第三話 帝国の不協和音に、究極の旋律を
転機は、秋が深まったある夜に訪れた。
ジークフリートがエルゼの部屋を訪ねてきたのは、初めてのことだった。夜半過ぎ、コートも羽織らないまま扉を叩く音がした時、エルゼは読みかけの本を膝に置いて立ち上がった。
扉を開けると、彼は表情を固めたまま言った。
「帝都に行く。明朝、出立だ」
エルゼは彼の弦の音を聴いた。いつもと違う——緊張と、何かしらの危機感が混じっている。
「何が起きたのですか」
「陛下の容体が急変した。弦の衰弱が、先週より著しく速い。このままでは——月は越えられないかもしれない」
沈黙が落ちた。
皇帝の弦が衰弱している——それはつまり、帝国の柱が崩れようとしているということだ。後継者争いが激化し、フェリックスが動くのは時間の問題だった。
「私も、連れて行ってください」
「危険だ」
「閣下の弦の状態では、長距離の強行軍は危険です。私が隣にいれば、少なくともその問題は解決できます」
ジークフリートは一瞬、眉を寄せた。
「……お前は」
「調律師として申し上げています。感情ではなく、判断として」
短い沈黙の後、
「分かった。供回りを最小限にして、馬車で行く」
エルゼは頷いた。胸の中で、静かに何かが決まる音がした。
帝都への旅は、三日を要した。
馬車の中で、エルゼとジークフリートは初めて、長い時間を共にした。彼は最初、書類仕事に没頭していたが、夕刻になると筆を置き、窓の外を見た。
「聞いてもいいか」
「はい」
「お前は、調律をする時——何を聴いている」
エルゼは少し考えた。
「弦の音を、聴いています。でも正確には……その人の、本来の旋律を聴いています。どんなに乱れていても、どんなに傷ついていても、人の弦には必ず「元の音」がある。私はその音を聴いて、そこへ戻るお手伝いをするだけです」
「元の音、か」
「閣下の弦の元の音は——とても、綺麗です」
言ってから、少し恥ずかしくなった。ジークフリートは前を向いたまま動かなかった。しばらくしてから、
「お前の元の音は、どんな音だ」
と、静かに聞いた。
エルゼは答えられなかった。自分の弦の音は——自分では聴けない。それが調律師の唯一の盲点だ。
「……聴いたことがないので、分かりません」
「私が、聴こえるようになったら教えよう」
さらりと言って、ジークフリートは書類に戻った。エルゼはしばらく、窓の外の夕焼けを見つめていた。頬が、少し熱かった。
帝都の皇宮は、張り詰めた空気に包まれていた。
廊下を歩く文官たちの顔に、隠しきれない不安が滲んでいる。侍女たちの弦が、恐怖と動揺でざわめいていた。エルゼは一歩踏み込んだだけで、その不協和音の重さに思わず足を止めた。
(帝国全体が、病んでいる)
皇帝の私室へと案内されながら、エルゼはそう感じた。一人の命の灯が揺らぐだけで、これほど広範囲の弦が乱れる——それだけ、この帝国は皇帝という一点に支えられていた。
寝室の扉の前で、ジークフリートが静かに言った。
「陛下に会ってもらいたい。お前の力が、必要かもしれない」
「……陛下の弦を、私が調律するということですか」
「調律師ギルドの者では、もはや手に負えないらしい。それほど弦の衰弱が進んでいる」
エルゼは深く息をついた。
皇帝の弦を調律する——それは、調律師として最高の名誉であり、同時に最大の責任だ。失敗すれば、弦の衰弱を早める可能性もある。
だが、指先は震えなかった。
「分かりました。できる限りのことをいたします」
皇帝は、老いていた。
大きな寝台に横たわる老人の姿は、かつての覇者の面影を残しながらも、今はひどく儚かった。深い皺に刻まれた顔、乾いた唇、かすかに上下する胸——そしてエルゼには聴こえた。彼の弦の音が。
(……消えかけている)
弦は確かに存在していた。しかし音が、ほとんど出なくなっていた。まるで、長年弾き続けた楽器の弦が、ついに音を失いかけているように。
エルゼは静かに歩み寄り、老いた手のひらにそっと自分の指先を重ねた。
目を閉じ、深く意識を沈める。弦の最も深いところへと、意識の糸を伸ばしていく。
(あった——まだ、いる)
消えかけた音の奥に、小さくて、しかし確かな旋律が残っていた。皇帝が生涯をかけて奏でてきた、帝国の柱としての旋律。それが、かすかに震えながら生きていた。
エルゼは微笑んだ。
ここから始めよう——。
指先から、糸のように細い魔力を注ぎ込む。強引に音を出させるのではなく、ただ傍らに寄り添って、その旋律が自ら蘇るのを待つように。母が教えてくれた調律の真髄は、それだった。
「聴こえますか、陛下。あなたの弦は、まだ鳴っています」
声には出さず、心の中で語りかける。
長い時間をかけて——どれほどの時間が経ったか、エルゼには分からなかった——老いた弦が、少しずつ、確かな音を取り戻し始めた。消えかけていた旋律が、か細くても、しかし真っすぐな音を奏で始めた。
エルゼが手を離した時、皇帝の呼吸が、ずっと深くなっていた。
傍らに控えていた侍医が、息を呑んだ。
「……魔力の流れが、回復しています。これは——」
皇帝の私室を出ると、廊下でジークフリートが待っていた。
エルゼの顔を見るなり、彼は一歩近づいた。
「大丈夫か」
珍しい言葉だった。エルゼは少し驚いてから、頷いた。
「はい。ただ……少し、疲れました」
ジークフリートは何も言わずに、エルゼの肩に大きな手を置いた。ただそれだけのことが、どこか暖かかった。
その時——廊下の向こうから、足音が聴こえた。数人のそれではない。甲冑の音を混じらせた、多くの足音。
ジークフリートの顔が、瞬時に変わった。
「フェリックスだ」
第二王子が動いた。皇帝の容体悪化の隙を突き、宮中の主導権を握ろうとして。
果たして、広廊下の角から現れたのはフェリックスとその近衛兵たちだった。フェリックスの目がエルゼを捉えた瞬間、明らかに動揺した——しかしすぐに傲岸な笑みを取り戻した。
「これはこれは、ライデン公爵。そしてその……廃棄された令嬢も一緒とは」
「フェリックス殿下」
ジークフリートは静かに、しかし揺るぎなく答えた。
「陛下の御容体は、本日の調律により、安定の方向にあります。ご報告申し上げます」
フェリックスの表情が、一瞬だけ歪んだ。
「……その女が? 耳の聞こえない欠陥品が、陛下の弦を調律した、と?」
「エルゼの耳には、何の問題もありません」
ジークフリートが静かに言った。その声は低く、しかし室内の空気を変えるほどの重みを持っていた。
「彼女は帝国で最も優れた調律師です。アルトマン家の虚偽については、然るべき手続きを経て告発する所存です」
フェリックスの顔色が変わった。自分が追放した令嬢が、今や帝国最強の公爵の盾に守られ、皇帝すら癒やした調律師として立っている——その現実が、彼の黒く濁った弦をさらに軋ませているのがエルゼには聴こえた。
エルゼは静かに前へ出た。
「殿下」
フェリックスが、エルゼを見た。
「……殿下の弦の音も、私には聴こえています。今すぐ手当てをしなければ、半年と保ちません。本当に帝国のためを思われるなら、どうかご自身の旋律を大切になさってください」
それはかつて、婚約破棄の夜に言った言葉と同じだった。あの時は怒りのまじった捨て台詞のように聞こえたかもしれない。でも今は——純粋な、調律師としての言葉だった。
フェリックスは何も言えなかった。
近衛兵たちも、動かなかった。
やがて、第二王子は踵を返した。その背中が廊下の曲がり角に消えていくのを見届けてから、エルゼは静かに息を吐いた。
ジークフリートが、隣でエルゼを見ていた。
「怖くなかったか」
「少し、怖かったです」
「嘘だ。声が震えていなかった」
エルゼは思わず笑った。彼がこんなふうに冗談めいたことを言うとは思わなかった。
「……旦那様の前だから、です」
言ってから、頬が熱くなった。ジークフリートは少しの間、エルゼを見てから——珍しく、口の端を僅かに上げた。
「そうか」
それだけ言って、彼は歩き出した。エルゼもその隣に並んだ。
皇宮の廊下に、秋の夜の冷たい静寂が戻っていく。
エルゼの指先には、まだ皇帝の弦の残響が残っていた。消えかけていた旋律が、また音を取り戻した感触。それはきっと、これからも忘れない。
(私には、この指先がある)
誰かの本来の旋律を引き出す、この力がある。七年間、地下室の闇の中でひたすら磨いてきたものが、今ここで、帝国の命運に触れている。
そして——隣に、この人がいる。
エルゼは前を向いた。ジークフリートの黄金の弦が、今夜は澄んだ音を奏でていた。まだ傷は残っているが、日ごとに確かに、回復している。
まだ、道は続いている。
二人が奏でる狂詩曲は、今夜も静かに——しかし確かに、前へと進んでいた。




