第六話 セシル覚醒
そして翌日の放課後。
同じ中等部生徒会の応接室。
カミュエとセシルの勉強会は始まっていた。
非常に盛り上がっていた。
「――涙ながらに引き留めるラーラ姫の元を、後ろ髪惹かれる想いで立ち去るトーレスの心情を思うと切なすぎて!」
セシルがソファから腰を浮かせ、興奮のていでまくし立てる。
「でも臣民のために決然と戦場へ向かうトーレスは、本当にカッコイイんです! 敵将バルバルスの兵力は三倍なんですよ!? でもトーレスは逃げない! 恐れない! そしてイヴンとの友情の力で、完璧な時間差挟撃作戦を成し遂げるんです! まさに手に汗握る展開でした!」
「そう。もう五巻まで読んでくれたのね」
「はいっ、面白すぎて止まりませんでした! あまり夜遅くまで読み耽ったものだから、早く寝むよう侍従から小言をもらったほどです」
「ふふっ」
セシルの気が済むまでひとしきり、カミュエは微笑ましく見守っていた。
昨日、テスト対策の参考図書として渡した「トーレス王物語」全二十三巻のうち、早速セシルが読んだところまでの感想を、聞かせてもらっていたのだ。
「トーレス王物語」とは、ホライゼンに伝わる古典文学の一つ。
主人公である騎士トーレスがやがて自分の国を建て、周辺国家を次々と征服し、天寿を迎えるまでのサクセスストーリーである。
また主人公トーレスのモデルが、このホライゼンの初代国王ラスロットであり、ストーリーラインも実際の建国史を踏まえていることで知られる。
登場人物のほとんど全員も――名前は変えてあるが――実在の歴史人物となっていて、脚色がゼロではないが少な目という塩梅。
カミュエは名著だと思っているのだが、ホライゼンの貴族社会ではあまり認められていない。少なくとも読むべき教養とは見做されていない。
理由は大衆娯楽性が強すぎるのと、貴族の中にはご先祖様の恥や悪行が赤裸々に描かれていることが――たとえそれが歴史的事実でも――業腹な者たちがいるからだ。
著者が執筆に当たり、登場人物や土地、出来事などあらゆる名称をわざわざ変えているのは、「そのまま使うと発禁にされてしまうから」という事情だったりする。
つまりは王子の教育係なら、まして頭の固い権威主義者デンケツなら、絶対に生徒に与えない娯楽作品といえよう。
だがセシルは気に入ってくれたようだ。
「男の子ならこういうの絶対好きでしょう?」というカミュエの狙い通り。
かくいうカミュエも(この異世界で)六歳の時に出会い、かなりハマッたクチ。
「トーレス王物語」は、ヒロインであるラーラ姫との馴れ初めから結婚後のやりとりまで丁寧に描かれていて(サイドストーリーという置き位置ではあるが)、恋愛物語としても楽しめるからだ。
「わたくしもその場面――トーレスがラーラ姫を愛するがゆえに出征し、今生の別れになるかもしれない苦悩と葛藤のシーンは大好きよ。台詞とやりとりが秀逸で、前半屈指の名場面だと思うわ」」
「『なぜ私たちは出会ってしまったのか!』――ですねっ」
「そうそう。ね、今の台詞、もっと情感を込めて言ってみて?」
「え?」
「お芝居みたいに言って?」
「そ、それは……」
カミュエがいきなり無茶ぶりをすると、セシルは当然のように照れ臭がり、首を左右にした。
でも明け透けなくらい「ワクワク」と期待の眼差しを向けていると、やがてセシルの方が折れてくれた。
件のページを開くと、本を片手にソファから立ち上がり、主人公の台詞を読み上げる。
羞恥半分、自棄半分という具合で、役者のように声を張って、
「『ああ、悲劇だ。なぜ私たちは出会ってしまったのか。なぜただの主従のままでいられなかったのか。私は天の配剤を憎む。そして貴女を憎む、ラーラ姫』」
「『どうしてそんなひどいことを仰るの、トーレス卿!』」
受けてカミュエもソファを立ち、ヒロインの台詞を暗唱する。
芝居は生徒会の出し物で昔、かじった程度で、得意とはいえない。
でも堂々と演じていれば、それなりに見えるものだ。
そして、「二人で場面を再現しましょう」という意図はセシルに伝わり、まだはにかみつつも続けてくれた。
「『私は貴女の小鳥のような声が憎い。花の容貌が憎い。淑女の手本の如き貞淑さが憎い。お優しい心根が憎い。何よりこんな私を想うてくれる愛が憎い』」
「『まあ……わたくしが貴殿のことを、そんなにも傷つけていただなんて……っ』」
「『そうだ! 身分違いの恋とは、茨の道に相違ならぬ。私は幾度も傷つき、心から血を流し――そのたびに強くなった』」
「『ええ、トーレス卿。貴殿より強い男など、我が国にはおりません』」
「『どうかその強さを信じて欲しい。私は身命を賭してこの国を――貴女を守ってみせまするッ!!』」
「『だから征かせて欲しいと? バルバルスと刺し違える覚悟でいる貴殿を? 嫌です! 決して嫌!』」
カミュエが大真面目に芝居をしていると、セシルも一人で照れている意味を感じなくなったのだろう。やがてノリノリでトーレスの役を演じてくれた。
一場面丸々台詞を読み合わせたころには、二人とも肩で息をしてしまうほどの熱演っぷりだ。
でも、こういうのは馬鹿になった方が楽しいので、演じ終わるとどちらからともなく噴き出し、腹の底から笑った。
セシルは天使のようにあどけなく、カミュエも扇子で口元を隠すような無粋はしなかった。
「私も義姉上と同じで、トーレスとラーラ姫の関係がとても好ましいです。尊ささえ覚えます」
「そうね。尊いご関係といえば、トーレスのモデルになった初代国王陛下は、ラーラ姫のモデルになったレイア妃とその後添い遂げて、生涯他の妃を迎えることなく、一途に愛し続け給うたと言われているの。まあこの『トーレス王物語』みたいに、四十歳になっても五十歳になってもずっとイチャイチャしているのは、さすがに脚色でしょうけど」
「あまり史実通りすぎても、ドラマ性がなくなってしまいますよね」
「ええ。特にここで敵役にされてるバルバルス将軍だなんて、史実と作中で一番変更が加えられているキャラなのだけれど、セシル殿下は彼をどう思うかしら?」
「うーん、好ましいとは思えないですね。ただのやられ役というか……五巻までに四回トーレスと戦って、全部コテンパンにされてますし。四回目なんて満を持して、三倍の兵力をかき集めたのに」
「実は初代国王陛下は、バルバルスのモデルになったヴィルバオ国のマルス将軍と生涯に十度戦って、十度とも敗北なさっていらっしゃるのよ」
「『トーレス王物語』と真逆じゃないですかっ」
「結局はマルス将軍が先に病没して、初代国王陛下は『戦では勝てなかったが、長生きでは勝った。最後に笑うのは余だ』とお言葉を残して、ようやくヴィルバオ国をご征服あそばしたのよ」
「…………」
セシルにとっては偉大なご先祖にあたる開祖を、悪くは言えないだろう。だから口をつぐんだ。
でも素直な少年の顔には「ちょっと格好悪いなあ……」と書いてあった。
「バルバルス将軍を史実通りに描くと、トーレスが主人公のフィクションとしては問題がありすぎるから、著者も大きく脚色せざるを得なかったということね」
「主人公が負けっ放しの物語は、さすがに面白くないですよね。あの世でマルス将軍は恨んでるかもしれませんが……」
「ふふっ、そうね。逆に大きく脚色されて、一番得しているのはイヴンかしら。タウ公爵家のご初代がモデルね」
「作中ですとトーレスの幼馴染で無二の親友、しかもトーレスと並び立つ政戦両面の天才という役どころですが……」
「初代国王陛下と幼馴染で、無二の親友だったというのは史実よ。だけど政治や軍事能力は、かなりお粗末だったとされるわ。誠実で忠実で、初代国王陛下も心の拠り所と思し召して、彼に公爵位をお授けになったわけだけど、それ以外には全くご期待されなかったという話なの」
「手を加えずとも充分、素晴らしい人物ではないですか。権力者にとって心の拠り所と呼べるほどの存在が、どれほどありがたいことかっ」
「異論はないわ。でも『トーレス王物語』は大衆に向けた娯楽作品だから、著者は共感されないと考えたのでしょうね。イヴンを史実通りに描いたら、『コイツいつもトーレスの足を引っ張ってんのになんでこんなに信頼されてんだ???』ってきっと理解されない」
「……なるほどっ。だから初代国王陛下と比肩し得る人物に脚色したわけですか」
「そう、盛りすぎなくらい設定モリモリにね」
セシルが夢中になって聞いてくれるので、カミュエも「トーレス王物語」談義に力が入った。
途中、気を利かせたアーサーが、存在感を消したまま応接室に入ってきて、空になったカップに新しく淹れた紅茶を注ぎ、それもほどなく二人が飲み干したので、またお代わりにアーサーが現れる――というのを三度くり返すくらい、お互いしゃべりすぎて喉が渇いたほどだ。
「あくまでフィクションに対して、史実ではどうのこうのと言うのは野暮だったかしら?」
「そんなことはありません、義姉上! むしろ裏話みたいで興味深いですっ」
「そう? ではもっとしてあげましょうか?」
「ぜひっ。私に歴史を教えてください!」
セシルにせがまれ、カミュエはホライゼンの建国史を――「トーレス王物語」五巻までの内容を踏まえて――あれこれと講義する。
史学には苦手意識があると言っていた少年の姿は、もうない。
前世の学生時代において、神谷永理には歴史好きの友人(いわゆる歴女)が何人かいた。
彼女らがしばしばぼやくには、「歴史ってそもそもマンガにもなるくらい面白いのにさ、どうして学校の先生はあんなにつまらなくして教えられるんだろう。一種の才能じゃない?」と皮肉っていた。
聞いて神谷永理はなるほどと、大いにうなずかされたものだ。
そんな経験を元に、セシルにはまず大衆娯楽を通じて歴史に親しみ、歴史そのものを好きになってもらうことにした。
好きになれば興味の範囲が広がる。
興味が出れば講義を聞く姿勢も前向きになるし、やがては自分で調べようとなるはず。
「好きこそものの上手なれ」だ。
だから試験までは毎日ずっと、「トーレス王物語」談義に費やすつもりだった。
十日という短い時間で、建国史にまつわる深い知識をなるべくたくさん憶えてもらうには、これが一番効果的だという判断。
(それに殿下が優秀な生徒だから、私も教え甲斐があるわ)
やはり今までは教える側が悪かったのだ。
ちょっと噛み砕いて説明したらすぐに理解してくれるし、一度憶えたことは忘れない。
何より根が勤勉。
打てば響く鐘のようで、カミュエの方まで心地よくなる。
そう。
真綿が水を吸うように人が成長していく瞬間を、間近で見ていると――正直、ゾクゾクする。
業の深い性分だと自分でも思うが、やめられない。
だから前世でも今世でも、これぞと見込んだ人を周りに集め、その才能を伸ばす手助けをし続ける。
ほとんど趣味だ。数寄だ。苦に思ったことなんて一度もない。
「義姉上は本当に教え上手でもあらせられますね!」
「ふふっ。ありがとう」
これもまた「好きこそものの上手なれ」だ。
「いえ、お礼を申し上げるのは私の方です。後は試験で、義姉上のご期待に応えることができるとよいのですが……」
「まだ充分に時間はあるわ。焦らずがんばりましょう?」
セシルはまだ自信がないだろうが、カミュエは既に試験が楽しみだった。
◇◆◇◆◇
楽しい時間というものは、なぜこれほど短く感じてしまうのだろう?
カミュエに個人レッスンをしてもらえる――セシルにとって天にも昇る心地の日々は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
今日がいよいよ、試験本番。
中等部二年の生徒全員が、階段教室に集まり、着席する。
本来どこに座るかは自由だが、セシルは皆の模範となるべき王子という立場上、いつも教壇の目の前に着席する。
そして既に机に用意されていた、テスト用紙に挑む。
『問1:初代国王ラスロット陛下が、ヴィルバオ国将軍マルスに対してお遺しになった御言葉を、思いつく限り列挙しなさい』
(あっ、これ義姉上のレッスンでやったところだ!)
そう、「トーレス王物語」において敵将バルバルス(マルス将軍がモデル)の出番は多く、比例して初代国王が彼に言及するシーンはたくさんある。
そこで使われた台詞群のうち、どれが史実のものでどれがフィクションかは、カミュエが全て教えてくれた。
そしてセシルは、カミュエの言葉なら絶対に忘れない自信があった。
(これならいくらでも書けるぞっ)
セシルは喜び勇んで解答用紙を埋めていく。
試験は他に九問あったが――
『問2:ラスロット陛下がレイア妃以外をお娶りにならなかったご理由を、歴史背景を踏まえて答えなさい』
『問3:ラスロット陛下と初代タウ公爵閣下のご関係を、二百文字以上使って答えなさい』
『問4:ラスロット陛下が今日のホライゼン領となる国土をご征服あそばし、併呑した周辺国家を、時系列順に全て答えなさい』
――という、どれもこれも「トーレス王物語」では印象的な出来事で、且つカミュエに史実とフィクションの違いを丁寧に教わった事柄ばかりだった。
特に「問4」は引っかけ問題である。
初代国王陛下は生涯で大小十三の国家を征服したが、うち旧ガリャ国領はその後の時代にホライゼンから独立してしまい、旧ナンドリア国領と旧ボルタノ国領も他国に切り取られてしまっている。
調子に乗って十三の国全てを列挙したら、「それらの国土は今日のホライゼン領ではない」と不正解になってしまうだろう。
いつものセシルなら、まさに馬鹿正直に十三国全部、書いていたに違いない。
でもカミュエがレッスンで――
「初代国王陛下の御代には、ホライゼンの国土はこんなにも広大だったの。もし後世の王侯貴族がもっとしっかりしていれば、領土はさらに広がっていたはずよ。でも現実には我が国は初代国王陛下の御代が最盛期で、その後は版図も経済も産業も衰えるばかり。由々しき話よね? 初代国王陛下にホライゼンを託された、王侯貴族の課題であることを、皆がもっと認識すべきなのよ」
――という話をしてくれたのが、ひどく印象的だった。
これぞまさに高貴なる者の義務。カミュエの常日頃からの意識の高さだと思ったし、
カミュエがセシルに「王太子ではないからといって、他人事だとは考えないで欲しいの」と教示してくれているように思えた。
だからこそセシルの胸に深く刻まれ、まただからこの引っかけ問題の罠にも気づけたのだった。
その後も問10まで、セシルは解答用紙をスラスラと埋めていく。
問題ごとにカミュエとの楽しかった時間が思い起こされ、またカミュエがどれほど優れた教師だったか畏敬の念が強まる。
それこそ今日のホライゼンの領土が、最盛期の見る影もないことをカミュエが講義してくれた後のことだ。
セシルは堪らず訴えた。
「義姉上の授業はとてもわかりやすく、何より楽しいのですが……同時にこのままでいいのかと不安を覚えてしまいます」
「あら? わたくしのやり方にどんな不満が?」
「勉強とは本来、もっと辛いものではないかと……。私は義姉上に甘やかされているのではないかと……」
セシルは日々、勉学に打ち込んでいるが、それは自信のなさの裏返しだった。
兄ウィリオットのように、大した努力をせずともなんでもできて、誰からも好かれる人気者で、あたかも天に何物も与えられたかのような人間が傍にいると、自分がどれだけ取るに足らない人間か身につまされた。
まさに光と影だ。
父や母、廷臣や近習たち――王宮にいる誰もが注目し、期待するのはウィリオットだけ。
皆、本音のところでは思っているのだ。
「第二王子など、王太子が何かあった時の予備にすぎない」と。
だから放蕩者や怠け者では困るが、セシルのように真面目で勤勉ならそれでいい。
王太子のように、なんでもできなくて結構。そこそこ止まりで充分。
そんな空気が、セシルは子供のころから嫌で嫌で堪らなかった。
別に兄に取って代わりたいとか、未来の国王になりたいとか、そんな野心はない。
ただ自分だとて王家に生まれた一員として、民の血税を食む者として、いずれはこの国を支えられるような、立派な男になりたかった。
少なくともウィリオットには――目先の人生を楽しむことしか考えていない兄には、負けたくなかった。
そんなセシルだからこそカミュエの、この国を傾かせたままではいけない、王侯貴族がしっかりしなくてはいけないという先の言葉に、強い感銘を受けた。
だったらこんな、楽しいばかりの授業をやっていてはいけないのではないか?
セシルを甘やかさず、もっと厳しく指導してくれた方がいいのではないか?
果たしてカミュエは諭してくれる。
「確かに王侯貴族は民のため、国のため、己を厳しく律していかないといけないわ。己を高めるため、辛いことから逃げ出してもいけない。だけど楽しいものを無理に辛くする必要はないでしょう?」
確かにその通りだ。理屈はわかる。
でも気持ちがついていかない。
肩を落としていると、カミュエも「深刻な問題なのね」と酌んでくれた。
かつてないほど真剣な顔で、こう言ってくれた。
「まさに生真面目としか言いようのないあなたの性分は、わたくしには好ましいものだけれど……これだけは言っておくわ。責任感が強いのと自罰的なのは、似て非なるものよ?」
言われてセシルはギクリとした。
なんと鋭い指摘だろうか!
セシルの目的が「己を高め、向上すること」ではなく、「自分を追い込むことで安心したいだけ」になってはいないかと、カミュエは忠告してくれているのだ。
セシルが全く自覚できていなかったその意識の陥穽を、この聡明な女性は見逃さなかったのだ。
(やっぱり私はダメな男だ……。穴があったら入りたい……)
セシルは羞恥で赤面し、ますます身を縮めた。
そんな自分にカミュエは――まるで本当の姉のような態度で――ローテーブルから身を乗り出し、セシルの両手をとって、しっかりとにぎってくれた。
表情を一転、柔らかいものに――とびきり魅力的なものに変えて、言ってくれた。
「伝わらないようだから、もう一度言ってあげる。わたくしは努力家のあなたが好きよ。セシル殿下のような志を持つ人が、王家に生まれたことを頼もしいとすら思うわ」
そんなことは今まで誰にも言われたことがなかった。
中等部生徒会の皆は慕ってくれていると感じるが、しかし彼らが自分を熱心に支え得てくれるのは、自分が頼りないリーダーだから、その裏返しでしかないだろう。
だけどカミュエは違う。
「あなたはやればできる」と強く励ましてくれるのが伝わる。
自分の手をしっかりとにぎり続ける、彼女の手からじわじわと伝わってくる。
「でも、あなたが自分で自分を潰してしまわないか、急に心配になってきたわ」
「……申し訳ありません」
「だから、たまには自分のことを褒めてあげるようにするといいのではないかしら?」
「それは……すぐには難しいかもしれません」
「本当に融通の利かない子ね! わかったわ、では今後もわたくしが代わりに褒めてあげるわね」
そう言ってクスクス忍び笑いをするカミュエに、セシルは今度は別の感情で赤面させられた。
同時にこの義姉が――いや、他ならぬこの女性が、そこまで言ってくれる喜びを噛みしめた。
あの時のことは多分、一生忘れない。
(私はカミュエ様にもっと褒められたい)
セシルはその一心で試験に向かい続ける。
これほど不純で――でも楽しい気持ちでテスト問題に挑んだことは、かつてなかった。
満点だってとれそうだった。
◇◆◇◆◇
あくる日。
中等部の校舎に、二年生たちの史学試験の結果が張り出されていた。
ちょっとした騒ぎになっていた。
今回の試験は本当に難しかったようで、平均点はたったの五十三点。
さぞ苦戦したのだろう生徒たちが、自分以外の結果も確認して「やっぱり異常なテストだったのだ」と、納得したり落胆したり胸を撫で下ろしたり不平をこぼしたり、十人十色の反応を見せていた。
また騒ぎになっている原因は他にもある。
異例の難度だった試験にもかかわらず、満点を叩き出した者がいたからだ。
無論、セシルである。
「やりましたね、殿下! 二位を大きく引き離した、見事なご結果です」
「史学はお苦手にしていらっしゃったのに、ついに克服なされたのですね」
「セシル殿下は大変な努力家でいらっしゃいますもの。やはりいつかは実を結ぶものなのだと、改めて学ばされる想いですわ」
「俺、感動しました!」
――と大勢の生徒に囲まれ、持て囃されていた。
その様子をカミュエは遠目に見て、クスリとする。
当の本人は周囲に褒められてうれしげな一方、困った様子でもあったからだ。
恐らく内心、「私の手柄ではなく義姉上のおかげ」だとか、考えているのだろう。
でもカミュエが秘密の勉強会にしようと提案したから、セシルは真相を言うに言えない。
別に頑張ったのはセシル本人なのだから、成績を誇ったっておかしくはないのに。律儀で謙虚で生真面目な王子様は、手柄ヅラになれないのだ。
(やっぱりあんな弟が欲しかったわね)
なんてカミュエは思ってしまう。
ともあれ満足して踵を返す。
そして、隣にいた中年に声をかける。
「このたびはわたくしの要望を聞き入れてくださり、感謝いたしますわ。モリーヌ先生」
セントセレス校の史学教諭であり、今回の試験の作成と採点を行った人物に、カミュエは改めて礼を言った。
実は今回のテスト内容に関して事前に、秘密裏に、二つほど要望を言っていたのだ。
「別にセシル殿下に何か忖度したわけではありませんよ」
モリーヌは人聞きの悪いことを言うなとばかりに、咳払いをした。
「『試験をいつになく難問にするべき』というカミュエ嬢の提案は、近ごろたるんでいる二年生の気を引き締める上で、私も同じ意見だった。また『問題を初代国王陛下に関するテーマだけに絞るべき』という提案も、ラスロット陛下が如何にご英明であらせられたか、昨今の若者はそのご偉業をもっと知り、我が身を改めるべきだと私も常々考えていましたから! 面白いテーマだと思って、採用したまでだよ」
決してカミュエの言いなりになったわけではないと、モリーヌはクドクド語る。
「わたくしに言い訳をしても仕方ないでしょうに」とカミュエも内心、苦笑い。
この俗物根性が強い男は、自己保身に走ることでも余念がない。
そう。危ない橋は絶対に渡らない男だ。
だからこそ、仮にカミュエが「セシル殿下に点を獲らせてくれ」「不正をしてくれ」と依頼しても、決して応じてはくれないだろう。
だからカミュエはこの教師と試験内容をコントロールするために、一計を案じたわけだ。
「極めつけに難問にしてくれ」というのも「問題の傾向を統一してくれ」というのも、別に不正というほどではない。
現にモリーヌは今述べた通り、もっともらしい弁明を用意していた。
(でもセシル殿下だけが高得点を獲れば、周囲の評価はますます上がる。そして「トーレス王物語」を読み込んだ殿下なら、初代国王陛下に関する問題ならどんなに難しくてもドンと来いだしね)
そんな裏があったなどとセシルは露知らないまま、真摯に試験に臨み、そしてカミュエの期待通りの結果を残してくれた。
もちろん、採点に関してもモリーヌは一切忖度していないだろうし、カミュエも甘くしてくれなどとは一言も頼んでいない。
このチキンな教師が満点を与えたということは、セシルの答案は誰がどう見ても完璧なものだったということ。
「ふふっ。モリーヌ先生も正直、ホッとなさったのではないですか?」
「何がかね?」
「仮にも第二王子であらせられるセシル殿下が、史学の成績だけ良くないというのは、先生の指導力不足ではないかとさぞ体面が悪かったでしょう? そこでセシル殿下のご成績が伸びれば、面目躍如というものですものね」
「わ、私の体面などどうでもいい! ただ為政者にとって歴史への造詣は本当に重要なもので、いずれこの国を担うセシル殿下がお苦手とされていたことを、私は愛国者として常々憂いていたっ」
「成功体験はとても大事ですし、これを機にセシル殿下には、史学を得意分野にしていただきたいものですね」
「その通り。私ではなくホライゼンの未来のためにもなっ」
カミュエの要望に従ったのは、あくまで自分のためではないと言い張り続けるモリーヌ。
まあ、別に構わない。
この教師がコントロールしやすい相手だという事実は何も、今後とも変わらないのだから。
「アーサー」
「はい、お嬢様」
呼ぶと影の如く付き従っていた従者が、一冊の古い書物を恭しく手渡してくる。
時の王によって焚書された過去があり、今ではほとんど手に入らない貴重な歴史書だ。
現代の歴史家なら誰もが一読してみたいと夢見るだろう、垂涎の一冊だ。
それをダーカンダーク公爵家の人脈と財力を尽くして手配させた。
作法に則りカミュエ手ずから、また気前よくモリーヌに差し出す。
「こちらがお約束したものですわ」
「お……おおっ……本当に手に入るとは! ありがとう、カミュエ嬢! なんとお礼を言ったらよいか!」
「わたくしのささやかな要望を聞き入れてくださった先生への、ささやかな感謝の気持ちです。ご遠慮なくお納めくださいな」
まあ、いわゆるワイロというやつ。
これが地球だったらよほど文明未開の国以外では不正に当たるだろうが、ホライゼンでは「付け届け文化」として平然と横行しているのだ。
「では先生、ご機嫌よう。今後ともよしなに」
一分一秒でも早く読みたいという顔のモリーヌに、カミュエは優雅に会釈してその場を立ち去る。
(エリィ風に言えば、悪役令嬢の面目躍如ってところかしら?)




