第五話 初めての共鳴
帝都から戻って、十日が経った。
ライデン公爵邸の秋は、深まっていた。庭のムーンリリーはもう終わりかけていて、代わりに赤く色づいた楓が夜風に揺れている。夜空はすっかり高くなり、星がひとつひとつ、くっきりと見えた。
調律は、相変わらず夜に行われた。でも——最近、少し変わったことがあった。
ジークフリートの弦が、以前とは違う反応を見せるようになったのだ。
(……どういうことなんだろう)
最初に気づいたのは、帝都から戻った翌日の夜だった。いつものように執務室で向かい合い、私が調律を始めようとした時——彼の弦が、私の指先に触れる前から、微かに震えた。まるで、存在を感じ取っているように。
(弦が、私を認識している?)
それから数日、同じことが続いた。私が部屋に入るたびに、ジークフリートの弦がほんの少しだけ揺れる。指先が触れると、もう初日のような「拒絶」はない。むしろ——迎え入れるように、するりと馴染む。
弦が「慣れる」のは、調律師として当然のことだ。でも今回の変化は、それだけではない気がした。
そして十日目の夜、もっと不思議なことが起きた。
その日、私は執務室の前で少し躊躇した。中からジークフリートの声が聞こえていたからだ。書類を読み上げているのか、低く静かな声が扉越しに漏れていた。
ノックしようとして、手が止まった。弦の音が、聴こえたからだ。
(……え?)
扉一枚越しにあるはずの黄金の弦が——声に合わせて、かすかに響いていた。いつもの張り詰めた音ではなく、柔らかく、穏やかな和音を奏でながら。
私は、しばらくそのまま扉の前に立っていた。声に弦が共鳴している。こんなことは稀だ。弦の音は内側から生まれるもので、声に連動することはほとんどない。それが今は——声の振動を受けて、確かに揺れていた。
(……弦そのものが、回復している。指先を通じた調律だけじゃなく、この人の内側が、変わっている)
そっとノックした。「どうぞ」声がした瞬間、弦が少し跳ねた。
(あ……)
部屋に入ると、ジークフリートが書類から顔を上げた。その弦の音が——私の存在を感じ取って、また柔らかく揺れた。
「……今夜も来たか」「はい。調律の時間です」「分かった」
向かい合って座り、いつものように手を重ねる。目を閉じて、意識を沈める。
黄金の弦は、今夜も美しかった。でも今夜は——これまでとは違う部分が変わっていた。弦の一番奥、核心に近い部分の音が、厚みを増していた。まるで、長年沈黙していた弦が少しずつ声を取り戻しているように。
(……この人の本来の旋律が、聴こえ始めている)
調律師として、この瞬間はいつも特別だ。どんな弦でも、本来の音を取り戻す瞬間がある。それは技術の結果だけではなく——弦を持つ人間が、自分自身を少しだけ受け入れた時に起きる。
ジークフリートの弦が、今夜、そのしきいを越えようとしていた。
私は指先の動きを止め、ただ静かに、弦の声を聴いた。
それは——深くて、複雑で、孤独の色を帯びながらも、温かみのある音だった。長い戦場の記憶。幾人もの部下を喪った重さ。一人で抱えてきた責任の色。そのすべてが絡まりながら、しかし決して濁らずに、澄んだ和音を奏でていた。
(……これが、この人の本来の旋律)
胸が、じわりと痛んだ。痛みというより——胸を打たれる、という感覚に近い。
「……エルゼ」静かな声がした。目を開けると、ジークフリートが私を見ていた。「……何か、変わったか。今夜の感覚が、違う」
(気づいてる……)
「はい。弦の奥の層が、回復し始めています。まだ完全ではないですが——ご自身の本来の旋律が、少しずつ聴こえ始めています」
彼はしばらく無言だった。執務室の時計が、かすかに時を刻む。
「……本来の旋律、か」「聴いたことが、ありますか。ご自身の弦の音を」「ない。調律師にも、聴けないと言われていた」「調律師の「絶対魔感」がなければ、ご自身の弦の音はほとんど聴けません。でも——今夜は、私には聴こえました」
「……どんな音だ」
(どんな音……)
私は少し考えた。言葉にするのが、難しかった。
「……強くて、深くて。でも根のところに、とても温かいものがある。孤独の色が長く刻まれているけれど——それが消えたら、きっと、ものすごく美しい音になると思います」
ジークフリートは、何も言わなかった。でも弦が、かすかに震えた。
(……あ)
それは今まで聴いたことのない音だった。痛みでも緊張でもなく——もっと柔らかい、しかし確かな何かが、弦の中心から響いてきた。
翌日の昼間、廊下を歩いていた時のことだった。
ジークフリートの執務室の前を通りかかると、扉の隙間から微かな音が聴こえた。低く、静かな——歌のような音。
(……え?)
旋律というほど整ったものではなかった。ほとんど無意識に出ているような、かすかな音。でも確かに——彼の声だった。
私はしばらく、その場に立ち尽くした。
(……弦が、声に出てきてる)
弦の回復が進むと、稀に、内側の旋律が外に滲み出ることがある。無意識の鼻歌や、声の揺れとして。それは弦が健やかである証だ。ジークフリートの弦が、今まさに、その段階に入っていた。
(……この人、自分でも気づいていないんだろうな)
そっとその場を離れた。心臓が、少しうるさかった。
「以前、言いましたね」私は少し迷ってから口を開いた。「私の弦の音を、聴こえるようになったら教えると。……今夜、少しだけ、聴こえましたか」
ジークフリートは、長い沈黙の後、「……聴こえた」と言った。
(え……)
「本当ですか」「ああ」「……どんな音でしたか」
彼はまた、しばらく黙った。窓の外で風が木々を揺らす音がした。「……まだ、うまく言えない」
(まだ……? じゃあ、いつか言えるようになったら)
胸の中に、妙な期待が芽生えた。それを自覚して、少し恥ずかしくなった。
「……分かりました。いつか、教えてください」「ああ」
短い返事だったが——今夜の「ああ」は、いつもより少し、重かった気がした。
翌日の夕刻のことだった。
私は廊下を歩きながら、調律用の薬草の束を運んでいた。弦の状態を安定させるために使う、精神を落ち着かせる効果のある草だ。
角を曲がった時、ジークフリートと鉢合わせた。向こうも驚いたらしく、珍しく動きが一瞬止まった。
「……何を持っている」「調律用の薬草です。今夜使おうと思って」「重いか」「いいえ、そこまでは」
ジークフリートは少し間を置いてから、黙って薬草の束を持ち上げた。
(……え、持ってくれるの?)
「いいです、自分で持てます」「知っている」「じゃあ、なんで」「……重そうに見えた」
(さっき重くないって言ったのに)
でも、返せなかった。ジークフリートが薬草の束を抱えて廊下を歩く姿が、なんか少し、おかしくて。
(帝国最強の公爵が、薬草を運んでいる)
笑ってしまった。「……なぜ笑う」「いいえ。……ありがとうございます」
ジークフリートは何も言わなかったが、弦の音が、穏やかに揺れていた。
その夜の調律は、穏やかだった。黄金の弦は昨夜よりさらに馴染んでいた。私の指先が触れると、まるで長い友人に会ったような温かみで迎えてくれる。
(もう、拒絶していない)
調律が終わった後、しばらく二人で沈黙していた。それが今では、不思議と苦ではない。この人の沈黙は、空虚じゃないから。弦の音が、静かに満ちているから。
「……エルゼ」ジークフリートが、低い声で言った。「はい」「今夜、眠れそうだ」
(……なんでそれを、わざわざ言うんだろう)
でも——すぐに分かった。この人は戦場での記憶が刻まれた弦を持っている。弦の痛みで、深く眠れない夜が続いていたのかもしれない。それが今夜は——眠れそうだと言った。
「……よかったです」うまい言葉が出なかったが、それだけ言った。ジークフリートは頷いた。そして、
「……お前のおかげだ」と言った。
(胸が、うるさい)
「調律師として、当然のことをしているだけです」「そうじゃない」
ジークフリートが、こちらを向いた。「調律だけじゃなく——お前がいるから、だ」
広い執務室に、時計の音だけが響いた。
私は、何も言えなかった。
この人が「嘘は言わない」と言った人間であることを、私は知っている。弦が嘘をつかないように、この人の言葉も——嘘をつかない。だから今の言葉は、全部、本当のことだ。
(……お前がいるから)
七年間、私がいることで誰かの何かがよくなったことはなかった。いれば利用され、いなければ都合よく消された。存在することに、意味を見いだせなかった。
でも今、この人は言った。お前がいるから、眠れそうだ、と。
指先がかすかに震えた。それを気づかれないよう、膝の上で静かに握り締めた。
広い執務室に、時計の音だけが響いた。私は何も言えなかった。でも——弦は、嘘をつかない。今この瞬間、私の胸の奥で何かが確かに、温かく、大きく、鳴り響いていた。
(……この感情に、名前をつけたら、もう引き返せない気がする)
でも——まだ、名前はつけない。ただ、この人の隣にいることが、今夜は、ただそれだけが、世界でいちばん正しい場所のように感じられた。
次の夜は、珍しいことがあった。
調律が思ったより早く終わったのだ。弦の状態が安定していて、いつもより短い時間で整えることができた。
「……今夜は早いな」ジークフリートが言った。「はい。弦がかなり安定してきています。あと数週間で、毎夜の調律は必要なくなるかもしれません」
そう言ってから——少し、胸が痛んだ。
(……毎夜の調律が必要なくなったら、この時間も、なくなる)
契約の内容は「調律を捧げること」だ。弦が完全に回復すれば、私の役目は終わる。そうなったら——
(……そういえば、その後のことを、考えていなかった)
「……どうした」ジークフリートが、こちらを見ていた。「いいえ、なんでもないです」「顔に出ている」
(……この人、こういうところ鋭い)
少し迷ってから、正直に言った。「……調律が終わったら、どうなるのかな、と思って」
ジークフリートはしばらく無言だった。
「どうしたいか」「……私が決めていいのですか」「お前の人生だ」
(……お前の人生だ)
七年間、そんなことを言ってくれた人間は誰もいなかった。あの地下室では、私の人生は私のものじゃなかった。
「……分かりました。もう少し、考えます」「ああ」
ジークフリートは立ち上がり、窓の外を見た。夜の庭に、秋の風が吹いている。
「……一つ聞いていいか」「はい」「お前は、いつか帝都で働きたいか。宮廷調律師として」
(……え?)
「母の後継者として、という意味ですか」「そうだ。お前の腕は、宮廷に残すべきものだ」
私はしばらく、その言葉の意味を考えた。宮廷調律師。皇帝に仕える調律師。母がそうだったように——。
(でも、もし宮廷に行ったら、ここを離れることになる)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥でまた、何かが揺れた。これは単純に「居心地のいい場所を失いたくない」という感情だろうか。それとも——
(……それとも?)
自分の胸の奥を覗き込もうとしたら、少し、怖くなった。
「……まだ、分かりません」正直に答えた。「今は、ここにいたいです」
ジークフリートは窓から離れて、こちらを向いた。「……今は、でいい」
(……今は、でいい)
その言葉が、妙に温かかった。今は——ということは、いつかは答えが変わるかもしれない。でも今はここにいていい、と言ってくれている。それがなぜか、とても嬉しかった。
夜が更けて、私が執務室を出る時、ジークフリートは珍しく、扉まで送ってきた。
「……明日も来るか」廊下の前で、彼が低く聞いた。毎夜の調律は最初から決まっていることで、今さら確認する必要はない。
(……それでも、聞いてくる)
「はい。来ます」私は微笑んで答えた。ジークフリートは頷いた。そして何も言わずに扉を閉めた。
でも——扉が閉まる直前、ほんの一瞬だけ、彼の弦の音が聴こえた。
それは、今まで聴いたどの音とも違った。痛みでもなく、緊張でもなく——まだ名前のつかない、柔らかくて確かな、温かい音だった。
(……あなたの弦の本来の音は、きっとこういう音なんだろうな)
廊下を歩きながら、私は思った。昼間に聴いたあの無意識の旋律。扉越しにかすかに聴こえた、まだ形になっていない音。それもきっと、この人の本来の声だ。
(……ちゃんと、聴こえてる。あなたのこと)
七年間、誰かの弦の音を聴くことだけが、私の全てだった。でも今は——この人の弦の音だけが、特別な重さを持って、胸の中に響いていた。
(……この感情を、いつかちゃんと言葉にできる日が来るのだろうか)
分からない。でも——焦らなくていい気がした。この旋律は、まだまだ始まったばかりなのだから。二人の時間は、まだまだ続く。きっと、ずっとまだまだ。それだけは、今夜、はっきりと分かっていた。
二人の狂詩曲は、今夜も続いていた。そしてその旋律は——二人それぞれの音が、少しずつ、重なり始めていた。




