第一話 その指先が奏でる、逆転のプレリュード
王宮の大広間に、シャンデリアの光が降り注いでいた。
数百本のろうそくが灯す黄金の揺らめきの中で、貴族たちが絹のドレスと礼装を翻し、笑い、語らい、互いの品定めをしている。その喧騒の中にあって、エルゼ・ヴァン・アルトマンだけが、まるで別の世界に生きているかのように静かだった。
静かなのは、耳が聞こえないからではない。
むしろその逆だ。
エルゼには、人が持つ「魔力の弦」の音が、生まれた時から聴こえていた。健やかに張り澄んだ弦は、清流のように美しい音を立てる。だが、欲望や嫉妬や恐怖に汚染されたそれは、まるで錆びた刃を石に擦りつけるような、耐え難い不協和音となって空気を引き裂く。
今夜の大広間は、その不協和音の坩堝だった。
社交の仮面を貼り付けた貴族たちの弦が、欲望と虚栄心を帯びてぎしぎしと軋む。エルゼはこめかみを指先でそっと押さえ、無表情を保ちながら意識の端で音量を絞った。長年の習慣で身に付けた、精神の自衛術だ。
「お姉様、今日もぼうっとされていますの?」
背後から甘い声がかかった。振り向くと、義妹のロザリアが絵のような微笑みを浮かべて立っている。薔薇色のドレスに金糸の刺繍、巻き上げた亜麻色の髪にはダイヤモンドのピンが輝いていた。
どこからどう見ても、「稀代の天才調律師」の名にふさわしい外見だ。
実態は——まったくの虚偽だが。
「ロザリア。今夜のドレスが似合っているわね」
エルゼは口だけで返した。義妹の弦の音は、いつ聴いても薄っぺらい。欲のくせに、繊細さの欠片もない。彼女には、他者の弦を感じ取る「魔感」の才がほとんど備わっていないのだ。
「まあ、ありがとうございます。あ、そうそう——今夜は王子殿下もいらっしゃっているのですわよ。お姉様の婚約者の、フェリックス殿下が」
わずかに空気が変わった。エルゼの周囲の数人が、さりげなくこちらに視線を向ける。彼らの弦の音が、面白そうな「期待」の色を帯びる。
エルゼは表情を変えなかった。
フェリックス第二王子との婚約は、エルゼが十四歳の時に父が勝手に結んだものだった。伯爵家の地位を高めるための取引。エルゼ本人の意思など、最初から問題にされていなかった。
その婚約者が今、大広間の中心で、宝石のように着飾った貴族令嬢たちに囲まれて笑っていた。
(あの弦——今夜は特に、ひどい音ね)
遠目からでも分かった。フェリックスの体内の弦は、黒く濁った野心と、根拠のない優越感が絡み合い、醜い和音を奏でていた。こんな弦を持つ人間が、いつか皇帝になる日が来るのだとしたら——エルゼは密かに、帝国の未来を憂えた。
そして、運命は動いた。
エルゼが持っていたグラスが、ロザリアに軽くぶつかられた拍子に、指から滑り落ちた。硬質な音が大広間に響き渡る。辺りの笑い声が、一瞬、止んだ。
「不快な音を立てるな、エルゼ! 貴様の存在自体が、私の完璧な人生における不協和音なのだ!」
フェリックスの声が、よく通る。彼は近づいてきながら、軽蔑もあらわに眉をひそめていた。黒い礼服の金ボタンが、シャンデリアの光を跳ね返してきらりと光る。
「殿下、お許しください。お姉様は……その、お耳が不自由で、自分の立てる音すら分からないのですわ」
ロザリアが悲しげな顔を作りながら、エルゼをかばう振りをした。その影で、継母のマグダレーナが扇の陰から冷酷な目を向けている。
——エルゼには、もちろん全部聞こえていた。
グラスが落ちる音も。フェリックスの侮蔑も。ロザリアの偽りの悲しみも。マグダレーナの「恥さらしめ」という唇の動きも。
耳が聞こえないという嘘は、継母が仕組んだものだ。才能のないロザリアを「天才調律師」として売り出すために、本物であるエルゼを「欠陥品」として世間から隠す必要があった。地下室に閉じ込め、外部との接触を断ち、ロザリアの代わりに調律作業をさせながら、すべての功績を義妹のものとして発表してきた。
七年間、エルゼはそれに従ってきた。
母が死んでから。父が自分を「道具」と見定めてから。この家に、自分の居場所などないと悟ってから。
(でも——もう、いい)
エルゼは静かに頭を下げた。目を伏せながら、胸の奥で何かが解け落ちるのを感じていた。七年分の重みが、ゆっくりとほどけていく。
「婚約破棄だ。貴様のような出来損ないは、今すぐこの国から立ち去れ! 公的身分も剥奪し、平民として野垂れ死ぬがいい!」
宣告が降った。大広間に、囁き声が波紋のように広がる。父のギルバート伯爵は、娘が追放されるというのに、王子の機嫌を損ねぬよう揉み手をして頷いていた。
(ああ——これでいい)
怒りは、とっくに枯れ果てていた。悲しみも、おそらくはずっと前に。残っているのは、奇妙なほど澄んだ静けさだけだった。
もう、ロザリアの調律をしなくていい。もう、地下室で夜明けまで他人の弦の狂いを直し続けなくていい。もう、自分が存在することを恥じなくていい。
エルゼはただ一度だけ、フェリックスの胸の内を視た。
黒く濁り、歪み、腐り落ちそうな弦——ひどい不協和音だ。このまま放置すれば、十年と保たないかもしれない。けれど、それはもう自分の問題ではない。
「……承知いたしました、殿下。どうか、ご自身の旋律を大切になさってください」
エルゼは完璧な淑女の礼をひとつ、深々と執った。そして背筋を伸ばしたまま、大広間を出た。
背後でロザリアの勝ち誇った笑い声が弾ける。貴族たちの囁きが増す。
どれも、もうどうでもよかった。
夜風が、頬に冷たい。
王宮の正門へと続く石畳を歩きながら、エルゼは初めて夜空を仰いだ。満天の星が、呼吸するように瞬いている。この七年間、地下室には窓一つなかった。夜空を見上げるのが、こんなにも自然なことだったとは。
これから、どこへ行こう。
お金は、継母に管理されていてほとんどない。伝手も、外部に持っていない。「耳が聞こえない欠陥品の令嬢」という虚偽のレッテルのせいで、社交界に友人はいなかった。
しかし、不思議と怖くはなかった。
指先が、あった。この指があれば、生きていける——エルゼは根拠のない確信をそっと握りしめた。
正門の手前まで来た時、視界に黒い影が映り込んだ。
漆黒の馬車が一台、まるで行く手を塞ぐように止まっている。御者台には人がいない。馬だけが静かに立ち、白い息を吐いていた。
そして——馬車の扉が、内側から開いた。
「……見つけたぞ。私の調律師」
低い声だった。地の底から這い上がるような、重く、静かな声。
降りてきたのは、銀髪の男だった。
長身。広い肩幅。精緻に整った顔立ちに、氷のような双眸。軍人仕立ての黒いコートが、夜風に静かに揺れる。その全身から、凄まじいほどの魔力が——そして、おそろしいほどの「音」が漏れていた。
エルゼは思わず、息を呑んだ。
(この弦は——!)
黄金色の、美しい弦だった。だがそれは今、断裂寸前だった。極限まで張り詰め、ほんの一音触れただけで弾け飛びそうなほどに。痛みを内に押し込め、理性の力だけで立ち続けているのが、音を聴いただけで分かった。
彼は、一歩また一歩と近づいてくる。
帝国最強の魔導騎士——ジークフリート・フォン・ライデン公爵。
エルゼも噂ぐらいは知っていた。第一王子の右腕として幾多の戦場を渡り歩いた男。不敗の将。鉄の神経と黄金の魔力を持つと謳われた、帝国最強の騎士。
その男が今——目の前で、崩れ落ちようとしていた。
「くっ……!」
低い呻きとともに、ジークフリートの体が傾いだ。巨大な魔力が制御を失い、周囲の空気が震える。石畳が、微かに波打った。
エルゼは一瞬も迷わなかった。
彼の胸元へと手を伸ばし、そっと触れた。
指先から、細い魔力の糸を流し込む。誰かの弦に触れるのは、息をするように自然なことだった。エルゼにとって、それは生まれついた本能だ。
黄金の弦は、触れた瞬間、強く震えた——まるで拒絶するように。これほどの魔力量を持つ弦を調律した調律師は、今まで誰一人いなかったのだとすぐに分かった。他の調律師たちが失敗した理由も。彼らの魔感では、この弦の張力に耐えられなかったのだ。
だが、エルゼは違う。
(落ち着いて——聴こえる。あなたの音が、ちゃんと聴こえているわ)
指先を動かした。弦の最も痛んだ箇所をそっとなぞり、魔力の糸で補強し、均す。丁寧に、丁寧に。まるで壊れかけた楽器を、愛おしむように扱うように。
「……落ち着いてください、閣下。少し、弦が張りすぎているだけです」
ピン、と清らかな音が鳴った。
荒れ狂っていた魔力の嵐が、潮が引くように静まっていく。ジークフリートの体の震えが止まり、その呼吸がゆっくりと、深くなった。
長い沈黙があった。
彼は、エルゼの手を取った。
大きな手だった。戦場を渡り歩いてきた傷跡の残る、しかしおそろしく繊細な力加減で、エルゼの指先を包み込む。
「……これだ」
ジークフリートは、低く言った。氷のようだった眼差しに、初めて熱が宿る——それは激情でも懇願でもなく、長い渇望の果てにようやく答えを見つけた者だけが持つ、静かで確かな「執着」だった。
「この指先。この旋律だ。今まで誰も——誰一人、私の弦に触れることができなかった。だが君は……」
彼はエルゼの手を離さないまま、片膝をついた。帝国最強の公爵が、婚約破棄されたばかりの無位無官の令嬢の前に。
「エルゼ・ヴァン・アルトマン。私と契約してくれないか。君の調律を、私に捧げてほしい。そしてその代わりに——私が、君を守る」
声が、微かに震えていた。
あの、鋼鉄のように鍛え上げられた体の奥で、何かが助けを求めて震えていた。弦の音と、声の震えと——その二つが重なって、エルゼの胸にまっすぐ届いた。
エルゼは彼を見た。氷の眼差しの奥で、孤独が揺れている。ずっと一人で戦い続け、誰にも弦を任せられず、それでも倒れるわけにいかなかった男の孤独が。
(この人も——ずっと、一人だったのね)
決断は、静かで迷いがなかった。
エルゼは、小さく微笑んだ。この七年間、誰かに向けた初めての、本物の微笑みだったかもしれない。
「契約、承りました。閣下——いいえ、旦那様。あなたの心、私が生涯をかけて、最高の旋律に整えて差し上げます」
漆黒の夜空の下、婚約破棄された令嬢と、壊れかけた公爵が手を取り合った。
二人の奏でる狂詩曲が、静かに、幕を開けた。




