第十一話 第一王子の帰還
冬の始まりに、第一王子が帝都へ戻ってきた。
カイル・フォン・ヴァルトハイム第一王子——皇帝の長男、帝位継承筆頭候補。三年間、北方の辺境で魔獣討伐の指揮を執っていた人物が、年の瀬を前に帝都に戻ってきた。
その帰還が、帝都の空気をわずかに変えた。
変化は小さかった。でも確かにあった。
社交界の貴婦人たちの弦の音に、新しい色が混じり始めた。期待と、それから——安堵。フェリックスの振る舞いに不安を感じていた人たちが、「本来の継承者が戻ってきた」という安心感を覚えているようだった。
弦の音は、正直だ。言葉より先に、人々の本音を語る。帝都が、密かにカイルの帰還を歓迎していた。
ジークフリートが夕食の席でそれを知らせてくれたのは、帰還の翌日だった。「カイルが戻った」たった一言だったが、弦の音が、その一言の重さを教えてくれた。いつもより少しだけ、引き締まっていた。
「……どんな方ですか」私は聞いた。
ジークフリートは少しの間、ワインを傾けてから答えた。「……賢い。そして、公正だ」「フェリックスとは、違うのですか」「対極と言っていい。カイルは弦を——ある程度、感じることができる」
(……王族で、弦を感じられる人がいるんだ)
珍しいことだった。魔感は訓練や才能が必要で、王族の中で持つ者はほとんどいない。でも「感じることができる」というのは、完全な魔感ではなく、弦の乱れや歪みを直感的に察知できる程度のことだろう。
「……それは、閣下にとってよいことですか」「フェリックスへの牽制になる。カイルがいる限り、帝位を巡る動きは慎重にならざるを得ない」「……つまり、フェリックスにとっては障害になる」「ああ」
そしてそれは——フェリックスをさらに追い詰めることにもなる。焦りが増す。腐蝕が進む。追い詰められた者が最後の賭けに出る、その時が近づく。
(……嵐が来る前の静けさに、似ている)
第一王子への謁見の要請が来たのは、その三日後だった。
ジークフリートが書類を私に見せた。「カイルが、お前に会いたいと言っている」「……私に? なぜですか」「帝国の調律師として、だ。公開調律の儀の話が届いているらしい。それと——セシリア・ヴァン・アルトマムの件も」
母の名が出た瞬間、胸の中で何かが揺れた。でも落ち着いていられた。もう、あの名前を聞いても崩れない。
「……行きます」「怖くないか」「……少し。でも、行かない理由がないです」
前日の夜、眠れなかった。第一王子に会うことより——「国家調律師」という言葉が頭に引っかかっていた。まさかそういう話になるとは、思っていなかった。
ヴェラに「緊張されているのですか」と聞かれた。「……少し」と答えた。「でも旦那様がご一緒ですから、大丈夫ですよ」とヴェラは言った。
(……ヴェラは、本当に察しがいい)
翌朝、馬車に乗る前にジークフリートが言った。「……緊張しているか」「していません」「嘘だ」「……少しだけです」「それでいい。正直に言え」
(この人、なぜ嘘だと分かるんですか)
弦の音で分かるのかもしれない。私が弦で相手を読むように、この人も——別の何かで、私のことを読んでいる気がした。
ジークフリートが頷いた。「私も同行する」「大丈夫ですよ」「お前の「大丈夫」は信用していない」
(……それはどういう意味ですか)
言い返そうとして、止めた。弦の音が、心配の色を帯びていたから。
王宮の一角にある、第一王子の私室に通された。
華やかさよりも、実用を重んじた部屋だった。書棚に本が詰まっている。地図が広げられたままの机。壁に北方の地形図が貼ってある。三年間、辺境で戦ってきた人物の部屋だ。
カイル第一王子は——思っていたよりずっと、静かな人物だった。
年齢はジークフリートより少し下、三十手前といったところか。フェリックスの派手な金髪とは違い、落ち着いた茶色の髪。目が、よく動く。部屋に入った瞬間から、私のことを観察していた。
(……弦の音が、澄んでいる)
驚いた。王族の弦は、たいてい欲望と権力の色に染まっている。でもカイルの弦は——清潔だった。欲がないわけではない。でも、欲が弦を濁らせていない。長年の戦場生活が、余分なものを削ぎ落としてきたのかもしれない。
「ライデン公爵、それからエルゼ嬢」カイルが立ち上がって、正式な礼をした。「帝都に戻ってすぐ、お呼び立てして申し訳ない。どうしても早く会いたかった」
「……エルゼ・ヴァン・アルトマムと申します」私は礼をした。「いえ——」カイルが穏やかに言った。「もう、その名は必要ない」
カイルは、まずアルトマム家の件について話した。
北方にいながら、全てを把握していたという。マグダレーナの逮捕、公開調律の儀での私の活躍、セシリアの死の真相——全部、使者経由で届いていた。
「……セシリア嬢のことは、申し訳なかった」カイルが言った。「私が辺境にいる間に、帝都でそのようなことが起きていたとは」「……閣下のせいではありません」「だが、王族の一員として、帝国内で起きたことに責任がある。それは変わらない」
(……この人は、ちゃんと弦で感じているんだ)
責任を取ろうとしている、本物の気持ちが、弦から伝わってくる。言葉だけじゃない。欲しい反応を計算した上での謝罪ではなく——本当に、申し訳ないと思っている。
「……ありがとうございます」私は言った。それだけで十分だった。
次に、カイルは本題を切り出した。
「エルゼ嬢を、帝国国家調律師として正式に任命したい」
静寂が落ちた。
(……国家調律師)
それは——帝国が正式に認める、最高位の調律師の称号だ。複数名いる宮廷調律師の上に立つ、帝国で唯一の地位。今まで三十年以上空位だったと聞いていた。
「……私が、ですか」「お前以外に誰がいる」ジークフリートが静かに言った。
カイルが続けた。「公開調律の儀での記録は見た。弦の波紋が客席全体に広がった——あのような現象は、過去の記録にもほとんど例がない。それだけでも十分だが、それ以外にも——ライデン公爵の弦の回復速度が、報告を受けた数値で言えば異例だ。あれほどの断裂寸前の状態から、これほど短期間で安定するとは」
ジークフリートが、わずかに目を逸らした。私は気づかないふりをした。
「……私は、まだ二十歳になったばかりです」「関係ない」カイルが言った。「弦の才能に、年齢は関係ない。お前の母セシリアも、若くして宮廷調律師になった。血は繋がっている」
返事をするのに、少し時間がかかった。
(……国家調律師)
七年間、地下室にいた。耳が不自由だと言われ続けた。調律師として存在することさえ否定されていた。それが今——帝国で最高位の調律師として、名前を持つことになる。
嬉しいかと言えば——嬉しかった。でもそれより先に、静かな感慨があった。
(……お母さん、聞こえてますか)
あなたが教えてくれたことを守り続けた結果が、今夜ここにある。
「……謹んでお受けします」私は言った。声が、少し震えた。
震えたのは、緊張のせいではなかった。
七年間、名前を呼ばれなかった。地下室に閉じ込められて、「耳の不自由な欠陥品」と言われ続けた。調律師としての才能を、誰にも認めてもらえなかった。それが今——帝国で最高位の調律師として、正式に名前を持つ。
「……エルゼ」ジークフリートが、静かに私の名を呼んだ。それだけだった。でも弦の音が、その一言の奥に全部を込めていた。よくやった、と。
私は頷いた。言葉が出なかったので、頷くことだけした。
カイルが頷いた。「手続きは追って行う。当面は今のまま、ライデン公爵邸を拠点にしてもらえればいい。ただ——一つ、頼みがある」
「……何でしょうか」
カイルは少し間を置いてから言った。「フェリックスの弦の状態を、定期的に報告してほしい。私には感じ取れる限界がある。お前ほどには分からない」
(……フェリックスの監視を頼まれた)
兄が弟の弦の腐蝕を、帝国の安全のために監視する。それがどれほど重い依頼かは、カイルの弦の音が教えていた。葛藤がある。兄弟への愛情の残滓が、弦の奥にかすかに残っていた。
「……分かりました」私は答えた。「でも閣下、一つだけ聞いてもよいですか」「何だ」「……フェリックスは、まだ救えますか」
カイルが、初めて表情を動かした。わずかに、眉が下がった。「……分からない。だが——お前が聴き続けてくれるなら、可能性はある」
(……可能性は、ある)
それだけで、十分だった。
謁見が終わる時、カイルがもう一つだけ言った。「……エルゼ嬢、あなたの母上は、私の父帝の信頼を得た調律師だった。在りし日、よく父帝の弦を整えていたと聞いている」
知らなかった。母が皇帝の弦を整えていたとは。
「……そうだったんですか」「ああ。父帝は今も、あの頃の音を覚えていると言っていた。セシリアの調律は、特別だったと」
(……お母さん)
七年前に毒で命を奪われた人が、皇帝の記憶の中に「特別な音」として残っていた。それが今夜は——ひどく、温かく感じた。
「……教えてくださって、ありがとうございます」私は言った。声が少し詰まった。カイルは何も言わずに、ただ頷いた。その弦が、静かな共感の色を帯びていた。
王宮を出て、馬車に乗り込んだ。
ジークフリートが隣に座った。しばらく、どちらも何も言わなかった。馬車の揺れと、蹄の音だけが続く。
「……閣下」私は口を開いた。「何だ」「……先ほど、目を逸らしましたね」「……」「弦の回復が異例だと言われた時」
しばらく沈黙があった。
「……気にするな」「気になります」「……お前が丁寧に調律してくれたからだ。それだけのことだ」「それだけのことじゃないです。最初の夜、閣下の弦は断裂寸前でした。普通なら半年以上かかります。それが二ヶ月で——」「エルゼ」
名前を呼ばれた。静かな声で。
「……お前の調律が、特別だということだ」
それだけだった。窓の外を向いたまま、それだけ言った。
(……特別、か)
「……閣下も、最初の夜からそう思っていてくださったんですか」もう少し確かめたくて、聞いた。
ジークフリートはしばらく黙った。窓の外を向いたままで。それでも答えてくれた。「……最初の夜から」
(最初の夜から)
あの夜——婚約破棄の場ですべてが終わったと思っていた夜。応急処置として調律した、あの夜から。ずっと、この人は私の音を「特別だ」と思っていたのか。
「……それを、なぜ今まで言わなかったんですか」「……言う必要がないと思っていた」「私は、聞きたかったです」
ジークフリートがわずかに私を見た。それから「……そうか」と言った。今夜の「そうか」は、少し困ったような弦の色を帯びていた。この人が困ったような音を奏でることがあるとは、知らなかった。
頬が温かくなった。国家調律師に任命された感慨より、その一言の方がずっと大きかった気がして——少し困った。
馬車の窓から、冬の帝都が流れていった。街灯が点り始めていた。夜が来る。
(……第三章が、始まった)
フェリックスの弦は腐蝕し続けている。第一王子が帰還した。帝国の不協和音は、これから最大の高まりを見せる。
でも今夜は——馬車の中で、隣に人がいた。
それだけで、十分だと思った。
馬車が石畳を滑っていく。蹄の音が、規則正しく続いている。
(……国家調律師か)
声に出してみたら、どんな感じだろう。今夜は、まだ言葉にできない気がした。でも明日の朝、起き上がった時には——少しだけ現実になっているかもしれない。
「……閣下」「何だ」「……第三章は、怖いですか」「怖い、とは思わない」「なぜですか」「お前がいるから、だ」
今夜のジークフリートは、珍しく、すんなりと言ってくれた。考えるより先に、出てきたような答え方だった。
(……お前がいるから)
その言葉が、胸の奥でじわりと広がった。弦の音が、温かく揺れた。私の弦も、きっと同じ音を奏でていた。
馬車の窓から、冬の帝都の灯りが流れていった。第三章が、始まった。




