(幕間) 春の旋律、二人だけの夜
断罪から三日後の夜、ライデン公爵邸に、静かな時間が流れた。
きっかけは、ジークフリートが珍しいことをしたからだ。
夕食が終わった後、執務室へ戻ろうとした私に「少し待て」と言って、彼は書棚の奥に手を伸ばした。取り出したのは、年代物の赤ワインだった。埃を被った瓶で、ラベルが少し褪せている。相当前から仕舞われていたらしい。
「……何かあったんですか」と私は聞いた。「ない」「じゃあなぜ」「一区切りついたから、だ」
それだけの説明で、無言でグラスを二つ持ってきて、ワインを注いで、一方を私の前に置いた。それからサロンの椅子に腰を下ろして、窓の外を向いた。
(……これは、一緒に飲めということか)
「……飲めるか」「少しなら」「ならいい」
私もサロンの椅子に座った。こういう時、この人の隣で「では私はこれで」とは言いにくい。弦の音が、いつもより少しだけ——開いている気がしたから。
暖炉に火が入っていた。
オレンジ色の光が、部屋をゆっくりと揺らしている。天井に映る影が、暖炉の炎に合わせて揺れている。窓の外には、冬の始まりを告げる夜空が広がっていた。月が出ていた。庭の楓が、もう葉を全部落として、枯れ枝だけになっていた。
しばらく、何も言わなかった。
暖炉の火が爆ぜる音だけが、静かに部屋に満ちている。ワインは少し重くて、でも飲むほどにまろやかさが増す味だった。胃の奥から温かくなる。
(……不思議な夜だ)
こんなふうに、何も心配しなくていい夜が来るとは、思っていなかった。アルトマン家のことを考えなくていい。継母の次の手を警戒しなくていい。フェリックスの弦の行方が気にはなるが——今夜だけは、それも少し後ろに退いている。ただ、暖かい部屋で、美味しいワインを飲んでいればいい。
(……七年間で、初めてかもしれない、こういう夜は)
「……明日から、何をしますか」しばらくして、私は聞いた。
「しばらく邸にいろ」ジークフリートが答えた。
「……それだけですか」
「それだけだ」
短い沈黙。
それから、私は小さく笑った。自分でも気づかないうちに、笑っていた。「……いい答えです」「何がいい」「何もしなくていいって言ってくれる人が、今まで一人もいなかったので」
ジークフリートは少しの間、私を見てから「……そうか」と言った。その声が、柔らかかった。
庭の月が、窓ガラスに映っていた。
ムーンリリーはもう枯れていた。でも月だけが、今夜も変わらず白く輝いている。地下室にいた七年間も、この月はずっとどこかで輝いていたのだ——私には見えなかっただけで。
「……閣下は、こういう夜は好きですか」
思いがけず、口から出ていた。ジークフリートが私を見た。「こういう夜、とは」「……静かな夜、です。何も起きない夜」
彼は少しの間、窓の外を見てから答えた。「……好きだ、とは、あまり考えたことがなかった」「なぜですか」「好きかどうかを考える前に、次の仕事が来る。ずっとそうだった」
(……この人も、余白がなかったんだ)
七年間、私は余白がなかった。でもこの人も——帝国最強の騎士として、余白を持つことを許されなかったのかもしれない。
戦場が終わっても、別の戦場へ。仕事が終わっても、次の仕事へ。そういう人生を歩んできたのだろう。弦の傷が、それを物語っていた。誰かに癒してもらうことを、長い間知らなかった弦の音だ。
(……それが今夜、こんなふうにワインを飲んでいる)
私のせいではないかもしれない。でも——少しだけ、そうだったらいいとも思う。
帝国最強の魔導騎士。不敗の将。いつだって誰かに必要とされる場所へ向かって、弦を張り続けてきた人。その人が今夜、ただワインを飲みながら窓の外を見ている。
「……今夜は、どうですか。今この瞬間は」
ジークフリートが、また私を見た。今度は少し長く。それから「……悪くない」と言った。
(悪くない、か)
この人にしては、相当な言葉だと思った。弦の音が、言葉の奥を補足していた。——本当は、もっといい、と言いたいのかもしれない。でもそれを素直に言える人ではないから、「悪くない」になる。
「……私も、悪くないです」
同じ言い方で返した。ジークフリートが、口の端をわずかに動かした。
ワインが半分ほど減った頃、私は少し眠くなってきた。
暖炉の温かさと、ワインの重さと、何も心配しなくていいという緩みが全部重なったせいだ。瞼が少し重い。でも眠るには惜しい夜だった。こういう夜は、もう少し起きていたかった。
「……眠いか」ジークフリートが気づいた。「……少し。でも大丈夫です」「無理するな」「無理していないです。もう少し、ここにいたいので」
彼は何も言わなかった。でも、席を立てとも言わなかった。それが答えだと思った。
「……閣下は、眠くないですか」「私はあまり眠らない」「どのくらい」「三、四時間あれば十分だ」「……それは、少なすぎます」「問題ない」「問題があります。弦が疲れます」
ジークフリートが、少しの間私を見た。「……お前は、弦のことになると強気になるな」「調律師ですから」「そうか」
また、静かな時間が流れた。
ヴェラが明日の朝早くに用事があると言っていたことを思い出した。起こしてもらう約束をしていた。でも今夜は——朝のことを考えたくなかった。
「……こういう夜に、明日のことを考えるのはもったいないですね」
「そうか」
「……閣下は、今、明日の仕事のことを考えていますか」
ジークフリートが少し間を置いた。「……今は、考えていない」
(……珍しい)
この人が「今は考えていない」と言えるのは、今夜だけかもしれない。弦の音が、それを確かめていた。本当に——今この瞬間だけは、仕事の色が消えていた。
今度の静けさは、最初の静けさと少し違っていた。最初は、どこか探り合うような空気があった。でも今は——ただ、一緒にここにいることが自然になっていた。
(……この感覚、なんだろう)
七年間、誰かと並んで座って、ただ静かにしていたことがなかった。地下室に一人でいるか、依頼人の前に座って調律しているか、どちらかだった。こうして——誰かの隣で、何もせずに温かいものを飲んでいる。
それだけのことが、これほど難しかったとは思わなかった。
これほど——大切だったとも。
安心、という言葉が浮かんだ。でもそれだけじゃない気もした。安心の中に、何か別のものが混じっている。温かくて、少し甘くて、名前をつけるのが少し怖いような——
考えるのをやめた。今夜は、考えなくていい夜だ。
グラスを傾けた。ワインが、少し喉の奥で温かくなった。
ジークフリートも、黙って窓の外を見ていた。その横顔が、今夜は珍しく穏やかだった。仕事の顔でも、戦場の顔でも、執務室の顔でもない。ただ、静かに夜の庭を眺めている人の顔だ。
この人の横顔を、こんなふうに見たのは初めてだった。
(……綺麗だな)
思った瞬間、少し驚いた。でも——弦は正直だった。否定しなかった。そういうことなのかもしれない、と、グラスの中のワインに視線を落とした。
暖炉の火が、少し低くなってきた。
ジークフリートが静かに立ち上がり、薪を一本足した。炎が上がり、また部屋が明るくなった。戻ってきて、椅子に座り直した。それだけだった。でも——その一連の動きが、こんなに自然だとは思っていなかった。この人がこんなふうに、ただの夜の部屋で薪を足すということが。
執務室では、いつも背筋を伸ばして書類に向かっている。廊下を歩く時は、足音さえ隙なく整っている。でも今夜のジークフリートは——薪を足して、手の煤をさっと払って、何事もなく戻ってきた。
それだけのことが、なんか、とても人間らしかった。
(……この人にも、こういう部分があるんだな)
弦の音だけでなく、こういう小さな仕草でも、人のことが分かる。七年間、指先だけで人を読んできたけれど、目で見ることも、悪くないと思った。
「……ありがとうございます」と言うと、「何に対して」と返ってきた。「薪を足してくださったことへ、です」「それは礼を言うことではない」「……私にとっては、礼を言いたいことです」
ジークフリートは少し黙ってから「……そうか」と言った。
今夜の「そうか」は、これまで聞いた中で一番、柔らかかった。
暖炉の火がまた爆ぜた。
私はグラスを両手で包んで、じっとワインの色を見た。深いルビー色だ。炎の光を受けてきらきらしている。
「……このワイン、何年ものですか」「さあ、覚えていない。父の代から仕舞ってあったものだ」「……一度も開けなかったんですか」「機会がなかった」「……今夜が、機会になったんですね」
ジークフリートは少しの間、グラスを見てから「……そうらしい」と言った。
その言い方が、なんだか好きだった。「そうらしい」——自分でも気づいたら決めていた、という感じがして。
グラスが空になった。
「……もう一杯、いかがですか」と聞くと、「お前はどうする」と返ってきた。「私はもう十分です。でも閣下が飲まれるなら、お付き合いします」「……なら、いい」「え?」「お前が飲まないなら、私も飲まない」
(……なぜ私に合わせるんですか)
聞きたかったけど、聞けなかった。弦の音が、少しだけ答えてくれていた気がしたから。
私に合わせてくれる。それが自然にできてしまうのが、この人の——今では当たり前になっている気遣いだ。最初の頃は気づかなかった。でも今は、ちゃんと分かる。
(……いつから、気づけるようになったんだろう)
調律師になったせいかもしれない。弦の音を聴き続けていたら、言葉ではなく音で相手を理解することが当たり前になった。この人の弦が、今夜も静かに教えてくれていた。
「……では、そろそろ部屋に戻ります」「ああ」「……今夜は、ありがとうございました」「何に対して」「こういう夜を、つくってくださったことへ」
ジークフリートは少しの間、立ち上がりかけた私を見ていた。それから「……たまにはいい」と言った。
(たまには、か)
また来る、ということだ。こういう夜が、また来る。
それが——ひどく嬉しかった。声には出さなかったけれど、弦には多分、ばれていた。
自室に戻る廊下で、私はそっと自分の頬に触れた。
サロンを出た後、扉を閉める瞬間だけ、もう一度だけジークフリートを見た。
彼は、私が出て行ったことに気づいていた。でも引き止めなかった。ただ、ゆっくりとこちらを向いて——目が合った。
何も言わなかった。私も言わなかった。でも弦の音が、一瞬だけ重なった気がした。
同じ音が、二つ。
扉が閉まった。
自室に戻る廊下で、私はそっと自分の頬に触れた。
温かかった。ワインのせいか、暖炉のせいか、それとも別の何かのせいか——分からなかった。分からないままでいいと思った。
窓の外に、月が出ていた。昨夜と同じ月だ。でも今夜の月は、少しだけ近い気がした。
(……こういう夜が、これからも来たらいい)
そう思いながら、扉を開けた。部屋に入る前に、廊下の向こうをもう一度だけ振り返った。
サロンの扉が、閉まっていた。その向こうに、ジークフリートがいる。黄金の弦の音が、かすかに、でも確かに聴こえていた。
穏やかで——今夜は、少し甘い音だった。
私の弦も、きっと同じ音を奏でていたと思う。
自室の扉を開けて、中に入った。窓の外の月が、部屋の床に白い四角を映していた。その光の中に、しばらく立っていた。
(……今夜の調律は、しなかった)
気づいたら、忘れていた。ジークフリートの弦を整えることを——今夜だけは、頭になかった。ただ一緒に、ワインを飲んでいた。
それで良かったのかもしれない。調律師と依頼人ではなく、ただの二人として、同じ夜の時間を過ごした。そういう夜も、あっていい。
ベッドに横になって、目を閉じた。暖炉の温かさが、まだ体の奥に残っている。
今夜は——地下室の夢を見ない気がした。




