第十二話 腐蝕の宴
フェリックスが、夜会を開いた。
十二月の帝都は、一年で最も社交が盛んになる季節だ。年の瀬を前に、各家が夜会を開き、貴族たちが挨拶を交わし、来年の縁組みや政治的な思惑が、ダンスの隙間で静かに交わされる。
第二王子フェリックスが主催する冬の夜会は、例年、帝都で最も華やかな催しの一つだった。今年も招待状が帝都中に配られた。ジークフリートの元にも届いた。
「……行くんですか」私は聞いた。
「行く」ジークフリートは書類から目を上げずに答えた。「お前も来い」「私も、ですか」「国家調律師が帝都の夜会に顔を出すのは、義務に近い。それに——フェリックスの弦の状態を直接確認したい」
(……なるほど)
夜会は、ある意味で最も効率よく大勢の弦を一度に読める場所だ。私にとっても、フェリックスの現状を肌で感じられる機会になる。
「……分かりました。でも、ドレスが」「用意してある」「……え?」「ヴェラに頼んでおいた。今朝届いているはずだ」
(……なぜそんなに準備がいいんですか、この人は)
文句を言う前に、全部先に回られていた。
届いていたドレスは、深い夜空色だった。
星を散らしたような細かい刺繍が、胸元から裾にかけて流れている。肩の線がすっきりして、でも動きやすい。調律師が長時間着ていても疲れない作りになっていた。明らかに、私の仕事のことを考えて選ばれている。
(……この人は、こういうところが細かい)
衣装部屋の鏡の前に立って、裾を少し持ち上げてみた。動きやすい。調律の動作——腕を伸ばす、前傾みになる、指先を使う——全部、邪魔しない作りになっている。
これは偶然じゃない。仕立て屋に「調律師が着るものだ」と伝えた上で選んでいる。それが分かった瞬間、胸の奥で何かが揺れた。
ヴェラが髪を整えてくれながら「旦那様が直接生地を選ばれたそうですよ」と教えてくれた。さらりと言うから、最初は聞き流しそうになった。でも——直接、生地を、選んだ。
「……そうなんですか」「はい。珍しいことで、仕立て屋さんも驚いていたそうです」
鏡の中の自分の顔が、少し赤かった。
王宮の大広間は、すでに人で溢れていた。
シャンデリアの光が、ドレスの宝石を受けてあちこちに散っている。弦楽四重奏の音が、天井から降りてくる。給仕が静かに動いている。帝都の権力と富が、一か所に集まった時の、あの独特の空気だ。
(……弦の音が多すぎる)
石畳の廊下を歩きながら、すでに遠くから音が聴こえてきた。百人以上の弦の音が、扉越しに漏れ出している。
子供の頃、母に連れられて夜会に来たことがあった。その時はまだ、弦の音の「量」に圧倒されていた。今は——量の中から必要な音を選べる。七年間で、それだけは確かに上手くなった。
「……準備はいいか」ジークフリートが扉の前で確認した。「はい」「では行こう」
入った瞬間に、頭が痛くなりそうだった。大勢の人間の弦が同時に押し寄せてくる。欲望、見栄、嫉妬、愛情、打算——全部が混ざり合って、不協和音の濁流になっている。七年間、こういう場所に来たことがなかった。
「……大丈夫か」隣でジークフリートが低く聞いた。
「……少し、音が多いです。慣れます」「無理するな」「慣れます」
こめかみをそっと押さえて、意識の音量を絞った。大勢の弦を遠ざけて、必要なものだけに集中する。フェリックスの弦を探した。
——すぐに分かった。
広間の奥、上座に近い場所で、フェリックスが立っていた。今夜は正装だ。金の刺繍の入った白い礼服。笑っていた。社交用の、完璧な笑みだ。でも——弦の音が、その笑みとまるで違うことを言っていた。
(……ひどくなっている)
前回より、さらに腐蝕が進んでいた。弦の核に近い部分まで、黒く濁った音が侵食している。完全断裂まで——もう、そう遠くない。
夜会の序盤、私はジークフリートと並んで何人かと挨拶を交わした。
国家調律師としての正式な発表はまだだったが、公開調律の儀の結果は帝都に広まっていた。「あの夜の方ですね」と声をかけてくれる人が何人かいた。その弦の音は——好奇心と、かすかな尊敬が混じっていた。慣れない感覚だった。
「……落ち着かないですね、こういうのは」ジークフリートに小声で言った。「慣れろ」「すぐには慣れません」「慣れる」「……閣下は社交が得意ですか」「嫌いだ」「では慣れたんですか」「仕方なく、だ」
(……仕方なく慣れた、か)
それが何か可笑しくて、少し笑ってしまった。ジークフリートが「……何がおかしい」と言った。「閣下らしいな、と思って」「それは褒めているのか」「はい、褒めています」
弦が、わずかに温かくなった。
夜会の中盤、フェリックスが近づいてきた。
予測していた。こういう場で会えば、何らかの接触を試みてくるだろうとは思っていた。問題は——どういう形で来るか、だ。
「ライデン公爵、それからエルゼ嬢」フェリックスが笑顔で言った。社交用の、滑らかな声だ。「久しぶりだね、エルゼ。元気そうで何より」
(……この人が「エルゼ」と呼んでくる)
婚約破棄の夜、「耳の不自由な欠陥品を婚約者にするつもりはない」と言い放った人だ。今更、名前で呼んでくる。弦の音が、その笑顔の裏にあるものを全部語っていた。焦り。嫉妬。それから——計算。
「……フェリックス殿下」私は礼をした。「ご夜会にお招きいただき、ありがとうございます」「堅苦しいことは抜きにしよう。今夜は楽しい席だから」
ジークフリートが無言で私の隣に立っていた。その存在だけで、フェリックスの弦がわずかに乱れた。
「……エルゼ嬢は、随分と活躍されているようだね。公開調律の儀——見事だった」「……ありがとうございます」「あの才能が、今まで埋もれていたとは惜しいことをした」
(……今更、そういうことを言うのか)
怒りは来なかった。ただ——弦の音を静かに聴いていた。フェリックスの弦の奥で、何かが渦を巻いている。今夜、何かをしようとしている。準備がある。計算がある。でも何を、まだ分からない。
フェリックスが、周囲の人払いをした。
自然な動きだった。「少し個人的な話をしたい」と言って、近くにいた廷臣たちをそっと遠ざけた。社交の達人の技だ。気づいた時には、三人だけになっていた。
「……単刀直入に言おう」フェリックスの声が、少し変わった。笑顔はそのままだったが、弦の音が引き締まった。「エルゼ嬢に、王宮の調律師として来てもらいたい。専属だ。報酬は今の倍にしよう」
(……引き抜き、か)
予想していなかった。刺客でも、脅しでも、陥れる工作でもなく——正面からの引き抜き。フェリックスなりの、最後の手段なのかもしれない。弦の腐蝕が限界に近づいている自覚が、今夜の行動に繋がっているのだろう。
「……私の返事を聞かせてもらえますか」ジークフリートが静かに口を開いた。私ではなく、ジークフリートが。「エルゼは、帝国国家調律師だ。王宮専属への移動は、陛下の認可が必要になる」
フェリックスの弦が、ぴくりと乱れた。「……国家調律師、だと?」「先日、カイル殿下より任命された」「カイルが——」
フェリックスの笑顔が、一瞬だけ崩れた。ほんの一瞬。でも私には、その瞬間の弦の音が聴こえていた。想定外のことが起きた時の、焦りと怒りが混じった音。腐蝕した弦が、ぎりぎりと軋む音。
「……そうか。それは失礼した」フェリックスが笑顔を戻した。「では、また機会を改めよう。今夜は楽しんでいってくれ」
それだけ言って、立ち去った。
フェリックスの背中を見送りながら、私はゆっくりと呼吸をした。
弦の音が少しずつ遠ざかっていく。腐蝕した、黒い音が。それでも残滓が尾を引くように、広間の空気にしばらく漂っていた。
「……引き抜きは予想外でした」私は小声で言った。「もっと攻撃的な手を使ってくると思っていたので」「正面から来た。それは——まだ理性が残っているということだ」「……つまり、まだ完全には落ちていない」「ああ。だからこそ——危うい」
完全に落ちた者は、手が読める。でも理性と腐蝕の間で揺れている者は、何をするか分からない。フェリックスは今、その縁にいる。
「……大丈夫か」
人が離れた瞬間、ジークフリートが低く言った。
「……はい。ありがとうございます、助けてくださって」「助けたわけではない。事実を言っただけだ」「でも、タイミングが完璧でした」
ジークフリートは何も言わなかった。でも弦の音が、わずかに緩んだ。
「……フェリックスの弦の状態は」「今夜で、これまで聴いた中で最悪です。完全断裂まで——早くて一ヶ月、遅くても三ヶ月といったところです」「そうか。カイルに報告する」「はい」
会場の喧騒が、遠くに聴こえていた。弦楽四重奏が新しい曲を始めていた。シャンデリアの光が揺れていた。
「……踊れるか」
突然、ジークフリートが言った。
「……え?」「夜会に来て一度も踊らないのは目立つ。国家調律師として、体裁を整えておく方がいい」「……踊れます、一通りは」「では、一曲だけ」
(……この人が、踊りに誘ってくる)
驚いてしまって、返事が遅れた。ジークフリートが「嫌か」と聞いた。「……嫌じゃないです。驚いただけです」「では」
差し伸べられた手を、取った。
ダンスの間、何も喋らなかった。
ジークフリートのリードは、正確だった。無駄がなかった。こういう所も、この人らしかった。私はただ、その動きに合わせればよかった。
(……弦の音が、近い)
曲は三拍子のゆったりしたワルツだった。ステップは難しくない。でも——ジークフリートの腕の中にいることが、慣れなかった。
この人の体温が近い。コートの布越しに、肩の硬さが伝わってくる。三年間、辺境の戦場で戦ってきた人の体は、同年代の廷臣たちとは全然違う。戦いの重さが、骨格の奥に刻まれている。
(……こんなにも、この人は色々なものを背負っているんだな)
弦の音が教えてくれる。体が教えてくれる。今夜は両方から、同じことが伝わってきた。
距離が近いせいで、いつもより鮮明に聴こえた。黄金の弦が、静かに、穏やかに鳴っている。今夜のフェリックスの弦の腐蝕音を間近で聴いた後だったから余計に——澄んでいることが、際立って分かった。
(……この弦の音を守りたい)
思った瞬間、驚いた。「守りたい」という感情が、こんなに自然に出てくるとは。七年間、誰かを守ろうと思ったことはなかった。でも今は——この人の弦の音が、誰かに汚されることを、許したくなかった。
曲が終わった。ジークフリートが手を離した。
「……上手い」「褒めすぎです」「そうか」
人垣の向こうで、フェリックスがこちらを見ていた。笑顔だった。でも弦の音が——冷たく、暗く、燻っていた。
今夜は終わった。でも——何かが、確実に動き始めていた。
馬車に乗り込んだ時、ジークフリートが静かに言った。「……今夜、よくやった」「何がですか」「フェリックスの前で、動じなかった」「……内心は、少し動じていました」「外に出なかった。それで十分だ」
(……外に出なかった)
七年間で身につけた技だ。どんな感情も、弦に溶かして外に出さない。それが今夜、役に立った。
「……閣下のおかげです。隣にいてくれたから、動じずに済みました」
ジークフリートは少しの間、窓の外を見ていた。それから「……それは、お互い様だ」と言った。
(お互い様)
その言葉が、今夜一番温かかった。馬車の揺れの中で、その「お互い様」をしばらく胸の中で転がした。
邸に戻った時、夜はすっかり更けていた。
玄関でジークフリートと別れた後、自室への廊下を一人で歩いた。ドレスの裾が石畳に擦れる音がする。今夜のことを、一つずつ反芻した。
フェリックスの引き抜きの件。カイル王子の帰還がもたらした抑止力。腐蝕した弦の完全断裂まで、あと一ヶ月から三ヶ月。
でも——それより先に浮かんでくることがあった。
夜空色のドレスの生地を、直接選んでくれた人のこと。ダンスの間の、体温と弦の音のこと。「お互い様だ」という一言のこと。
(……困ったな)
自室の扉を開けながら、思った。第三章は、これから本番だ。でも私の頭の中が、別のことで半分埋まっていた。
窓から夜空を見上げた。冬の星が、鋭く輝いていた。
弦の音は正直だ。私自身の弦も——今夜は、正直すぎるほど、温かく鳴っていた。




