明鏡院 請願寺
円満寺を出てから、車内には重たい沈黙が続いていた。
いつもなら、御手洗さんが何かしら話してくれている。
今日の昼は何を食べるだとか、帰りにコンビニへ寄りたいだとか、スイーツのお店が開店したとか。
それを深山さんが適当に相槌を打ち、小金井課長が何も知らないのに知ったふりして話へ割り込んでくる。
そんないつもの空気がなかった。
深山さんは助手席で腕を組み、課長は窓の外を眺めている。
後部座席では、御手洗さんがスマートフォンを握りしめ、地図アプリを何度も確認していた。
しばらく景色が進み続け、やがて車が停止した。
「……ここ、ですよね?」
「住所は合っているんだろう?」
「はい。合ってるはずなんですけど……」
御手洗さんがスマホから顔を上げ外を見た。
「お寺っぽくないんだよねぇ」
車が停まったのは、古い住宅が並ぶ町の静かな一角だった。
目の前にあるのは、どこにでもありそうな古い一軒家。
塀は低く、門もない。
庭には手入れされていない植木が並び、軒下には使い込まれた箒が立てかけられていた。
寺の名前を示す看板もなければ、山門らしきものもない。
玄関脇に表札がひとつあるだけだった。
そこには、かすれた文字で【請川】と書かれている。
「……ここだ」
課長が、確認するように呟いた。
「円満寺の住職が言ってた名前ですね」
御手洗さんが車を降りる。
俺たちも続いて玄関前へ向かった。
呼び鈴を探していると、内側から鍵の外れる音がした。
ガラガラガラ、と玄関の扉がゆっくりと開く。
「ああ、来たねえ」
出てきたのは、小柄なお婆さんだった。
白髪を後ろでまとめ、薄い灰色の割烹着を着ている。
年齢は分からない。七十を越えているようにも見えるし、もっと上のようにも見えた。
おばあさんは俺たちを順番に見た。
小金井課長。
深山さん。
御手洗さん。
そして、最後に俺の元で視線を止める。
「……ああ」
老婆の目が、わずかに細くなった。
「あんたかい」
初対面のはずなのに、さも当然かのように言い当てた。
「えっと……」
何と返せばいいのか分からず、言葉に詰まる。
お婆さんはそんな俺を見て、ふっと表情を緩めた。
「さぞ怖かったろうねぇ」
「……え?」
「まあ、上がっていって下さい。疲れただろうから、少し休憩してからにしようねえ」
それ以上何も言わず、家の中へ案内された。
「みっくん……」
「はい」
「大丈夫?」
「……はい」
御手洗さんが心配そうにしている。自分でも声に力がないのが分かっていた。
靴を脱ぎ玄関に上がると、廊下には余計な物がなく、床もきれいに磨かれている。
建物は古そうだがよく手入れされているのが分かった。
ただ家の中では今まで嗅いだことのない、不思議な匂いがしていた。線香のような、濡れた木のような。鼻の奥に残る、土に近い匂い。
「美咲ぇ。お客さんだよ」
お婆さんが奥へ声をかける。
「はーい」
返事とともに、廊下の向こうから一人の女性が現れた。
茶色い派手な髪色に大きめのピアス。タイトなリブタートルネックに短いスカート。
目元には小さな泣き黒子がある。
お婆さんとは似ても似つかない、今風の格好をした女性だった。
「どーも。あんたがその子ね?」
女性は俺を見るなり、ずいっと顔を近づけてきて、香水の香りがした。
「え、あ……はい」
「ふーん……」
値踏みするような視線が、頭の先から足元まで動く。
「思ってたより普通」
「美咲ぇ」
老婆がたしなめる。
「はいはい。お婆ちゃん、怖い顔しないで」
女性は俺から離れ、軽く手を上げた。
「あたし、美咲。こっちは祖母の、しのお婆ちゃん」
「よろしくお願いします」
皆でそろって頭を下げる。
すると美咲さんは、俺ではなく御手洗さんを見た。
「で、数珠持ってるそっちは彼女?」
「え?!あっ、彼女というか……」
御手洗さんが困った反応をしていた。
「蓮見君の先輩です」
「へえ。先輩…か」
美咲さんは、もう一度俺を見る。
さっきまでの調子が突然薄れ、俺を見たときの視線とはまた違ったものを御手洗へ向けていた。
「円満寺さんから話は聞いたよ」
しのさんが、湯飲みを盆に載せて運んできた。
「向こうさんの手には、負えなかったんだってねぇ」
湯飲みが畳の上に置かれる。
ことり。
その小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「……そうらしいです」
課長が答えた。
「電話ではあまり話せなかったからねぇ。簡単に話してごらんよ」
しのさんに言われ、入社してからこれまで起きた出来事を話した。
第三暁成ビル、篝火屋、アクアリウム、女子寮。プライベートでも毎晩、嫌がらせのように何かが起きていた事を伝える。
話しにくかったが、御手洗さんたちに伝えてきていなかった出来事も全て話した。三人が息を呑むのがわかった。
ひとつずつ説明するたびに、しのさんの表情が変わっていった。
最初は穏やかだった顔が、少しずつ険しくなる。
美咲さんも、途中から余計な口を挟まなくなった。
全て話し終えた頃には、お茶はぬるくなっていた。
「そんなに……有り得ないよ」
美咲さんが呟く。
その声から、先ほどまでの軽さは消えていた。
しのさんは俺の前に注ぎ直した湯飲みを置いた。
「もう無理に、話さんでいいよ」
「いえ……」
「怖かったろうねぇ」
また同じことを言われた。
けれど今度はさっきとは違い、慰める声ではなくなってた。
まるで、俺が何を見たのかではなく、何に見られてきたのかを知っているような声だった。
しのさんは無言でしばらく俺を見つめて続けていたが、やがて小さく息を吐いた。
「支度、しようかね。美咲ぇ」
膝に手を当て、ゆっくりとしのさんは立ち上がり、それに美咲さんも続く。
「離れでやるから。…もう殆ど準備はしてあるけど、五分待って」
美咲さんはそういったあと、さらに付け足した。
「あと、何が起きても平気なように、今のうちに覚悟決めといて」
──
しばらくすると美咲さんが呼びに来た。先ほどまでのタイトニットやミニスカとは違い、何かの装束を凝らしていた。
神職装束とも巫女装束とも違う変わった出で立ちだった。
全身、吸い込まれそう紫紺の小袖に黒の袴。胸元と袖には見たことのない文字が金糸で小さく刺繍されていて、腰には小さな鈴がいくつかぶら下がっている。
美咲さんが歩く度に、チリンと冷たく鳴り、さっきまでの軽やかな雰囲気は完全に消えていた。
案内されたのは、母屋の裏に建つ古い建物だった。
母屋よりもさらに古く、建立されたのがいつなのか、おおよそも想像もできない。とてもお祓いをやるような場所には見えなかった。
壁はところどころ黒ずみ、柱には長い年月を感じさせる傷が残っている。建て直された形跡はなく、相当築年数が経っているのがわかる。
何十年も、あるいは何代も前から同じ場所に建ち続けているようだ。
前室から更に中へ入ると、明らかに空気が変わった。
外よりもずっと低い室温、窓が一つもないのに、首筋を撫でるような細い風の動きがあった。
だが蝋燭の炎はほとんど揺れていない。
部屋の中央には祭壇があり、その前に古い木箱が置かれていた。
二十センチ四方ほどの大きさの木箱は異様に黒ずみ、金具には赤茶色の錆が浮いている。
周囲には複数の白木の位牌。
見慣れない形の護符。
意味の分からない文字が書かれた御札のような紙。
どれも長い年月を経ているように見えた。
「そこに座りなさい。正座はせんでええ。長く座っていられる楽な姿勢を取りなさい。他は縄の外へ」
しのさんが、部屋の中央を指す。
俺は言われた通り、中央に置いてある木箱の前に胡座をかいて座った。
御手洗さん達は少し離れた場所に腰を下ろす。
美咲さんは部屋の四隅へ何かが書かれた紙を置き、最後に俺の背後へ回った。
しのさんが俺の対面の箱の前に座る。
そして、胸元に刺してあった古い鈴を取り出した。
そのときだった。
木箱の蓋の隙間から、白いものが細く流れ出しているのが見えた。
(…煙?)
一見お香でも中で炊いているのかと思ったが、瞬きをした次の瞬間には無くなっていた。
箱はただ、そこに置かれているだけだった。
ただ匂いだけは強く残っており、強い腐敗臭のようで、顔を顰めずにはいられない。
「もう見てるぇ……あんたには、多くのものが憑いている」
しのさんが言った。
「十じゃきかない。数えきれないほどだ」
「そんな…」
「一度に全部を剥がそうとしたら、あんたの身体がもたない」
しのさんは一度目を閉じ、睨むように俺を見た。
「だから、順番に呼ぶ」
「呼ぶ?」
「そう。ひとつずつこちら側へ呼び寄せて、ひとつずつ剥がす。長い戦いになるよ」
祓うのではなく、追い出すのでもなく、呼ぶ。それの意味は全くわからない。
「蓮見さん。約束して貰わにゃならんことがある。何が起きても、声を出してはいけないよ」
しのさんが、全員を見回した。
「誰の声が聞こえても。何が見えても。火事だろうが地震だろうがだ。絶対にだぇ」
しのさんの目が、俺に向く。
「……たとえ、あたしや美咲がどうなってもねえ」
(どういうことだ?何が起こる?説明はしてもらえないのか)
既に恐怖に呑まれそうになっている自分がいた。
「聞こえたかぇ?返事は」
「……はい」
「守ってもらわにゃ、二度と戻れなくなるからねえ」
空気がひどく重くなった。とんでもない事が起きる予感だけがしていた。
「お婆ちゃん、時間になった」
──
しのさんが目線で合図を送ると、美咲さんが無言で頷く。
美咲さんが背後で鈴を持ち上げ、打ち鳴らした。
チリン。チリン。チリン。
澄んだ音が、部屋中へ吸い込まれていく。
しのさんの口から、低い声が流れ始めた。
それは読経のようでもあり、歌のようでもあった。
聞き取れない言葉の連なりが、一定の調子で続いていく。
美咲さんも舞うように摺り足で左右に動いているのがわかった。
チリン。
鈴が鳴る。
チリン。
最初は、ゆったりとした一定の間隔だった。
けれど、少しずつ少しずつ短くなっていった。
チリン。
チリン。
チリ……ン。
どれだけの時間が経ったのだろう。
背中に汗が滲んでいた。
部屋は寒い、それこそ長時間いるせいで手足の末端がキンキンに冷たくなってしまうほどに。
なのに、身体の内側だけが熱くなっていた。ハァ、ハァと息が切れるほどに。
唱え続けるしのさんと鈴を打ち鳴らし舞い続けている美咲さんは何故こんなに長く続けられるのか、不思議で仕方なかった。
少し息苦しく、集中が途切れていた。
後ろが気になって、目線だけを横に向けたその時。
木箱の中から、音がした。
ごきんっ。
木箱の中で何かが倒れたような音ではなかった。固まった関節を無理やり動かした時の音……いや、それこそ限界を迎えた骨が半分に折れるような、そんな音だった。
つい口を空けた俺の喉が、ひゅっと鳴りそうになる。
――声を出してはいけない。
そう言われたことを思い出し、口を閉じた。
すると、箱が、また動いた。
ごと。
ごとり。
蓋を何かが中から押し上げようとしている。厚みがある蓋は、そんな軽いものには見えない。
ごとん。
一瞬浮いた隙間が気になってしまう。見てはいけない。そう思うのに、目が離せなかった。
しのさんの読経が続く。鈴の音が重なる。
美咲さんは、俺の背後で未だに鈴を打ち鳴らしている。
(うっ!?)
突然、身体が引っ張られ始めた。何にとか、どこをとか、何一つ分からない。腕を、足を、胸の奥を。とにかく自分の中にある何かが、外へ引きずり出されようとしている。
(苦しい、苦しい、息が!)
頭の中が白くなる。
寒いのか、熱いのか分からない。
顔の血の気が引いていくのがわかった。きっと今の俺は顔面蒼白で、今にも倒れそうな酷い顔をしているだろう
また音がした。
ぐちゅり。ぐちゅ。
今日初めて聞いた、何か濡れた音。その何かが、箱の中で這っている。
しのさんの目が大きく見開かれ、頭がグラついている。初めてその顔に明らかな動揺が浮かんでいた。
そしてしのさんが短く息を呑んだ瞬間
「ぐぶぅっ」
その目頭と鼻から、涙のように赤黒い血が溢れ出し、しわの刻まれた肌を伝い落ちた。
慌てた美咲さんが、一歩前へ出る。
「お婆ちゃ――」
「来うぅるなぁぁあーーーッ!!」
しのさんが信じられない程の声量で叫んだ。
その声に、美咲さんが踏み出した足を止める。
「でも!」
「舞いを止めるなぁぁあーーッ!!!」
しのさんは目から血を流しながらも箱から決して目を逸らさなかった。
「美咲ぇえ!!止めたら、なんもかんも返ってくるぞぉっ!鳴らせぇッ!!!」
(は?)
木箱の蓋が、ゆっくりと持ち上がっていた。
最初に見た煙のようなものではなく、実体としてそこにあった。
それは、まるで腸のようなもの。
赤黒く、そしてぬめっとテカる肉の管が蠕動するように動いている。
それが箱の中から、ずるずると這い出してきた。
先端は薄い唇のようなものがあり、二つの舌が飛び出している。
それは何かを探し求めるように、俺の目の前にある木箱から這い出そうとしている。
そして、床に落ちた血の跡を見つけると、ぴたりと動きを止めた。
しのさんは噴き出す鼻血もそのままに手で何かを宙に書いていた。声が掠れ震えている。
「ぐぁぶッ……止めだらっ、此処でぇ全員死ぬ羽目になるぞぉぉッ!!!」
身体が、さらに強く引かれた。
心臓を掴まれたような痛みが走る。
(息がっ…できない)
視界の端が暗くなる。
鈴の音が遠ざかっていく。
読経のような声も、美咲さんの鈴の音も、皆の気配も。
すべてを置き去りにして、俺だけが暗い水の底へ沈んでいくような感覚だった。
誰かの叫ぶ声がする。
誰かも分からない。
俺は返事をしようとした。
けれど、口が動かない。
痺れていた指先の感覚がなくなっていく。
畳に触れているはずの手が、どこにも触れていない。
息を吸っているのか、吐いているのかも分からない。胸の奥だけが痛かった。
意識が暗転する直前。
ひとつだけ、頭によぎった言葉は。
――ごめんなさい。




