黒山医院
「おはよー」
「おはようございます」
御手洗さんは朝から朗らかに笑っている。目元は少し眠そうだけど。
会社の車に乗り込み、エンジンをかけた。
──ETCカードが挿入されています
「カードよし。では、出発しますね」
車内から御手洗さんが、リモコンで車庫のシャッターを閉めてくれたのをミラーで確認し、現場へと向かう。
「光生くん、今日早出だったから眠いでしょ?」
「いえいえ、全然大丈夫です」
「偉いねぇ。私は眠いです」
「御手洗さんは俺のことを「みつお」と呼ぶ。だが本当の名の読み方は光生だ。
入社時に御手洗さんは間違えて「みつお」と読んだ。それ以来、御手洗さんにはずっと「みつおくん」と呼ばれている。
俺も最初、御手洗さんの事を「おてあらいさん」かと思ってしまって、危なく声に出す寸前だったのは内緒だ。
──
高速道路のETCを通過する。
下り方面に数十分進んでからは、山道をひたすら下道だ。
「現場はねぇ、かなり山奥の方だよん」
「昨日マップで見ました。結構遠いですね。病院ですよね?」
「んー、医院だから、正確に言うとちがうかな。ベッドの数とかで決まるらしいよ?」
そんな話をしているうちに、現場へとついた。
医療法人〇〇会 黒山医院。
造り替えられたのか、看板はわりと新しいが、建物はかなり古そうだった。
周りは山々に囲まれていて、駐車場から見える景色は緑ばかり。都会の雑居ビルとはまったく違う静けさが、逆に落ち着かない。
「熊出そうですね」
「出るかもね。ここは外に消火器ないから、一人で外をうろうろしちゃだめだからね。先に挨拶してくるから準備よろしくにゃ〜」
「はい」
点検の為にわざわざ休日出勤してくれている担当者の看護師さんに挨拶が終わり、俺たちは建物の中に入る。
待合室はとても明るく、普通の医院然としていた。それが逆に、二階への不安を打ち消してくれる。
「上からはじめよっか」
「はい」
荷物を持ち、階段を上がっていく。踏むたびに軋む音がして、一階の明るさが遠ざかっていくのが分かった。
「光生くんは西側からよろしくね。私は地下室とか院長室とか、立ち合い必要なところから先に終わらせてくるからねぇ。地下室の消火器はやっておくから、無線だけ入れ忘れないでね〜」
「はい、ありがとうございます」
御手洗さんと二手に分かれる。
(わざわざ二階まで説明の為だけにきてくれたのか。御手洗さんは本当に面倒見がいいな。優しさが顔から零れ落ちてるもんな)
今回も素人の俺は、消火器の点検を始める。2階は入院用のフロアだったらしく、扉の閉まった病室がずらりと続いている。
どの部屋も暗く、昨日の今日で覗き込む勇気は湧かない。
しばらく点検していると、無線が入る。
『光生く〜ん。とれるかなー?』
「はい、どうぞ!」
『数珠がねぇ、ぴりっとしたの。きをつけてねぇ』
(ぴりっ?昨日みたいなことか?)
「り、了解です」
『ひたひたくんじゃなく、ぽきぽきくんならいいのに。ポッキーくれるの。なんてね!』
「いや、響きが怖いですよそれ」
『そうかなぁ。でも、ほんとに怖くなったらお姉さんに無線いれるんだよぉ!ではではよろしくねっ』
「…了解しました」
無線が終わり、辺りはシーンと音がしない。
「まじかよ…もう、ああいうのは御免だぞ」
それ以降は全く点検に集中できなかった。昨日の「ひたひたくん」のように突然現れるのではと、背後が気になって仕方がない。
(たのむ。なにもでないでくれよ…こわすぎだろ!)
そうこうしているうちに、二階の消火器は残り一本になった。点検表を確認すると、二〇一号室前廊下となっている。
(二〇五、二〇三、……)
いくつか部屋を通り過ぎ、消火器の前へとたどり着く。すると、そのとき。
――ガラガラッ
突然部屋から人が出てきた。
「うおっ!」
「はっは。なんだ、幽霊でもみたような反応しおって」
出てきたのは、寝間着姿の老人だった。好々爺然としている風貌で、痩せた体に、皺だらけの手。焦った俺を見て、ドッキリが成功したかのように、にこにこと笑っていて、悪意のようなものは一切感じない。
ただの普通の入院患者だった。
(び、びびったぁ)
「すみません。患者さんがいらっしゃるとは思っていなかったので、つい。昨日心霊現象にあってしまって、過敏になってしまっているようです」
「心霊現象か。確かにそういうこともありはするからなぁ」
「え、あるんですか!?」
「あるにはあるな。あ、黒山医院のことではないぞ?だが、ここいら辺りでいえば、古くからヤマノケが住んでいるという。ソレが降りてきてしまったらそりゃ大変だろうな」
「ヤマノケ…ですか」
聞いたことのない名前だった。だが老人の口調は、ただ作り話をして脅かしているような雰囲気ではなかった。
「儂も若い頃、一度だけ見たことがある。山の際に、人よりずっと大きい影が立っておってな。顔はのっぺりして、何もない。だが、こっちをちゃんと見ているのが分かる」
「目がないのに見てる……感覚的なことですか?」
「そうだ。目がないのに、じーーーーっと見られているのが分かる。あれほど嫌なもんはない」
老人は懐かしむように、窓の外の山を見やった。
「暗くなる前に帰れ。あまり長居していると、腕を掴まれて連れていかれるぞ」
「え」
「儂の連れも、そうやっておらんくなった。山菜採りに出たまま、帰ってこんかった。熊じゃないぞ」
冗談には聞こえなかった。喉の奥が急に渇いた気がした。
そのとき、無線機から声が聞こえてきた。
『光生くーん、おわったぁ?』
「あ、はい、もう終わります」
老人に頭を下げて立ち去る。振り返ると、老人はまださっきと同じく窓の外を見つめたままだった。山から帰ってこなかった人のことを思っているのだろうか。
(連れって誰だろう。聞けるわけないけど)
――
一階に戻ると、御手洗さんが道具をまとめていた。
「数珠ピリッとしたの、勘違いだったみたい。ごめん」
「そうなんですか?」
「うん、地下の機械室で軽く手が当たってショートしてたみたい。地下の設備はみんな生きてないって聞いてたから油断したよぉ。おばけ見なかったし」
「感電!?大丈夫なんですか?」
「ピリッとしただけだから、無問題だよー」
「そうですか。ほんとに怪我がなくて良かったです」
「ありまとねぇ。じゃ、帰ろっかぁ」
看護師さんに挨拶を済ませて、車に戻り片付けをする。
荷物を載せながら、俺はさっきの老人の話を御手洗さんにした。
「二階にいた患者さんに、ヤマノケっていう怪異?の話聞いたんですよ。山菜採りにいった連れが誘拐されて帰らないらしくて。ほんとなら可哀想ですよね」
「あ、そうなんだ。やっぱ数珠すごいよねぇ」
(数珠?)
「しかもそのおじいさん。若い頃、一度だけヤマノケ見たことがあるとかで。人よりずっと大きい影が立ってて顔はのっぺりしてるって」
「へぇ」
御手洗さんは腰道具を外しながら、軽い相槌を打つ。
それから、思い出したように言った。
「光生くん。あのねぇ、入院はかなり前からもうやってないよ?」
「……」
「高齢化だしー、入院患者は大きい病院に連れて行かれるから、ほとんど人こないらしいよ。外来だけは、地域の人の為に細々とやってあげてるみたいだけど」
「……え?」
「先生も高齢だからねぇ。二階はもう何年も前にベッドも撤去しちゃってたし。今日も感知器の点検で全部のお部屋入ったけど、って…あれ?光生くん、汚れちゃってるよ」
御手洗さんが俺の腕を指さした。
「…………は?」
そこには、手首を掴んだような手跡がくっきりと残っていた。
「よし!忘れ物はないかな?今日はもう終わりだから、汚れた作業着は脱いじゃってもいいからね。じゃあ帰ろっか〜!」
俺は現場を振り返らず、いそいそと車に乗り込んだ。




