旭ヶ丘団地
「団地は世帯数多いから、四人いてもそんな余裕ないんだよねぇ」
御手洗さんがぼやきながら、点検表をめくる。今日は俺が入社後初めての四人体制だった。御手洗さんと俺、そしてもう一班のリーダーである小金井課長と深山さん。
「三棟もあるんですね」
「おう、がんばってな」
小金井課長は小柄な体を揺らしながら、軽く背を叩いてきた。マスクの上からでも、ちょび髭を隠しているのが分かる。会社に見られると怒られるらしい。
隣に立つ深山さんは、何も言わずに腰道具を装着していた。茶髪のロン毛が風で揺れる。茶髪も怒られるはずらしいのに深山さんは怒られないと小金井課長が怒っていた。
上背もありツリ目のせいか、ただ立っているだけで少し怖い。まだ挨拶くらいしか接点がなく、正直かなり緊張していた。
「今日の団地はねぇ、古い建物だから火災報知器がついてないんだよ?」
御手洗さんが説明を始める。
「え、そうなんですか」
「うん。大幅な改築とかがなければ、昔の基準のままでいいことになってるからね。だから、各家の玄関にベルがついてるの」
ゆっくりと分かりやすく御手洗さんが教えてくれる。
「押しボタン式のやつな。それを押すと、その階段の上から下まで全部一斉に鳴るようになってるんだ。だから、各階が連動してるかを確認するには最低でも三人必要なんだ」
小金井課長が横から補足し、さらに話を続ける。
「例えば一階のボタンを押したら、二階でもちゃんと鳴ってるか確認しなきゃいけない。部屋の外の階段にもベルがついてるから、それも聞かなきゃいけない」
「なるほど…人の家の中にはいるんじゃ大変ですね」
「光生くんは下、深山は上。御手洗さんは階段でベルの音、聞いといてね」
「はーい」
「俺は先に消火器やっつけちゃうから、みんなよろしくな」
小金井課長はそう言うと、刷毛と雑巾を手に、一人で歩いていった。
――
一階の一番奥、一〇一号室。
玄関をみて俺は足を止めた。
(ここ……)
「ここね、二年前に火事があったところ。結構デカデカとニュースになってたからしってる?」
深山さんが、静かに言った。
「いえ。しりません」
「クリスマスの朝方。四十代の夫婦が心中したみたいで、火をつけたんだよ。幸か不幸か…子供は生き残ったみたいだけどな」
「……そうなんですね」
「RC造だから躯体は問題なかったらしい。でも、誰も住めるわけないから、そのままみたいよ。買い手も付かないだろうから売れないし、子供もわざわざ直して一人で住まないだろ。要するに、当分このままってわけ。はぁ」
玄関の前に立つ。玄関ドアから黒煙が溢れ出した痕跡が壁の上部に残っていた。鍵は壊れていないようで、借りた鍵で簡単に開いた。
中に入った瞬間、鼻の奥が焦げた匂いでいっぱいになった。二年経っているはずなのに、まだまだ匂いが残っている。
玄関とは反対のベランダ側の部屋で火災があったようで、玄関からは中の様子は伺えなかった。ただ、それでも見える範囲では床も焼け焦げ、天井の一部はぽっかりと穴が空いていた。
玄関のすぐ横、非常警報器具は指摘事項となるために組合の方で修繕したようで、真新しいものが元の位置についている。
(これを、押すのか)
緊急時以外は押してはいけないものという先入観がある為、少しの緊張があったが強くボタンを押した。
――ジリリリリリリリ!
けたたましいベルの音が、焼け跡の中に響き渡る。無線から深山さんの声が入った。
『四階、確認。こっちも押すからベル聞いといて』
「あ、了解です…」
ボタンを戻し音を止めて、深山さんが鳴らしたベルを確認する。
最近の癖で、ドアノブを握ったまま、つい後ろを振り返ってしまった。
視線や気配を感じてしまう気がするのだ。
逃げるように外に出ると、今度は中を見ないようにして、玄関を閉めた。
――
二階に上がると、二〇一号室の住人らしき中年の女性が、ちょうど廊下に出てきていた。
「あら、点検?ご苦労様」
「お世話になります」
「入ったの?一階」
「はい、点検なんで…はいらないといけないので」
「大変よねぇ。うちなんて、未だにふとした時に焦げ臭いのよ。窓開けても取れないし、物を動かしたり、雨が降ったりすると臭うの。引っ越したいけど、お金ないしねぇ。いい加減に気が狂いそうだわ」
女性はため息をつきながら、部屋の奥を指さした。
「あの時の消火の水で、うちの床もびしょびしょになったのよ。上の階だってのに。ひどい話でしょ?賠償もできないって」
「それは……大変でしたね」
愚痴に相槌を打ちながら、俺は点検を進める。この階のベルも問題なく鳴った。
――
黙々と点検を続けていき、二棟目を点検していた。
三階、三〇五号室。インターホンを押すと、しばらくしてから、痩せ細った高齢の女性が顔を出した。
「点検の……方?」
「はい、消防設備の点検で伺いました。少しだけよろしいでしょうか」
「ああ、いいわよ。どうぞ入って。スリッパ出すわね」
「あ、いえ、玄関までなので大丈夫ですよ」
玄関はきれいに片付いていた。ただ、女性の目だけが気になった。俺の方を見ているようで、少しだけ焦点がずれている。まるで、俺の後ろの何かを見ているような。
「……ねぇ、あなた」
「はい?」
「ついてくるのよ」
「え?」
「ずっと。トイレに行くと、トイレに来るの。お風呂に入ると、お風呂にも来る。ベランダに出ると、ベランダにも」
女性は淡々と話し続ける。怖がっている様子はない。ただ、疲れているようだった。
「玄関を出ると、玄関にも来るのよ。だから、私、もうどこにも行けないのよ」
「誰が来るんですか?」
「上の階の人。ずーっと私の移動先についてくるの。もう怖くて怖くて。どうしたらいいのかしら?どこかに相談したほうがいいのかどうか。でも怖いじゃない?気付かれて逆恨みでもされたら何されるか」
「……それは、あの、いつ頃からですか」
断ることもできず、俺は聞き返してしまった。女性はそれから、同じ話を何度も繰り返した。トイレに、お風呂に、ベランダに。俺はただ相槌を打ち続けた。時計を見る余裕もなかった。
「ほんとよ?うそじゃないの。でもどうやったら分かるのか…盗聴器とかかもしれない。少し声小さくしてもらえる?聞かれたらたまったもんじゃないわ。ほら、いま!音したじゃない?玄関にいるのわかると玄関に来るの。」
『光生?』
(やばい。完全に捕まった。深山さん待ってるよな)
『深山さんすみません、少し住人の方に相談をさ「ほら!聞こえた!わかる?これであなたが帰って私がリビングにいくと――」すみません、すぐ終わらせます!』
深山さんからの無線になんとか返事をするが、「ごめんなさい、作業中でして」の一言を挟ませて貰えずに、その後も数分「そ、そうですか」と返答しまっていた。
するとしばらくして、コンコンと玄関の外から音がした。
「失礼します」
深山さんがノックして、入ってきた。
「問題は?」
「あ、ありません。ベルもオッケーです」
「そう。では、失礼しました」
「あら、ついつい話が長くなっちゃったわね。ごめんなさいねぇ。その人には話ししたんだけどねぇ、ちょっと、上の階。やばいのよ…わたしがトイレに」
「すみません。点検中ですので、これで失礼致します」
そう言うと深山さんは俺を押し出しながら外へ出て、扉を閉めた。少しばかりクールで強引だが、とても頼りになる先輩だ。
上の階は深山さんが終えているから、この系統は終わりなので階段を降りていく。
「すみません、遅くなってしまって。なかなか話を切るタイミングがみつからなくて」
「あぁ、そのうち慣れる」
俺が謝ると、深山さんはちらりと横目でこちらを見たあと、すぐに前を向いてクールに答えた。
(この人、絶対モテるだろ!)
――
ようやく最後の鳴動確認をする。階段の外からも、御手洗さんの声で「聞こえたよー」と返ってくる。
深山さんは俺たちに構わずスタスタと先に降りていってしまった。
「これで全部終わりですね」
「そうだねっ、お疲れさま」
階段を降りきったところで、ふと向かいの一棟目のベランダに、ふと目が留まった。
誰かが手を振っている。小柄な体格。
(あ、課長か)
軽く手を振り返す。
「御手洗さん、あそこ、小金井課長が手を振ってますよ」
「ん〜?ほんとだぁ。でも、なんでベランダにいるんだろう」
御手洗さんが不思議がりながらも、振り返そうと手を上げたその時。
「おつかれさーん。こっちも終わったぞー」
背後から、小金井課長の声がした。振り向くと、課長は集会所の方から、掃除用の刷毛を手で遊びながら、のんびり歩いてくるところだった。
(は?)
「なんだその顔は!サボってたわけじゃないぞ!集会所にも消火器はあるし!少し座ったけどもだな」
(じゃあ、さっきの、あそこにいたのは)
慌ててバッと振り返り、もう一度向かいの五階のベランダを見るが…そこにはもう誰もいなかった。
隣を見ると、同じく慌てて振り返って見上げていた、御手洗さんと目が合った。
「じゅ……数珠のおかげ…かなぁ?」
少しひきつった笑顔で御手洗さんがおどけてみせた。
「完全に…数珠ですね」
「だよね!数珠ちゃんやる〜」
それを聞いた御手洗さんは、花が咲くようにぱっと嬉しそうに笑った。現金だなと思う反面、それどころではないと思ったが、口には出さなかった。
「課長〜」
「ん?」
御手洗さんが、静かに小金井課長を見た。
「今、あそこのベランダにいましたよね」
「は?」
小金井課長が、あからさまに顔をこわばらせる。
「な、なに言ってんだ?そんなわけないだろう」
そう言いながらも、小金井課長の視線は五階から離れなかった。
(怖いのはこっちだっての)




