第四話 公爵の執着と、騎士の誓い
帝都滞在から三日が経った。
皇帝陛下の容体は、あの調律以来、緩やかに回復していた。侍医たちが「奇跡的」と口を揃える中、宮中ではひとつの噂が広がり始めていた。
——あのライデン公爵の妻は、「耳が不自由」などではないのではないか?
(……来るとは思っていたけど、思ったより早かった)
発端は、調律の場面を遠くから見ていた侍女の一人だったらしい。「あの方は、侍医の囁きにすぐ反応していた」という話が広まり、翌日には「本当は耳が聞こえるのでは」という憶測が廷臣たちの間を駆け巡り始めた。
アルトマン家が作り上げた嘘が、少しずつ剥がれていく。それは分かっていたことだ。でも宮中のざわめきが弦の音を通じて伝わってくるのは、正直、落ち着かなかった。
(……自分のことを噂されるのって、不思議な感じがする)
地下室にいた頃は、噂の対象にすらなれなかった。「耳が不自由な欠陥品」として隅に追いやられ、ただ存在を消されていた。それが今は——帝国最強の公爵の妻として、皇帝を救った調律師として、宮中の話題の中心にいる。
(変わったもんだな、と思う)
三日目の朝、私はジークフリートとともに帝都の公式行事に出席することになった。皇帝の快癒を祝う、宮中の小規模な茶会だ。参加者は主要な貴族と側近たちに限られているが——それだけに、視線が集中する。
(……緊張する、な)
「顔色が悪い」馬車の中で、ジークフリートが言った。
「少し、緊張しています」正直に答えると、彼は少し間を置いてから「当然だ」と言った。
「……励ましになっていませんよ」「事実だ。だが——」
ジークフリートは窓の外を向いたまま、静かに続けた。「お前は皇帝陛下の弦を調律した。それは帝国中の誰もできなかったことだ。今日の場にいる者の中に、お前より格上の調律師はいない」
(……この人の褒め方、ぶっきらぼうだけど、真っすぐ届く)
「……ありがとうございます」「礼はいい。ただ、堂々としていろ」それだけ言って、馬車は宮殿の正面玄関に着いた。
茶会は、白亜の広間で行われていた。天井が高く、窓から午前の光が差し込む。貴族たちが小さなテーブルを囲み、カップを手に会話を交わしている。
その中に、知った顔があった。フェリックス第二王子だ。三日前の廊下での対峙以来、初めて顔を合わせた。彼は私を見ると、わずかに目を細めた。近衛兵もなく、場が茶会であるためか、正面から絡んでくる様子はない。でも——視線が刺さる。
(……後ろが痒い)
フェリックスだけではない。廷臣たちの視線が、じわじわと私に集まっていた。エルゼ・ヴァン・アルトマン——婚約破棄された伯爵令嬢、「耳が不自由」という噂の元持ち主。好奇心。嘲笑。そして——疑念。
それぞれの弦の音が、ざわりと私に向いていた。
ひとりの老侯爵が、わざわざ近づいてきた。帝都の名門、クルーガー侯爵家の当主だ。白髪の、声だけはよく通る老人。
「これはライデン公爵。そしてこちらが、例の……奥方殿ですかな」「クルーガー侯爵」ジークフリートが短く返した。
「いや、失礼。陛下の御回復を喜ぶ者として、ご挨拶を、と思いまして。……噂では、奥方殿が調律をされたとか。でも確か、奥方殿はお耳が——」
「不自由ではありません」ジークフリートが、静かに遮った。
老侯爵の目が、微かに見開かれた。「はあ、では、今まであの噂は……?」
「虚偽です。アルトマン家によって意図的に流された偽りの情報です。詳細については、近日中に帝国法務院へ告発する予定でおります」
老侯爵の背後で、数人の廷臣が囁き合った。フェリックスが、遠いテーブルからこちらを見ていた。
「なるほど……では、奥方殿の調律の腕前は、本物と?」「本物どころか——」
ジークフリートが、こちらを向いた。
そして——私の手を取った。
(え……)
宮中の茶会で、公衆の面前で。帝国最強の公爵が、妻の手を取って、広間中に聴こえる声で言った。
「彼女は私の妻であり、帝国最高の調律師です。陛下の弦を救えるのは、この帝国でただ一人、エルゼだけだ」
広間が、しんと静まった。
カップを持ったまま動かなくなった廷臣。老侯爵の驚いた顔。フェリックスの、白くなった顔色。
(……旦那様)
胸の奥が、じわりと熱くなった。誰かに守られるというのが、こういう感覚なのかと——七年ぶりに、思い出した気がした。もっと言えば、七年前にも誰かにそうしてもらったことが、果たしてあったのかどうか。
「……なんと、それは頼もしい」老侯爵が、どこかほっとしたように笑った。「陛下のご回復も、頷けますな」
その一言で、広間の空気が動いた。ひとり、またひとりと、廷臣たちが私たちの方へ歩み寄ってくる。好奇心や嘲笑ではなく——今度は「興味」と「尊重」の弦の音を帯びながら。
フェリックスだけが、動かなかった。
その時、広間の隅に目が留まった。
ロザリアが、いた。
薔薇色のドレスを纏い、社交用の微笑みを貼り付けたまま——でも顔が、蒼白になっていた。彼女の弦の音が、遠くからでも聴こえた。ぺらぺらで薄い、いつもの音。でも今夜はそこに、明らかな動揺と——恐怖が混じっていた。
(……当然か。今夜の宣言が何を意味するか、彼女も分かっているんだろう)
嘘が剥がれる。偽りの天才調律師という立場が崩れる。七年間、私から奪い続けてきたものが、今夜から少しずつ、返されていく。
ロザリアと目が合った。一瞬だけ。彼女の目に浮かんだのは憎しみではなく——ただ、恐怖だった。
(……怒れない、な)
怒りが来るかと思ったけれど、来なかった。ただ、静かに、遠い場所のことを見るように、その蒼白な顔を眺めた。あの子も、継母に利用されてきた側面がある。才能のない娘を「天才」に仕立てようとした親の重さを、彼女は今まで気づいていたのだろうか。
答えは分からない。でも——私には、もう関係のないことだった。
茶会が終わり、広間の外へ出た。ジークフリートが手を離した。ふと気づいたら、かなり長い間、繋がれていた気がする。
(……ずっと、手を繋いでいた)
「……あの、さきほどの言葉は」私は少し迷ってから聞いた。「本当のことですか。それとも、宮中での立場を守るための……」
ジークフリートは少しの間、無言だった。廊下の窓から、帝都の秋の空が見えた。
「……お前は、私の弦を救った」静かな声だった。「それは事実だ。だから言った。嘘は言わない」
(……嘘は言わない、か)
この人は、弦と同じだな、と思った。弦は嘘をつかない。言葉は少ないが、言ったことは本物だ。
「……ありがとうございます、旦那様」「礼は要らない。ただ——」
ジークフリートが、立ち止まった。振り向くと、彼は私を真っすぐに見ていた。
「お前が不当に貶められることに、私は耐えられない。それだけだ」
(……それだけ、って言うけど)
その「それだけ」が、私の胸の奥でひどく大きな音を立てた。「……分かりました」今度は、うまく言えた気がした。
帝都での滞在はさらに数日続いた。皇帝の容体を見守りながら、私は彼の元を毎日訪れた。陛下は日に日に回復していったが、あの夜「セシリアの子か」と囁いた謎が、頭から離れなかった。
ある夜、ジークフリートに聞いた。
「……陛下は、母をご存じでしたか」「ああ」即答だった。「セシリア・ヴァン・アルトマン——旧姓はセシリア・ハイム。かつて帝国宮廷の調律師として仕えていた。陛下の弦を二十年に渡り調律した、帝国史上最高の調律師と言われた女性だ」
私は息を呑んだ。
(母が……宮廷調律師だったの?)
「なぜ、私はそれを知らなかったのですか」「お前の父が意図的に隠していた。母の過去が知られると、お前の本来の血筋と才能が明らかになる。つまり——お前という「道具」の価値が上がりすぎて、手放せなくなるからだ」
(……なんて家だ)
怒りが、久しぶりに静かな炎として胸の奥で燃えた。
「……全部、明らかにしたいです。母のことも。私に何をしてきたかも」「分かった。帝国法務院への告発と並行して、調べさせる」「……お願いします」
その夜の調律は、いつもより静かだった。でも黄金の弦の音は——これまでで一番、澄んでいた。まるで「守る」という誓いが、弦にも伝わっているように。
翌朝、事態が動いた。
朝食を終えた頃、侍従がジークフリートに書状を届けた。彼が一読して、無言で私に渡した。
差出人は——フェリックス第二王子だった。
(……なんだろう)
内容は短かった。「ライデン公爵の妻について、調律師ギルドの正式審査を要請する。本人の「絶対魔感」の真偽を公式に検証すべきである」という一文だ。
(……審査、か)
つまり——私の能力が本物かどうか、公の場で証明しろ、ということだ。昨日の茶会でジークフリートが宣言したことへの、フェリックスなりの対抗手段なのだろう。
「……どうしますか」私は書状をテーブルに置いて、ジークフリートを見た。
「受ける」即答だった。「受けない理由がない」
(……まあ、そうだよね)
私の能力に、引け目はない。七年間、本物の調律師として働いてきた。正式な審査の場に立つことは——むしろ、歓迎すべきことかもしれない。
「……分かりました。受けます」
ジークフリートは頷いた。それからふいに、
「緊張するか」と聞いた。
(……さっきとまったく同じ質問だ)
私はつい、笑ってしまった。「いいえ。今回は」
「そうか」ジークフリートは、少しだけ口の端を動かした。「なぜだ」
「……旦那様が「受けない理由がない」と言ってくれたので」
彼は少しの間、私を見てから——「そうか」とだけ、もう一度言った。でも今度の「そうか」は、さっきとは少し違って聴こえた。
審査は、翌日の午前に設けられた。
帝都の調律師ギルド本部の大広間。石造りの、荘厳な建物だ。正面の壁に「真音なき調律は、ただの騒音なり」という帝国初代調律師の言葉が刻まれている。
(……いい言葉だな)
審査委員は三名。ギルド長の老調律師と、帝国の学者、そして——フェリックスが指名した廷臣が一名。明らかに私を失格させるための人選だ、と一目で分かった。
審査の内容は三段階。一、魔感の測定。二、技術審査(傷ついた弦への調律)。三、複合弦の識別——つまり、複数の人間の弦を同時に聴き分ける能力の確認だ。
(……一番難しいのは三番目だけど、でも、できる)
測定から始まった。ギルド長が魔感測定の水晶を差し出した。普通の調律師が触れると青白く光る。才能の高い者は金色に。
私が手を触れると——水晶が、黄金色に輝いた。
広間がざわめいた。ギルド長の老調律師が、わずかに目を見開いた。「……「絶対魔感」。帝国の記録では、三十年ぶりですな」
(……三十年ぶり。母の時代から、か)
技術審査も、問題なかった。重度に傷ついた依頼人の弦を用意されたが、十数分で安定させた。廷臣が何度も「もう一度」「違う傷で」と要求したが、すべてに応えた。
複合弦の識別——十人の廷臣が一列に並び、それぞれの弦の音を順番に言い当てていく。これは通常、三、四人が限界とされる。私は全員の弦の音を一度に聴いた。
(……欲の深い人、臆病な人、傲慢な人、寂しい人……みんなそれぞれの音がある)
一人一人の弦の特徴を、正確に言い当てていった。十人目を言い終えた時、広間は完全に静まっていた。
「……審査の結果、エルゼ・ヴァン・アルトマン殿の「絶対魔感」、並びに調律師としての技術は、本物と認定いたします」
ギルド長が、厳かに宣言した。
その瞬間、フェリックスが指名した廷臣の弦が——激しく軋んだ。
(……ざまあみろ、とは思わない。でも、少しだけすっとした)
ギルド長の老調律師が、審査が終わった後、私に近寄ってきた。
「……セシリア殿のお子とは、存じませんでした。あの方には、大変お世話になりました」
老調律師の弦が、穏やかな懐かしさの色で揺れていた。
(……ギルド長も、母を知っていたのか)
「母のことを、覚えていてくださっているのですか」「忘れるものですか。あの方の調律は、唯一無二でした。誰の弦に触れても、その人を生かす音を引き出すのです。……お嬢様も、同じ旋律をお持ちですな」
胸の奥が、じんと温かくなった。
「……ありがとうございます」
うまく声が出なかった。七年間、母の名前を口に出すことも憚られていた。それが今、こうして母を知る人に出会えた。
広間の出口で、ジークフリートが待っていた。私の顔を見るなり、
「……よくやった」
と言った。茶会の翌日にも聞いた、短い一言。でも今日のは——少し、響き方が違った気がした。
帰りの馬車の中、ジークフリートはしばらく無言だった。でも書類は開かなかった。窓の外を見ながら、ただ静かに座っていた。
(……珍しい)
「……何か、考えていますか」「ギルド長から話を聞いた」「母のことですか」「ああ。セシリア殿はギルドでも伝説的な調律師だったらしい。お前がその才を受け継いでいることも——皆、内心では知っていたようだ」
(……知っていた?)
「ロザリアの調律が実はお前のものだという噂は、宮廷の一部では以前からあったようだ。ただ、アルトマン家の力が及ぶ場所では誰も声に出せなかった」
私はしばらく、それを噛みしめた。
「……誰も、助けてくれなかったんですね」言ってから、棘が出たかと思ったが——ジークフリートは否定しなかった。「ああ。それが、この帝国の現実だ。私も、もっと早く動くべきだった」
(……え)
「閣下が、ですか? なぜ」「セシリアの子が正当な地位を奪われているという情報は、半年前から入っていた。確認に時間がかかった。だが——もっと早ければ、お前があの場所にいる時間を短くできた」
私は、何も言えなかった。半年前から、知っていた。それでも動けなかった事情があったのだろう。でも——この人は今、謝っている。
(……謝られるとは、思わなかった)
「……いいんです」静かに言った。「でも、ありがとうございます。そう言ってくれて」
ジークフリートは窓の外を向いたまま、小さく頷いた。その弦の音が——静かで、重くて、でも誠実だった。




