旅籠 篝火屋 後編
「じゃ、午後は厨房と地下だね。私もついてくからねっ」
「午後は脅かさないで下さいね」
そんな軽口を叩いているうちに休憩が終わった。小金井課長と深山さんは蔵の点検に先に向かうということで、俺と御手洗さんは厨房へと足を向けた。
──
厨房は、業務用の設備がずらりと並んでいた。大きな寸胴鍋、使われていないコンロの列、天井から下がる換気扇。だが、火が入っていないせいか、やけに冷えた空気が漂っている。
「ここ、もう調理はしてないんですかね?」
「うん。今は仕出しを頼んでるみたいだよ。昔は、ここで板前さんが何人もいたんだって」
厨房の消火器と感知器を確認しながら、奥へと進んでいく。奥の壁際に、下へと続く階段があった。
かなりの急な階段だが手すりは無く、明かりは階段の途中までしか届いていない。
一段一段、下りるごとに空気が変わっていくのが分かった。ひんやりとした、湿った感じの匂い。土と、古い木材と、それから何か分からない匂いが混じっている。
「なんか、空気重くないですか?考えすぎですかね」
「いや……そう感じるよ」
いつもならもう少し軽口を挟んでくる御手洗さんが、短く答えるだけだった。
幅の狭い階段を下りきると、そこは思ったより広い空間だった。かつては食糧庫か貯蔵庫として使われていたのだろうか、木製の棚がいくつも並んでいる。そのどれもが空だった。
(がらんとしてる…もうほんとに何にも使ってないんだな)
黙々と設備を確認していく。そして奥へ進むほど、誰かに見られているような感覚が強くなっていく。振り返っても、当然そこには誰もいない。
(仕事を、終わらせよう)
自分に言い聞かせながら、最後の感知器の発報を確認する。
隣を見ると、御手洗さんが棚の一角をじっと見つめたまま、動かなくなっていた。
「御手洗さん?」
「……あ、おわった?」
いつものにまにました表情がない。顔色も、心なしか青白く見えた。
「な、なんかあります?そこ」
「ううん……なんでも、ない」
それ以上は聞けなかった。御手洗さんがこんな顔をするのを見るのは、初めてだった。
──
地下を出て、暗く長い廊下を通って蔵へと向かう。廊下の照明は等間隔についているが、電球が切れているのか、ところどころ暗い区間があった。
その暗い区間の一つを通り過ぎたとき、廊下の一番奥の曲がり角に何かがいたような気がした。
(……?)
足を止めて目を凝らす。だが、瞬きをする間に、そこにはもう何もなかった。
「どうしたの?」
「あ、いや……なんでもないです」
二人とも、口数が少なくなっていた。
──
蔵の前に着くと、既に点検を終えたらしい小金井課長と深山さんが外に出てきていた。
「おー、遅かったな。地下でなんかあったか?まさか、またイチャイチャしてたのか?」
「いや……何も、なかったです」
ふざける小金井課長に何かを伝える気も起きなかった。とりあえず今日は一刻も早く仕事を終えたい。
御手洗さんも、何も言わなかった。
「蔵は俺らで終わらせておいたぞ。経験のためだ、光生君も感知器確認しといてくれ。見るだけでいいからな」
「あ、はい。すぐ済ませます」
「道具は片付けておく。急がなくていいから、貴重品壊さないようにな。御手洗さんは事務所に置いてある試験器もってきて」
「わかりました。みっくん、気をつけてね」
──
小金井課長たちと入れ替わるように、蔵の中へと入る。
重そうな扉は常時開いてあるようだ。一歩踏み込むと埃と古い木の匂いが鼻をついた。
中には古い家具や道具、書物、それから《《顔のない》》古そうな人形がいくつも並んでいる。
(思ったより天井高いんだな。これ、階段急すぎるだろ)
黙々と報知器の位置を確認していく。二階へ続く梯子のような階段を上り、蔵の二階部分も一通り見終えて、扉に向かって戻ろうとした、その時だった。
――……ぇ……
(……何か聞こえた)
ドキンと心臓が脈打った。立ち止まって耳を澄ます。もう一度、同じ音がした。
それは小さく、掠れた声だった。人の声のようにも、木が軋む音のようにも聞こえる。
(気のせいかもしれない。でも、確かめないと今後もう二度と入れないぞ)
――ザザッ、ザザザ
無線から音がした。電波が届かないのか、聞き取れない。
俺は声のした方へ、ゆっくりと近づいていく。
薄暗い照明ランプの光が届かない、棚の一番奥。
大きな位牌のようなものを抱えた、古い日本人形が置かれていた。
目は硬く閉じられている。だが、声はやはりそこから聞こえた気がした。
しゃがみ込んで、人形の顔を覗き込む。
(……なんだろう、なんか)
立ち上がろうとしたそのとき。
――がしっ
足首を、何かに強く掴まれた。
驚いた拍子にその場でバランスを崩し、そのまま背中から仰向けに倒れてしまった。
ガシャーン!!
(痛っ!)
近くにあった何かが倒れる音と共に、後頭部に鈍い衝撃が走った。
意識が朦朧とし薄れていく中、視界いっぱいに、さっきの位牌を抱えた人形の顔が近づいてくるのが見えた。
(なん、なんだ よ)
どんどん、どんどん、膨れるように顔が大きくなっていく。ヒビ割れた顔の隙間から、赤黒い液体がドロドロとこぼれ落ちる。
そして、その人形は手にしていた位牌を勢いよく振りかぶり――
──
――っくん……みっくん!!!
誰かが呼んでいる。目を開けると、すぐ近くに泣きそうな御手洗さんの顔があった。心配そうに覗き込んでいて、いつもよりずっと近い距離だった。
(……近い)
場違いなことを思いながら、状況を思い出そうとする。
「う、ん……何が」
「無線しても返事ないし、何だか嫌な気持ちがして、見に来たんだよ。そしたら倒れてて…」
後で聞いた話では、御手洗さんは道具を運び途中、なんとなく嫌な気持ちが拭えず、小金井さんたちに「ちょっと戻ってくる」と断って、一人で蔵へ引き返してきたらしい。
そして無線を入れても返事がなく、小走りで蔵の入り口までたどり着いたところで、中から「ガシャーン」という音を聞いたのだ。
「あ……あー、なるほど」
「……動けそう?」
上体を起こそうとすると、お腹の辺りに何か貼りついているのが見えた。
「なんだこれ?」
俺の視線に気がついた御手洗さんが、そっと古い札を剥がしてくれた。倒れた拍子に、どこかから落ちてきたのかもしれない。
「……お札だね。それは数珠の親戚だよ」
「おぉ…親戚でしたか」
冗談めかして言ってはいたが、剥がす時のその手つきはやけに丁寧だった。
「念のため病院行こう?点検はもうほとんど終わりだから」
無線で事情を伝えると、小金井課長が『分かった、光生は病院優先で』とすぐに返してくれた。
──
一番近い病院で診てもらった。
検査は、全く異常なしという結果だった。ほっとしながら検査着を脱いでいると、足首に違和感があることに気づいた。
見ると、くっきりとした手の跡のようなアザが残っている。
(……これ、掴まれた時の。気の所為じゃなかったのか)
俺は隠すように急いで靴下を履き、車で待ってくれている御手洗さんの元へ戻った。
──
「御手洗さん。少しだけ旅館に顔を出していいですか?」
「え?ここから近いからいいけど。でももう課長は挨拶して、会社へ帰っちゃってるよ?」
「女将さんに謝りたくて。すみません」
「そっか。…じゃあ一応電話してみるねっ」
御手洗さんが電話してくれてすぐに旅館に戻ると、女将さんが申し訳なさそうに何度も頭を下げてきた。
「申し訳ございません……暗いし物が多くて。お怪我が大したことなくて本当に良かったです。ところで……蔵の中で何があったのでしょうか?」
「何か音がした気がしたんですが……確認しようとしたら転んでしまいまして」
「そうですか……」
俺は咄嗟にごまかしてしまった。
「壊れたものは特に大事にしているものではございませんでしたので、気になさらないで下さいね」
「そう言っていただけると助かります」
その後軽く雑談を交わしたあと、帰り支度をしていると、女将さんがふと思い出したように付け加えた。
「そういえば……あちらの灯り、見ませんでしたでしょうか?」
「……あちらの、灯り?」
朝、御手洗さんから聞いた話を思い出す。対岸の山に灯りが並ぶという、あの話がすぐに過った。
「いえ、何も見てないですけど……」
「そうですか。それなら良かったです」
女将さんはそれだけ言うと、それ以上は何も語らなかった。
車に乗り込む直前、ふと蔵のある方角を振り返る。
窓の外、遠く対岸の山の中腹に、小さな灯りが一つ、揺れているのが見えた気がした。
(……あちらの灯り?)
瞬きをすると、そこにはもう暗い山があるだけだった。




