津留見駅前ビル
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「おう、おはよう。早速でるか」
俺は小金井課長運転のもと、会社を出発した。
「突然で悪いな。ほんとは深山と営業のやつが行く予定だったメーカーのイベントがあったんだが、そいつ行けなくなっちまったらしいんだ」
「それで御手洗さんが急遽代打として白羽の矢が立ったんですね」
「おう、俺がいけばいいんだろうけど、面倒くさいからよぉ」
「御手洗さんかなり嫌がってましたよ?」
「あ、これ内緒で頼むぞー。用があるって言って御手洗ちゃんに頼んだからな」
車の中、小金井課長がハンドルを握りながら言った。
「そうなんですね。まぁ、わざわざ伝えることでもないですから」
(御手洗さんが良かったな。かわいそうに)
「よし、流石は噂の、みっくんだな!!」
「課長の、みっくんは勘弁してくださいよ」
「ガッハッハ!まぁいい、今日は俺と光生、二人でさくっと終わらせるぞ!」
「はい、よろしくお願いします」
──
会社から三十分ほどで現場に着いた。駅から歩いてすぐの場所に建つ、古い雑居ビルだった。先日点検したビルほどではないが、それでも年季を感じさせる外観をしている。
一階は靴屋、二階はネパール料理店と整体、三階は貸し会議室と商工会議所、屋上のプレハブにオーナーの事務所がある。
テナントの入れ替わりが激しいこういった雑居ビルにしては、常に埋まっているらしい。立地がいいのだろう。
「よし、まずは上のオーナーに挨拶行くぞ」
「はい」
エレベーターはなく、移動は階段のみのようだった。課長を先頭に、屋上までの階段を上っていく。
「はぁ……はぁ……こういう時、老体には堪えるな」
「老体って、そんな歳じゃないですよ。肉体ならわかりますけど。大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ。失礼なやつめ。大丈夫じゃ、ない……ちょっと、待て」
踊り場で一度立ち止まり、課長は肩で息をしていた。
「課長、まだ二階ですよ」
「分かってる……分かってるんだよ、光生……それでも男にはやらなければならないことがあるんだよ」
「…休憩のことですよね?」
少し休憩を挟みながら、なんとか四階までたどり着いた。屋上へと続く扉の前で、課長が息を整える。
「ふぅ。時間ギリギリだな。よし、行くぞ」
課長が扉を開けた。屋上に朝の光が差し込んで眩しさを覚えた。
その瞬間。
「うわぁぁぁっ!!」
突如、課長が悲鳴を上げて、その場に尻もちをついた。
「か、課長!どうしたんですか!?」
尋常ではない叫び声に、驚いて慌てて駆け寄る。
課長は真っ青な顔で屋上の奥、手すりのあたりを指差していた。
「い、いま……人が……」
「え?」
俺は慌てて屋上に出て、手すりの方を見た。
だが、そこには誰もいなかった。フェンス付きの手すりが、朝の光の中で静かに佇んでいるだけだった。
「誰もいませんけど……」
「いやちがう!確かに見た!人影が、こう、頭から倒れ込むように……身投げだ!」
課長は震える手で、その場所を指差し続けている。俺は屋上にでて、恐る恐る手すり越しに下を見るが何事もなく、飛び降りたような形跡すら見当たらなかった。
「課長、落ち着いてください。誰もいませんし、下も降りて確認しますか?」
「い、いい!いいから!確認しなくていい!」
その時だった。
「なんだ、朝から騒がしいぞ!近所迷惑になるだろうが」
事務所の扉が開き、恰幅の良い初老の男性が顔を出した。おそらく、ここのオーナーだろう。
「あっ……お、おはようございます!消防設備の点検で伺いました!」
課長が、慌てて立ち上がりながら愛想笑いを浮かべる。だが、顔色はまだ悪いままだった。
「そんなことより、朝っぱらから何の騒ぎだ」
「い、いえ、その……なんでもありません!」
「なんでもないって騒ぎ方じゃないだろう。いい大人が。……ふん、まぁいい。どこか立ち合いは必要か?」
「い、いえ、大丈夫です!お構いなく!」
「そうか?あんたには立ち合ったほうが良さそうに感じるがな。だが儂はこれから忙しいんだ」
オーナーはそれだけ言うと、呆れたように事務所へと戻っていった。
課長は、何も言い返せずにその場に立ち尽くしていた。
「課長……」
「……。行こう、まずは下からだ」
課長は、逃げるように階段の方へ歩き出した。俺はもう一度、屋上の手すりの方を振り返った。
やはり、そこには何もなかった。
──
一階の靴屋まで降りてきた。
開店前でシャッターが半分だけ開いている。店主に挨拶を済ませ、中へと入る。
照明はまだ落とされたままで、店内は薄暗い。棚に並んだ靴の影が、やけに存在感を放って見えた。
「消火器はレジの裏にも置いてあるから覚えておいてくれ。光生は奥の倉庫の方から頼む」
「はい」
二手に分かれ倉庫の中に入っていく。決して広くはないが、棚が多く視界は狭い。そして店舗ゾーンよりさらに暗く、ヘッドライトをつけないと何も見えない。段ボール箱が積み上げられ、埃っぽい匂いが漂っている。
入り口付近と奥の方の二本設置されているので、まず入り口のものから点検を進めていく。
奥の消火器を探しながら、棚と棚の間を通っているとき、ふと視線を感じた気がした。
(……)
振り返るが、視線の先には積まれた段ボールがあるだけだった。
(気のせいか。御手洗さんの数珠もないから今日は何も起きないし)
そう自分に言い聞かせて進むが、その後は何度も同じ場所に視線が吸い寄せられてしまう。
(もう怪奇現象が起きすぎてて、警戒するのが癖になってんのかな。だとしたら最悪だ)
緊張するも、結局何も起きないまま倉庫の点検を終えた。
倉庫を出ると、課長がレジ前でぼーっとしている。一見やる気なくサボっているようにも見えるが、どこか顔色が悪い。
「課長、大丈夫ですか?なにかありました?」
「べ、べべ別に。ぜんぶ気のせいだ」
「ぜんぶ?」
課長には、それ以上は何も聞けなかった。
──
二階、ネパール料理店。
まだ準備中の札が下がっていたが、事前に許可はもらっているはずだった。ドアを開けると、馴染みのない香辛料の匂いがふわりと漂ってくる。
「すみません、消防設備の点検で伺いました」
奥から、店員らしき男性が出てきた。だが、こちらの説明に対して、困ったように首を傾げるばかりだった。
「テンケン?」
「消防設備の点検です。ベルとか、消火器とか」
「ワカラナイ。イマココノヒトイナイ」
「え、あの、責任者の方は……」
「オーナー、イナイ。ワカラナイ」
課長と顔を見合わせる。身振り手振りを交えながら、なんとか点検の許可を得ようと説明を続けた。
「ファイヤー、ケスヤツー」
消火器を指差しながらゆっくりと発音する課長を見て、思わず笑いそうになるのを堪えた。
スマホで翻訳しながら説明してみると、しばらくの押し問答の末、ようやく店員が納得したのか、頷いてくれた。
「オッケー、オッケーハヤク」
「センキュー」
店内に入ると、課長が前回来た時より改装しているらしく、あちこちにまだ工事の跡が残っていた。
奥の、以前はパントリーだったという場所へ入ると、数人の外国人スタッフが集まり、どんちゃん騒ぎをしていた。まるでフェスだ。
店を縮小したのか、以前とは違う場所に間仕切りが増設されていた。
「課長、消火器が見つからないんですけど、厨房とパントリーって書いてあるのですが」
課長と一緒に探すが、消火器どころか、消火器の場所を示す標識板も剥がされてなくなっていた。
「消火器ねーな。いないはずのココノヒトはパーティーしてんのにな。ホントイライラするわー」
課長が眉をひそめて嫌味をぼそっと言う。
「非協力的なニホンゴワカラナイ人にどうやって説明しろってんだよ……」
点検表に、次々と指摘事項を書き込んでいく。改装工事の影響で避難経路にも資材が積まれていて、それも合わせて指摘することになった。
結局、この階だけで通常の倍近い時間がかかってしまった。
──
同じ二階の整体は、施術中の患者に配慮しながら手早く終わらせた。特にこちらは変わったこともなく、拍子抜けするほどあっさりと点検は終わった。
──
三階、貸し会議室と商工会議所。
会議室は今日は使われていないようで、点検はスムーズに進んだ。
問題は商工会議所だった。消火器は一本だけしかないので、サクッと終わらせる。
「課長、消火器おわ――」
ジリリリリリリリリ!
突如触れてもいないベルが鳴り始めた。
「え?」
「いや、押してないぞ!」
課長と、慌てて入り口の非常警報器具へ向かう。
見てみるとボタンが押されていた為、復旧の操作をしたらベルが止まった。
「突然、申し訳ございません……誤作動のようでして」
職員の一人が、怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「押してないのに鳴ったんですか?」
「いえ、はい。その、たぶん機械の不具合かと……」
課長が、しどろもどろになりながら謝罪する。まだ経験の浅い俺に分かる範囲で確認してみたが、何も異変を感じなかった。
(……なんで鳴ったんだ?)
いくら調べても、原因は分からなかった。結局、原因不明のまま、平謝りしてその場を後にすることになった。
商工会議所を出て、階段を降りながら、課長がぼそりと呟いた。
「なぁ、光生」
「はい」
「誤作動ってさ、配線とか故障が普通なんだよ。いたずら以外でボタンが押されてるってなんだよ」
「……そうですよね」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
──
最後は、また屋上だった。今度は点検のためだ。
朝の一件があったせいか、課長の足取りは重く、そして少しの苛立ちが見て取れた。
「課長、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないが、やるしかないだろう」
屋上に出る。朝と変わらず、静かな景色が広がっていた。手すりの向こうに、街並みが見渡せる
ふと、手すりのあたりに目をやったが誰もいない。当然のことだが。
だが、なぜかさっきの課長の悲鳴が、耳の奥に蘇ってくる気がした。
(「いま……人が……手すりから……」)
(ジョークにはとてもじゃないが見えなかった)
そう思いながら、屋上の消火器の点検を終える。
「終わりました」
「あぁ、こっちも終わったぞ」
課長は、オーナーの部屋の消火器を点検し終えて出てきたが、まだどこか落ち着かない様子だった。
「課長、朝のことなんですけど」
「……」
「本当に、見たんですか」
課長は、しばらく黙っていた。それから、諦めたように息を吐いた。
「あぁ、見た。確かに見たんだ。人影が、手すりから下に向かって落ちていくのを」
「……」
「でも、誰にも言うなよ。特に御手洗には」
「なんでですか」
「あいつに言ったら、絶対に数珠のおかげとか言い出すだろ。今日のは、そういうんじゃない気がするんだ。つーか数珠ここにないしな」
その一言が、妙に引っかかった。
(数珠のせい、じゃない……?)
課長は、それ以上何も言わずに、道具をまとめ始めた。
帰り際、もう一度屋上を振り返る。
手すりの向こう、朝と同じ静かな景色が広がっているだけだった。




