第二話 黄金の弦は、夜ごと癒される
ライデン公爵邸は、想像よりずっと静かな場所だった。
王都の東端、鬱蒼とした森に面した高台に建つ石造りの館。その荘厳な外観とは裏腹に、内部に仕える使用人の数は少なく、廊下を歩けばエルゼ自身の足音だけが響いた。公爵が戦場を渡り歩く生涯を送ってきたせいか、余計なものが何一つない。必要なものだけが、しかし最上の質で揃えられている。
エルゼに用意された部屋も、そうだった。
広く、暖かく、窓からは夜になると無数の星が見えた。地下室とは正反対の場所だと気づいた時、エルゼは静かに息をついた。七年ぶりに、空が見える部屋で眠れる。ただそれだけのことが、じわりと胸に沁みた。
調律は、夜に行われた。
昼間、ジークフリートは帝国軍の司令業務をこなし、執務に追われる。その激務の果てに弦への負荷は蓄積し、夜になると限界が近づく。だから日没を過ぎた頃、エルゼは彼の執務室を訪れることになっていた。
初めて訪れた夜のことを、エルゼはよく覚えている。
ジークフリートは机に向かい、羽ペンを走らせながらエルゼが入室しても顔を上げなかった。
「椅子に座って待て」
ぶっきらぼうな命令に、エルゼは素直に従った。彼は一つひとつの動作が無駄なく、言葉も必要最小限だ。冷徹という評判は伊達ではない。だが——彼の弦の音は、冷たくない。
ようやく執務を終え、ジークフリートが向き直った。椅子を引き、エルゼの向かいに座る。その所作は戦場帰りの軍人のそれではなく、どこか緊張した、不慣れな静けさをはらんでいた。
「……どうすればいい」
「こちらへ」
エルゼは椅子を寄せ、彼の胸の前に手を差し出した。
「手を、少し開いていただけますか。力を抜いて」
大きな手が、静かに開かれた。エルゼはその手のひらの上に自分の指先をそっと重ね、目を閉じた。
奥の弦へと、意識を沈めていく。
黄金の弦は、今夜も張り詰めていた。だが昨夜より、わずかに馴染んでいた。エルゼの指先を、少しずつ受け入れ始めているのかもしれない。
(まるで警戒心の強い獣みたい)
思いながら、優しく弦をなぞる。痛みの走っている箇所を確かめ、魔力の糸を丁寧に通す。傷ついた弦が少しずつほぐれ、音が澄んでいく。その過程を、エルゼは全身で感じていた。
調律中、部屋に音楽が鳴っていた。ジークフリートの弦の音が、エルゼの指先を通して空間に滲み出るのだ。それは聴こえるというより、感じるというべきもので——黄金色の、複雑で、深みのある音だった。
(すごい弦ね。この人は……本当は、どんな旋律を奏でる人なのだろう)
やがて調律を終えると、ジークフリートが長い息を吐いた。
「……楽になった」
素っ気ない言葉だが、その声の底に確かな安堵が滲んでいた。
「今夜はここまでにいたしましょう。無理をすると弦が馴染む前に再び傷みます」
「分かった」
短い沈黙。エルゼが立ち上がろうとすると、ジークフリートが低く言った。
「……なぜ、あんな家にいた」
エルゼは少し考えてから、正直に答えた。
「逃げる場所がなかったからです。それだけのことです」
「今は?」
今は、ここがある——とは、さすがにまだ言えなかった。エルゼは小さく微笑んで、ただ「おやすみなさい」とだけ言って部屋を出た。
廊下に出ると、夜の静けさが包んだ。
エルゼの胸の中に、小さな何かが芽吹くのを感じながら。
日が経つにつれ、二人の間に小さな習慣が生まれた。
調律の後の短い会話。始まりはぶっきらぼうな質問と素っ気ない答えだったが、少しずつ言葉が増えていった。ジークフリートは表情に乏しく、言葉も少ないが、問いかける内容は鋭く、エルゼの答えを真剣に聴いた。
ある夜、彼はエルゼに聞いた。
「調律の才は、どこで学んだ」
「母から。正式に師事したのは三歳から十歳まで、七年間です」
「その後は?」
「……自分で、練習しました。調律する相手はたくさんいましたから」
地下室での七年間を、エルゼはそれ以上言葉にしなかった。ジークフリートも追及しなかった。ただ彼は少しの間、黙ってエルゼを見てから、
「お前の母親は、どんな調律師だったのか」
と、静かに聞いた。
エルゼは一瞬、目を伏せた。
「……とても、やさしい音を奏でる人でした。誰の弦に触れても、その人だけの最も美しい旋律を引き出してしまうような。私はずっと、あの指先に憧れていました」
「お前も、同じだ」
静かな断言だった。エルゼは顔を上げた。
「閣下?」
「私の弦が、そう言っている」
それきり、ジークフリートは口を閉じた。エルゼはしばらく、その言葉の余韻の中にいた。
あなたの弦が、そう言っている。
弦は嘘をつかない。それを知っているからこそ、その言葉は胸の奥にまっすぐ刺さった。
十二日目の夜、エルゼは執務室の窓から外を見た。夜の庭園に、白い花が月光を浴びて揺れている。
その時、ジークフリートが低く言った。
「アルトマン家が動いた」
エルゼは振り向いた。
「……どういう意味でしょうか」
「お前が出奔して、しばらくはロザリアで乗り切ろうとしていたようだ。だが——昨日、フェリックス殿下が再調律を依頼したらしい。その結果が、最悪だったと報告が入った」
エルゼは息を詰めた。
「ロザリアが……殿下の弦に触れた、のですか」
「ああ。かつてお前が整えた箇所を、おそらく彼女の下手な干渉がすべて台無しにした。不協和音が悪化している。当面、王子は公務に支障が出るだろう」
それは、予測できたことだった。エルゼがいなくなれば、いつかこうなると分かっていた。
しかし——胸が、痛んだ。
フェリックスへの怒りは今もある。だが、彼の弦が壊れていくのを想像すると、調律師としての本能が疼く。あの黒く濁った弦でも、救えたなら救いたかった——いや、今からでは遅いかもしれないが。
「……そうですか」
エルゼは静かに言った。ジークフリートは彼女を見た。
「行きたいか」
「いいえ」
迷いなく、答えた。
「あの家に戻るつもりはありません。私が戻れば、また同じことが繰り返されるだけです。それに——今は、閣下の弦が大切ですから」
ジークフリートは少し沈黙してから、静かに言った。
「……そうか」
その一言に込められた何かが、エルゼには分かった気がした。弦は聴こえなくても。
公爵の黄金の弦が、今夜は少しだけ、穏やかな音を奏でていた。




