第十話 母の涙と、誓いの旋律
雨が降っていた。
帝国法務院の調査報告書が届いたのは、幕間の夜から二日後の朝だった。
ジークフリートが書類を持ってきた時の顔で、ただ事ではないと分かった。執務室の扉を開けてすぐ、私の顔を見て一瞬だけ止まった。それだけで、何かが書いてあるのだと理解した。
「……読めるか」
問いの形だったが、選択肢はなかった。私は頷いた。
書類を受け取って、椅子に座った。羊皮紙のページをめくっていく。帝国法務院の紋章。調査日時。被疑者の名前。証拠の一覧——
三枚目で、手が止まった。
「調律師セシリア・ヴァン・アルトマンの衰弱死について——被疑者マグダレーナ・ヴァン・アルトマンの証言により、当該死亡は自然死ではなく、弦を腐蝕させる毒物(黒弦草エキス、調律師ギルド禁制品)の継続的投与によるものと認定された」
文字が、目の前でぼやけた。
(……分かってた)
分かっていた。十歳の私は、母の弦が消えていくのを指先で感じながら、あれは自然な死じゃないと思っていた。弦の音が、病気とは違う消え方をしていた。少しずつ、外から削られていくような音だった。でも証拠がなかった。言葉にする力がなかった。誰も聞いてくれなかった。
「分かってた」のと、「証拠として文字になる」のは——違った。
紙の上の事実が、胸の奥の何かを、静かに、確かに、割っていった。
幼い自分が最後に見た母の顔を、思い出した。ベッドの上で、薄く笑っていた。「弦はいつも本当のことを言っているの。だから調律師は、ただ聴けばいい」——その声が、まだ耳に残っている。その時の母の弦の音も。消えていく前の、最後に聴いた弦の音が。
(……毒を盛られていたんだ、あの時から)
十歳の私が「おかしい」と思っていた感覚は、正しかった。でもその正しさが今更確認されても——嬉しくなかった。ただ、重かった。
書類を、机の上に伏せた。
窓の外を見た。雨が降っていた。灰色の空から、細かい雨粒が落ちてきている。
(……今日、母の墓へ行こう)
急にそう思った。理由は分からない。でも今日でないといけない気がした。この報告書を読んだ今日、けじめをつけなければいけない気がした。
「……エルゼ」
ジークフリートが、静かに呼んだ。
顔を上げると、彼が私を見ていた。書類ではなく、私を。
「……一人で、行きたいです」
自分でも驚いた。何を言うつもりだったか、考えていなかった。でも口から出てきたのはその言葉だった。
ジークフリートが少し眉を動かした。「どこへ」「……母の墓へ。今日、行きたいです」
しばらく、沈黙があった。
「護衛をつける」「一人で行きたいです」「……分かった」
反論しなかった。ただ、一度だけ私の顔を見て、それから「……傘を持っていけ。雨が強くなる」と言った。
弦の音が、心配の色を帯びていた。でも止めなかった。それが——今日のことを、自分でけじめをつけたいのだと分かってくれたということだ。
王都の外れにある教会墓地へ、一人で行った。
雨は本降りになっていた。傘を差していても、裾が濡れた。石畳が濡れて光っている。墓地の木々が、雨の重さで枝を垂れている。秋の終わりの、冷たい雨だ。
母の墓石は、教会の裏手の一角にあった。古い石で、苔が少し生えていた。「セシリア・ヴァン・アルトマン」と刻まれた名前を、雨が洗っている。七年間、私が来られなかった墓だ。
傘を閉じた。
雨に濡れながら、墓石の前にしゃがみ込んだ。濡れた石に、指先をそっと触れた。
弦の音は、しない。
当然だ。死者の弦は聴こえない。でも——この石の冷たさの奥に、確かに、母がいた気がした。指先の感触だけが、何かを伝えてくれるような気がした。
「……お母さん」
声が、雨音に溶けた。
七年間、一度も泣かなかった。怒りも悲しみも、全部指先に溶かしてきた。地下室で泣いたら、終わりだと思っていた。泣いたら、立っていられなくなると思っていた。だから、泣かなかった。
でも今日は——
涙が、落ちた。
雨に紛れて、石畳に消えた。でも確かに、流れた。一滴。もう一滴。頬を伝って、顎の先から落ちた。七年分の何かが、今日初めて、外に出てきた。
「……ごめんね。七年間、来られなかった」
母の声が耳に残っている。「弦はいつも本当のことを言っているの。だから調律師は、ただ聴けばいい」——七年間、その言葉を守ってきた。怒らずに、怖がらずに、ひたすら聴いてきた。
(……ちゃんと、聴いてきたよ)
それだけは、胸を張って言えた。どんな環境でも、誰がどんな弦を持ってきても、逃げなかった。丁寧に、丁寧に、聴いてきた。
母が教えてくれたことを、七年間守ってきた。
それが今は——少しだけ、誇らしかった。
雨が強くなっていく音が、傘の布を叩いていた。
母の墓石を、もう一度見た。苔の生えた古い石。刻まれた名前。七年間、誰も来なかった墓。
「……もう少ししたら、ちゃんとお花を持って来ます」
誰に言うでもなく、言った。雨音が返事をしてくれた気がした。
母の弦の音を、最後に聴いた時のことを思い出した。消えていく前の、ほんの一瞬だけ、澄んだ音が鳴った。まるで最後に何かを伝えようとするように。あの音が——今でも、指先に残っている。
(……聴こえてたよ、お母さん。ずっと)
どのくらいそうしていたか、分からない。
雨が強くなっていた。上着がすっかり濡れていた。でも立てなかった。立てない、というより——立ちたくなかった。もう少しだけ、ここにいたかった。
気配がした。
振り向かなくても分かった。弦の音で。
ジークフリートが、傘も差さずに雨の中に立っていた。コートを羽織っていた。いつから来ていたのか、分からない。濡れていた。髪が、雨で少し乱れていた。
「……来たんですか」
「ああ」
「一人で行くって言いましたよ」
「……聞こえなかった」
(聞こえていたでしょ)
でも、怒る気にはなれなかった。来てくれて、よかったと思っていた。声には出せなかったけれど、本当に、よかった。
ジークフリートは何も言わずに、私の隣にしゃがみ込んだ。濡れることも厭わずに。墓石を見て、目を閉じた。
その横顔が、雨に濡れていた。銀髪が額に張り付いていた。
コートの肩が濡れて、色が変わっていた。どのくらい前から来ていたのか——ずっと、ここにいたのかもしれない。私が気づくより前から、ただそこに立っていたのかもしれない。
(……どうして、来てくれたんだろう)
聞けなかった。でも弦の音が、答えていた。心配だったから。それだけだ。難しい理由なんてない。ただ——心配だったから、来た。
それが、この人の答えだ。
(……聴いてる)
この人は今、私の弦を「聴いて」いる。調律しているのではなく、ただ傍らに座って、その音を受け取っている。調律師の私が、誰かに弦を聴いてもらっている。
それが分かった瞬間、また涙が落ちた。
誰かに弦を聴いてもらうということが、こんなに温かいとは知らなかった。調律師は、いつも「聴く」側だった。誰かに「あなたの音を聴いている」と伝えてもらえる日が来るとは——七年間で、一度も想像したことがなかった。
しばらく、二人で雨の中にいた。
何も言わなかった。言わなくても、よかった。雨の音が、代わりに何かを言ってくれていた気がした。
ジークフリートが、ゆっくりと口を開いた。
「……必ず、報いを受けさせる」
静かな声だった。怒鳴っていない。声を荒げてもいない。でもその言葉の奥に——絶対に、という重さがあった。弦の音が、その言葉を補強していた。
これは誓いだ。
「……はい」
声が少し、震えていた。
ジークフリートが、大きな手を私の頭の上にそっと置いた。それだけだった。抱きしめるでもなく、言葉を重ねるでもなく、ただその手が、雨の中で温かかった。
(……温かい)
雨の冷たさの中で、その温もりだけが、確かにそこにあった。
私はしばらく、その重さを感じていた。大きな手の重さ。傘もないのに来てくれた人の、温もりの重さ。
また涙が落ちた。今度は、雨の音に隠れなかった。ちゃんと、落ちた。
ジークフリートの手が、頭の上から離れた。
立ち上がろうとすると、大きな手が差し伸べられた。無言で。私はその手を取った。引き上げてもらった。
立った瞬間、足元がふらついた。しゃがんでいた時間が長かったせいと、泣いていたせいと、雨に濡れていたせいが全部重なって、少しだけよろけた。
ジークフリートの手が、私の肩を支えた。「……大丈夫か」「……はい。少し、立ちくらみがしただけです」「歩けるか」「歩けます」
でも——その手は、しばらく離れなかった。私も、離してほしいとは言わなかった。
帰り道、二人並んで歩いた。
ジークフリートが傘を一本持っていた。私に差し出した。「自分は?」「濡れている」「だったら一緒に入ってください」「……狭い」「入れます」
しばらく押し問答があった。ジークフリートが「お前が持て」と言い、私が「一緒に入ってください」と言い、それを数回繰り返した。
最終的に——大きな傘の下に、二人で入った。
ジークフリートの肩が、私のすぐそこにある。歩くたびに、触れるか触れないかの距離で揺れる。
(……この人の弦が、今夜は温かい音で揺れている)
孤独の色が薄い。戦場の重さが後ろに退いている。雨の中、私の隣を歩いている人の弦が——こんなに穏やかな音を奏でている。
「……ありがとうございます」
私は言った。「何に対して」「今日、来てくださったことへ」「……気にするな」「気にします」
ジークフリートは少しの間、前を向いたまま歩いて、それから「……お前が泣いているのを、一人にしておきたくなかった。それだけだ」と言った。
(……お前が泣いているのを、一人にしたくなかった)
その言葉を、胸の中でゆっくりと繰り返した。
泣いていることに気づいてくれていた。一人にしたくなかった。だから来た。傘も差さずに、雨の中に立っていた。
(……この人は、そういう人だ)
言葉は少ない。でも行動が、全部を語る。弦がそれを、ずっと教えてくれていた。今日まで、全部。
「……閣下は」私は言った。「何だ」「……雨の中に、ずっと立っていたんですか。私が気づく前から」「……少しな」「少しってどのくらいですか」「……覚えていない」
(覚えていない、ってことは結構長かったんだろうな)
傘の下で、私は少し下を向いた。濡れた石畳が光っている。
「……次に泣く時は、ちゃんと傘の下に入ってください」「お前が一人で行くから」「それはそうですけど」「……次は、一緒に行く」
(……次は、一緒に行く)
それが宣言なのか、問いなのか、判断できなかった。でも——弦の音が、有無を言わせない確かさを帯びていた。
「……はい」私は答えた。今度は、躊躇わなかった。
雨が、少しずつ上がり始めていた。
傘の外側で、雨音が細くなっていく。空の端が、わずかに明るみを帯びていた。雲の切れ間から、夕暮れの光が斜めに差し込んでいる。
(……母の死の真相が分かった。マグダレーナへの報いはこれから。フェリックスの弦は腐蝕し続けている)
まだ、先がある。第三章は、これから始まる。
でも今夜は——それだけでよかった。
七年分の涙が落ちた。初めて誰かに弦を聴いてもらった。一本の傘の下で、肩が触れるか触れないかの距離で歩いた。
それだけが、今夜の全部で——それだけが、世界でいちばん確かなことだった。
傘の柄を持つジークフリートの手の横に、私の手があった。触れていなかった。でも——触れそうな距離にあった。
弦の音が、二つ、静かに満ちていた。
その旋律に、新しい音が加わっていた。悲しみが溶けた後に残る、静かな決意と——温もりの音が。
空の色が、少しずつ変わっていた。雨上がりの空というのは、洗われたように澄んでいる。明日はきっと、晴れるだろう。
(……第三章は、まだこれからだ)
フェリックスの弦の腐蝕は続いている。帝国の不協和音は、まだ終わっていない。でも今夜の私には、それに立ち向かえる気がした。
隣を歩くこの人の弦が、静かに鳴っている。
その音が、私の弦と——今夜だけは、同じ調子で響いていた。




