んでいる分だけ、星がくっきりと光っていた。
(……来週も、こうして星が見られたらいい)
たったそれだけのことを願いながら、私は目を閉じた。地下室の夢は、今夜はもう見ないような気がした。




