第五話 第二王子セシル
月末の全校ダンスパーティーに向け、今日もその準備に勤しんでいたカミュエは、十六時を報せる鐘を聞いて、「ここまでにしましょう」と生徒会執行部員の令嬢たちに告げる。
「皆、今日もよく励んでくれたわね。ありがとう」
副会長の執務机で嫣然と微笑み、ねぎらうと、令嬢たちが一様にうれしそうにする。
また「明日はもっとがんばりますわ」と、こちらがうれしくなることを言ってくれる者もいる。
普段ならこの後もう少し、彼女たちと談笑に花を咲かせたり、お茶の一杯もアーサーに用意させるのだが、今日はセシル殿下との約束がある。
皆への会釈は疎かにせずも早々に立ち去り、中等部の生徒会室へと向かう。
「お待ちしておりました、カミュエ様!」
セシルの方も既に執務を終え、また中等部生徒会の皆を帰宅させたようだ。
一人で待ってくれていて、隣にある応接室へすぐに案内してくれた。
「ふふっ。いつも言っているように、二人きりの時は『義姉』と呼んでくれていいのよ?」
「しょ、承知しました、義姉上っ」
カミュエがいたずらっぽく笑うと、セシルが声を上ずらせながらも素直に呼び直した。
彼の頬が赤く見えるのは、窓から差す夕日のせいでは決してないだろう。
またカミュエも周囲の目がない時は、セシル相手に敬語は使わないようにしている。
未来の義理の弟相手に、可能な限り壁を作りたくなかったし、不貞にならない範囲で親しくなりたかったからだ(ウィリオットのせいで破談になったのは別の問題)。
歴史が物語っている。王太子とその弟王子の関係は、とかく微妙になりがちだ。
こじれにこじれ、弟が兄を謀殺してその地位を奪った例は――唐の太宗をはじめ――決してゼロではない。
逆に王太子が下剋上を恐れ、弟たちを冷遇したり、謀反の嫌疑をかけて処断した例も、枚挙にいとまがない。
カミュエとしては、ウィリオットとセシルがそうなったら大変に困った。
また逆の例として、兄弟仲がすこぶる良好で、次の国王を弟たちが強固に支え、王朝が盤石になったケースも多々ある。目指すべきは無論、こちら。
だからカミュエはまず自分がセシルと良好な関係を築こうと、昔から心を砕いていたのである。
「殿下。今日は時間を作ってくれて、改めてありがとう」
勧められたソファに腰を下ろし、ローテーブルを挟んだ対面にセシルも着席するのを待って、礼を言った。
「い、いえっ。義姉上の仰せとあらば本当にいつでもっ」
セシルはうれしそうな、それでいて慌てているような、内心を推し量りづらい表情で答えた。
でもすぐに神妙な顔つきになって、
「私の方も、義姉上のご用件を伺う前に一言……。兄上がお二人のご婚約を破棄なさった件、私も耳にしました。兄上に代わり、どうか謝罪させてください」
「あら、あなたが気に病む必要はないわ? あれは百パーセント、ウィリオット殿下の暴挙なのだから」
「し、しかし、私からも兄上に口添えして、どうかお考え直しいただくよう説得を……」
「ありがとう、殿下。でもお気持ちだけいただくわ。ウィリオット殿下もどうせ一時の気の迷いだろうし、放っておいても時間が解決する問題と思っているの。逆に周りに何か言われれば言われるほど、かえって意固地になってしまうのではないかしら?」
カミュエは心にもない、もっともらしい理屈を並べた。
「実はもうウィリオットと復縁するつもりはないので、口添えされてもかえって困る」だとか、「ウィリオットは廃嫡に追い込んで、代わりにあなたと婚約するつもり」だとか、本音を言ってもセシルを混乱させるだけだからだ。
幸い弟殿下は素直なので、「なるほど!」と大いに納得してくれた。
兄の愚行で自分の方が気を病んでしまうような優しいセシルの、胸のつかえがとれたようでカミュエとしても一安心。
この件は済んだことにして、本題を切り出す。
「実は今日、モリーヌ先生とお話しする機会があって、それで少し懸念を覚えることがあったの」
モリーヌはセントセレス学園で、歴史を教えている中年教師だ。
貧乏男爵家の四男で、趣味を活かしつつ自身を食わせるために、教職に就いた経歴を持つ。
だからか価値観があまり貴族らしくなく、ぶっちゃけ俗物根性が強い。
ただし前世庶民の記憶を持つカミュエにとっては、モリーヌに貴族の矜持がないからといって嫌悪感はないし、彼の歴史に対する熱意と造詣は本物なのでその点を認めている。
まあ、たとえ軽蔑するような人物だったにせよ、カミュエは生徒会副会長の仕事をやりやすくするため、教師陣全員と良好な関係を築いているわけだが。
一方、セシルはモリーヌの名を聞いて一瞬、笑みを強張らせた。
素直な少年だから、モリーヌに対する苦手意識まで顔に出てしまったのだ。
(セシル殿下は、史学が大の苦手だそうだものね)
エリザベスの話では、セシルは学業も優秀な兄ウィリオットに、コンプレックスがあるという。
カミュエもウィリオットを王太子の座から蹴落とすために、ぜひセシルにはより優れた学業成績を収めて欲しい(というか秘めた才能を開花させて欲しくてウズウズする)。
なので現時点のセシルがどのレベルにあるのか、各教師に聞いて回ったのだ。
するとだいたいの教科で八十点くらいの成績を収めている一方、史学は目も当てられない状況で、テストのたびに赤点スレスレという話だった。
カミュエからすれば、貴族の令息令嬢が遊び半分で通うこのセントセレス学園は、授業レベルも大して高くない。
ウィリオットなどは万事に要領がよく、地頭も悪くないので、ろくに努力せずともテストで九十点台を連発できてしまう程度だ。
逆にセシルの成績がそこそこ止まりなのは、生真面目すぎて要領が悪いのが原因ではないかと、各教諭の分析が一貫していた(エリザベスのゲーム知識通りでもあった)。
だからカミュエがちょっとテストで点を獲るコツみたいなのを教えるだけで、生真面目さが普通に長所となり、すぐに自分同様、百点連発できるようになると考えていた。
その一方で、史学の成績が壊滅的なのは、これはいただけない。
荒療治が必要だ。
「モリーヌ先生が仰るには今度、中等部二年全体で、建国史のテストがあるそうね(本当)」
「は、はい。ですので私もこのところは、史学の勉強を重点的にしております」
「また先生が仰るには昨今、中等部二年生の気の緩みが目に余るから、厳しい試験で引き締めたいのだとか(本当)」
「モリーヌ先生は我が国の未来を憂うという建前で、生徒に意地悪をする悪癖をお持ちですから……」
「うふっ、そういうところがあるわよね。でもだから先生は、『今度のテストで赤点をとった生徒は、留年にする』と仰っていたわ(大嘘)」
「ひっ、そこまでですか!?」
カミュエが顔色一つ変えず嘘をつくと、その赤点をとってしまいそうなセシルは覿面に蒼褪めた。
「大きな声では言わないけれど、セシル殿下は史学が苦手だそうね?」
「お、お恥ずかしながら……」
カミュエが広げた扇子で口元を隠し、実際に小声になって訊ねると、セシルが「このまま消えたい」とばかりに身を縮めて答えた。
「どうして史学だけそうなのか、理由があるなら聞かせてもらえないかしら?」
「そ、それは…………私はセントセレス学園に入る以前から、大勢の学者を教育係として付けてもらっているのですが……」
「ええ、帝王学として当然のことね」
「史学担当のデンケツ先生の授業が、本当に難しくて……。だから史学には昔から苦手意識が抜けず、なかなか身に入らないのです。……王族にあるまじき甘えだと、どうか笑ってください、義姉上」
「笑わないわ。デンケツ先生のことなら、わたくしも存じているもの」
デンケツはこの国でも最高の歴史学者と言われる老人だ。
だから王子の教育係に任じられるのも不思議ではないし、実はカミュエも昔、公爵家に招いて講義してもらったことがある。
それでデンケツの為人を知っているのだが、ちょうどモリーヌとは正反対というか――
上級貴族の生まれでプライドが高く、また権威を重んじる保守的な思想の持ち主で、愛国心は人一倍。
自分にも他人にも厳しく、頑固で融通が利かないところがある。
ホライゼン貴族としては立派な人物の範疇といえるが、およそ人に物を教えるのに適した人間ではなかった。
カミュエの前世における日本と違って、ホライゼンは「教育する側のテクニック」に関して、全く研究が進んでいない。というか、そも行われていない。
おかげで少なくない教師が講義において、ただしゃべりたいことを垂れ流し、生徒側が必死に頭に詰め込むだけ――という授業風景が横行している。
そんな生徒への配慮のなさに関し、デンケツは悪例の極致といえた。
加えてこの「垂れ流し型教育」は、物心がついておらず、まだ論理的な思考が難しい幼少期ほど、弊害が強い。一切身につかないどころか、子供を勉強嫌いにしてしまう。
セシルの入学前からということだから、「十歳より以前に」「この国最高の学者から」「生徒のことなどおかまいなしの高等講義を」「高圧的に垂れ流された」のである。
セシルがどんどん歴史嫌いになっていく様が、目に浮かぶようだった。
(私がデンケツ先生の講義を受けた時は、さすが造詣は当代一流だと思ったし興味が尽きなくて、お父様に頼んでその後も何度か屋敷に招いてもらったけれど……)
それはあくまでカミュエが二歳の時点で既に、前世の記憶を取り戻していたからこそだと、例外中の例外だと、自覚している。
本当の幼少期にデンケツの講義を受けていたら、ためになってはいなかっただろう。
だからセシル一人に原因があるとも、まして甘えとも思わなかった。
「セシル殿下の事情はよくわかったわ。でも、それであなたが留年してしまうことになれば、わたくしも忍びないの……」
カミュエは自分の頬に手を当て、憂い顔になる。
ここまで話をすれば、なぜセシルに会いに来たのか、二人きりでゆっくり時間を作りたかったか、理解してもらえるだろう。
そう、セシルは決して愚かではない。
「は、恥を忍んでお願いしますっ。私を助けていただけないでしょうか! ずっと学年主席でいらっしゃる義姉上に教われば、こんな私でもきっと赤点を回避できるのではないかとっ」
「もちろんよ。セシル殿下のためなら、喜んで」
「ありがとうございます!」
「試験があるのは十日後だったわね? では明日から毎日、放課後に勉強会を開きましょう。もちろん、誰にも内緒で」
カミュエもマンツーマンの方が効果的に教えることができるし、セシルも独力で成績を上げたことにしておいた方が王子としての体面が守れる。
ゆえの提案だ。
「……私と義姉上で……秘密の勉強会……」
セシルはまた赤面し、もじもじしながら、ぼそぼそ言った。
でも、ひどくうれしそうなのは伝わってきた。
(こんなに頼りにされるだなんて、私にとってもうれしいものね。今ままで立派な義姉として振る舞ってた甲斐もあるわ)
カミュエはそう解釈した。
なお勉強会を今日すぐに始めないのにも理由がある。
セシルに読んで欲しい参考図書があるからだ。
「アーサー」
「失礼いたします、セシル殿下。カミュエお嬢様」
カミュエが呼ぶとただちに出入り口のドアが開き、アーサーが恭しくも洗練された完璧な所作で応接室に入ってきた。
「セシルが一人で待っていてくれた」だとか「二人きりで話し合い」だとか「周囲の目がない時」だとかいっても、それは貴族文化の綾というもので、厳密にはお互い護衛を兼ねた従者を必ず傍に置いている。
ただアーサーは言うに及ばず、第二王子のために選りすぐられた侍従も極めて優秀なので、用がある時以外は綺麗に存在感を消して、影の如く付き従っているだけだ。
今だって彼らが応接室のすぐ外で控えていたはずで、だから何用かあれば即応してくれるのである。
「例のものをセシル殿下に」
「はい、お嬢様。ご用意しております」
アーサーが抱えて運んできたものを、ローテーブルに恭しく積み上げた。
書物だ。
一冊、一冊、とても分厚い代物が、合わせて二十三冊。
アーサーは洗練された所作で悟らせなかったが、実際に持てばけっこうな重量のはず。
「あ、義姉上、これは……?」
「全部とは言わないからなるべくたくさん、明日までに読んできて欲しいの」
「こ、これを!? なるべくたくさん!?」
「試験当日までには全て読破してもらうわ」
「…………」
セシルがサーッと蒼褪めた。
心優しい義姉が、まさかスパルタ授業を課してくるとは、覚悟できていなかったのだろう。
(ふふっ、可愛い。でも私の授業は、こっちの人にはびっくりするでしょうね。常識外すぎて)
カミュエは思わず浮かべた人の悪い笑みを、広げた扇子で隠すのだった。




