見たことのある夢
最初に浮かんだのは、手だった。
小さな、自分の手。
今よりずっと小さくて頼りない指。その手を誰かが強く握っている。
(母さんだ)
ここは海辺で父さんと母さんに連れられて、砂浜を歩いている。
「ねぇ、母さん見て、貝殻ひろったよ」
「あら、綺麗な貝殻ね」
母さんは優しく微笑み、父さんも暖かい表情でそれを黙って見ていた。
波は穏やかだった。
けれど沖の方でいくつもの手が伸びているのが、はっきりと見えた。
白い細長い手。
海面付近で肘から先を出して、こちらへ向かってひらひらと手を動かしている。
「ねぇねぇ、母さん見てー」
俺は、母さんの服の裾を引っ張った。
「海にいっぱい手があるよ。手招きしてる」
母さんは、すぐには答えなかった。
握っていた手が、ぎゅっと急に力が込められた。
「見ちゃだめよ」
「でも、あそこに――」
「だめなの!」
母さんの声が、砂浜に響いた。
海の手は、まだ動いていた。
波に合わせて揺れているのではない。
こちらを呼ぶように、同じ動きを繰り返していた。
──
次は夜の自宅だった。今度は一人だ。
二階の自室で布団に入る前、ふと窓の外を見た。
すると、窓の向こうに人が立ち、こちらをじーっと見下ろして観察している。
背丈は家の屋根よりも高いだろう。頭が二階の窓より上にあった。
顔は暗くて見えない。けれど、窓の上部からこちらを見ていることだけは分かった。
「ねえ、母さん」
一階へ降り、台所にいた母さんへ声をかける。
「窓の外に、おっきな人がいるよ」
食器の触れ合う音が止まって、水だけが流れ続けている。
母さんは、しばらく返事をしなかった。
やがて、こちらへ歩いてくると二階へ上がった。
「カーテン、閉めるね」
「でも、あの人がこっ――」
「見なくていいの」
母さんは窓に近づくと、外を確認することもなくカーテンを閉めた。
布が閉じる直前、それに合わせて窓の向こうで大きな影が少しだけ首を傾けた。
そしてまるで、こちらの声が聞こえたみたいに喋りかけてきた。
――焼きだんごぉが、やぁけたよ
──
また視点が切り替わった。これは夢なのだろうか。
次は車の窓から、流れ行く穏やかな田んぼを見ていた。運転手は父さんだ。
夕方の田んぼは、風に揺れる稲穂でいっぱいだった。この景色が綺麗でいつも眺めるのが大好きだった。
その稲穂畑の中に、細い白いものが立っている。
人のようにも見えたけれど、頭らしきものがなかった。
白いのが、稲の間からまっすぐ伸びている。
「父さん、田んぼに白いのがいる」
運転していた父さんの肩が跳ねた。
「どこだ」
「ほら、あそこ、揺れてるよ」
指を向ける。
白いものは、稲穂の向こうでゆっくりくねくねと揺れていた。
風は車の横を通り過ぎていく。
稲穂も風に合わせて揺れていた。
白いものが歩いている。
足は見えない。
稲穂の上を、滑るようにこちらへ近づいてくる。
「まずいな、声を上げるなよ」
父さんが言った。
今度は、怒鳴らなかった。
あの白いものに見つかりたくないのか、声がひどく小さかった。
「父さん、追いかけてきてるよ」
──
そうだ。
いつも、そうだった。
見つけるたびに、父さんと母さんは顔を強張らせた。
見てはいけないものなのだと、子ども心にも分かっていた。
それでも、見えてしまう。僕は何もしていないのに勝手に向こう側からやってくる。
海の手も。
窓の外の大きな人も。
田んぼの白いものも。
他にもたくさん、毎日必ずと言っていいほど。
でも、いつか見たあれだけは別だったのかもしれない。
「おいで」と言われて、逆らえなかったから。
──
また意識が変わった。
今度はどこかの廊下を歩いていた。
見慣れた大きな手が、俺の手首を握っていた。
太い指の関節は硬く、伸びた爪の先が鋭くて、握られるたびに皮膚へ食い込んでくる。
「はやく来い」
とても低い声だった。焦っているのも伝わってきた。
(また父さんだ)
急かされるまま、父さんに付いていくため暗い廊下を走っていた。
床は木製で、素足の裏に木目のざらつきが伝わってくる。踏みしめるたび、廊下がぎし、ぎし、と軋んだ。
「絶対に、後ろを見るな」
「なんで」
「見るなと言っている!!」
父さんの手に、さらに力がこもる。
振り返りたい衝動が、腹の底から込み上げてきた。背後で何が起きているのか、確かめたくて仕方がない。
けれど、握られた手首は離されなかった。
背後から、何かが近づいてくるのがわかる。
それは足音ではない。
ずり、ずり、と、濡れたものを床に擦りつけるような音だった。
木の床を這い、こちらへ向かってきている。音の割に移動している速度が速く、走らなければならなかった。
その音がするたび、背中の皮膚が粟立ち背中がむず痒いような気持ちの悪さがあった。後頭部がじりじりと熱い。
「父さん、うしろ――」
「見るなと言ったんだ!!」
怒鳴り声に体が竦む。
その瞬間、視界がぶつりと途切れた。
──
次に見えたのは、白い布だった。
視界いっぱいに広がる白。その向こうで、ぼんやりとした灯りが揺れている。
自分がその布の下にいることに、少し遅れて気づいた。
頭からすっぽりと、何かに覆われている。
布が鼻と口に張りついていた。息を吸うたび、湿った繊維が唇に触れる。吐いた息が内側にこもり、布の中だけがじわじわと熱くなっていく。
「動いちゃだめよ」
母さんの声だった。
優しいはずの声が、今はひどく強張っている。
「絶対に、目を開けちゃだめ」
「どうして?くるしいこれ」
返事はなかった。
代わりに、周囲から低い声が重なり始める。
ひとつではない。男の声も、女の声も混じっているように聞こえた。言葉の形はあるのに耳に入ってこない。
低く唸るような声の合間に、鈴が鳴った。
チリン。
その音だけが、妙にはっきりしていた。
チリン。
(この音、知ってる)
どこかで聞いたことがある。
チリン。
けれど、いつのことなのか思い出せない。
布の下で息を殺していると、顔のすぐ近くを何かが通り過ぎた。
頬に、冷気が触れる。
氷を押し当てられたような冷たさだった。布越しなのに、皮膚の奥まで冷たさが入り込んでくる。
「動いちゃだめ。声も、出しちゃだめ」
母さんの声が震えていた。
「ごめんなさい」
チリン。
「お願いだから、じっとしてて」
側で話してくれたから、布の内側に母さんの吐息がかすかに届く。
チリン。
(怖い。でもぼくだけじゃないんだ)
母さんも怖がっていること。
それだけは、幼い自分にも分かった。
――見えでるべ?
また頬を冷気が撫でた。母さんの気配まで消えてしまった。
──
場面が、また唐突に切り替わった。
仏間だった。
線香の匂いが濃く漂っている。畳には湿気がこもり、古い木材の匂いと混ざって、鼻の奥に重く残った。
仏壇の金の装飾が、蝋燭の炎を反射してちらちらと揺れている。
父さんと母さんが、仏壇の前で頭を下げていた。
その隣には、見知らぬ老人が正座している。
白い着物をまとい、首から下げた輪袈裟のようなものが、灯りの中で鈍く光っていた。
「これで、もう大丈夫でしょうか」
父さんの声が震えている。
「……分からん」
老人は、感情の読めない声で答えた。
「一時的なものだろう。完全に切れたわけではない」
「でも、これでもう…見えなくなるんですよね?」
母さんが、すがるように尋ねた。
「あの子が、あんなものを見なくて済むんですよね?」
声の奥に、涙が滲んでいた。
老人はすぐには答えなかった。
しばらくして、部屋の隅にいる自分へ視線を向ける。
「見えなくなるであろう。だが――」
そこで言葉を切った。
「いつか、繋がる時が来るかもしれん。その時は……」
その先は聞こえなかった。
──
視界がまた変わった。
見知らぬ寺の本堂だった。
円満寺とも違う。柱は黒ずみ天井は低い。薄暗い堂内に、古い畳の匂いがこもっている。
自分は、その中央に敷かれた布団へ寝かされていた。
体が重い。
腕を持ち上げようとしても、指先すら動かなかった。胸の上に、見えない重しを置かれているようだった。
周囲で人が動いている。
衣擦れの音。小さな話し声。誰かが近くを歩くたび、畳がかすかに沈む。
けれど、声は遠く、厚い壁の向こうから聞こえてくるようだった。何を話しているのかまでは分からない。
(ねむい)
意識が、深く沈んでいく。
水の底へ引きずり込まれるように、音も光も遠ざかっていった。
その時、遠くで何かが自分を呼んだ。
「―――――――」
行かなきゃ。
──
気づくと、山の中にいた。
空は灰色に濁っている。
夜なのか昼なのかは分からない。ただ、山の斜面も、空も、遠くの木々も、同じ色に沈んでいた。
木々のざわめきはない。
虫の声も、鳥の声も聞こえない。
風がないのに、木の葉が時折がさりと裏返った。
足元を見ると、自分は裸足で歩いていた。
足の裏に湿った土がまとわりつく。小石が皮膚へ食い込み、歩くたびに鈍い痛みが走った。冷たさは足の裏からふくらはぎへ、ゆっくりと這い上がってくる。
前方に、暗がりがあった。
山肌に、ぽっかりと口を開けた黒い空間。
祠のようにも見える。
けれど木材の骨組みなのか、石を積んだものなのか、目を凝らしても輪郭が定まらない。洞穴にも見えるのに、自然にできたものとは思えなかった。
見てて思うことは、「なんで見えないんだろう」だった。
入口は妙に整っている。
人が通れるほどの大きさなのに、周囲の山肌だけが、そこを避けるように盛り上がっていた。
祠でも、洞穴でもない。
どちらにも見えるのに、どちらとも違う。
その奥から、声がした。
――おいでぇ
女の声にも男の声にも聞こえる。
老人のようでもあり、子供のようでもある。
声の高さも年齢も、うまく捉えられない。
目眩がする。
――こっちゃぁおいで
不思議と恐怖はない。
むしろ、懐かしいような気持ちになる。
ずっと昔、どこかでこの声を聞いたことがある。そう思えてならなかった。
(……行かなきゃ。呼んでる)
誰が呼んでいるのか、何のために呼ばれているのか、何ひとつ分からない。
それでも、あの中へ行けば答えがある。そんな確信だけが、頭の中に残っていた。
足が、勝手に前へ進んでいく。
暗がりが、少しずつ近づいてくる。
入口から漏れる冷気が頬を撫でた。
腐葉土の匂いがする。
それに混じって、何か甘いものが腐ったような、饐えた匂いが鼻へ入り込んできた。甘ったるいのに、喉の奥がひりつく。
――おいでぇ、おいでぇ
声が、はっきりと聞こえるようになった。
もう、すぐそこだった。
あと数歩で、暗がりに手が届く。
――ようやぐ、会えたねえ
その時。
背後から、何かが強く手を掴んだ。
とっても温かかった。
今までの記憶の中で感じたどんな温度よりも、はっきりとした熱がそこにあった。
「……だあれ?はなしてよ」
振り返ろうとした。
けれど、体も顔もそちらへ向かない。
ただ足を前に出そうとしていた。
た掴まれた手の感触だけは確かに残っている。
強く握る指が手の甲へ食い込んでいた。
何が何でも離すまいとしているようだった。
――いかないで
震えていた。声が震えていた。
泣いているように聞こえる。
「どうして?行かなきゃいけないのに」
――おねがい
その声に聞き覚えがある気がした。
「今は呼ばれてるから、だめなの」
――もどってきて
誰だろう。思い出そうとすると、頭の芯がずきりと痛む。名前を掴みかけた瞬間、何かに引き裂かれるような痛みだった。
暗がりの奥から、声がさらに強く呼びかけてくる。
――はやぐ、なかに、おいでぇ
洞穴から呼ぶ声が更に激しさを増して、勝手に足が前に動いてしまう。
手を掴む力が、さらに強くなった。
僕に振り払われまいと、必死にしがみついている。
――いかないでっ
その声が、少しずつ形を持ちはじめた。
――そばにいてよぉ
掠れて、震えている。
それでも確かに、名前を呼んでいた。
――っくん……ッ
――離ぁせえぇぇぇーーーっ!!
「みっくんッ!!」
強く肩を揺さぶられた。
それと同時に、視界が一気に白く弾けた。
──
「起きてよぉ!しっかりして、みっくんっ!!」
目を開けると、御手洗さんの顔がすぐ近くにあった。
頬に、生温かい滴が落ちてくる。
御手洗さんの目から、涙がぼたぼたと零れていた。
「うっ……ぁ」
声を出そうとしたが、掠れてほとんど息にしかならなかった。
体を起こそうとすると、全身に鉛を詰め込まれたような重さがあった。関節という関節が軋み、肺の奥まで痛む。
「よかったっ……」
御手洗さんは、息を吐き出すように呟いた。
そのまま俺の胸に額を寄せ、肩を震わせて泣き続けた。
目で部屋の中を見回すと、祭壇の前では、しのさんが険しい表情の美咲さんに支えられて項垂れる様に座り込んでいた。
顔中に乾いた血がこびりついて目を閉じている。
木箱は蓋を閉じたまま、何事もなかったかのように静まり返っていた。
「御手洗さん…しの、さんは大丈夫、ですか?」
かろうじて、それだけを絞り出す。
しのさんが、ゆっくりと目を開き、顔を上げた。
「なんとか、お互い生き残った…ねえ」
まだ息は荒い。
けれど、その目に残っているのは、さっきまでの鬼気迫るものではなかった。深い疲労と、隠しきれない痛みだけが浮かんでいる。
「…今日のところは終わり。よく戻ってきたね」
しのさんの代わりに美咲さんが答えてくれた。
「今日のところ…?」
「最初に言ったとおりだよ。一度に全部は、流石にうちらでも無理だからね」
美咲さんは、そう言って力なく笑った。
「けど……ずいぶん、軽くなったはずだよ。よく頑張ったねえ」
今度はしのさんが、初めて会ったときのような口調で答えた。
その声は、何かを噛みしめるように静かだった。
「みっくん、おかえり」




