泉水熱帯魚園
「今日行く現場はね、可愛いところだよっ」
現場へ向かう車の中、御手洗さんが鼻歌交じりに機嫌よく点検表をめくっていた。
「めっちゃ気になるワードですね」
「でしょ〜。現場名で気付いてると思うけど、熱帯魚とか水槽とか売ってるお店。でもすっごい綺麗な大きな水槽があるんだよっ!」
「珍しいですね、御手洗さんがそんな風に言うの。大体、朝は脅かしてくるのに」
「失敬ですな。私だって綺麗な事は素直にそう伝えますよ?楽しみにしててねっ」
(怖そうな現場は怖いと伝えるってことか)
そんな話をしているうちに、現場に着いた。
国道沿いから一本入ったところにある小さな店舗で、一階から三階まで外壁に大きく魚のイラストが描かれている。
一階はアクアリウムショップ、二階と三階は自宅になっているらしい。
「まずはオーナーさんにご挨拶してこよう」
住居用の外階段から二階に上がり、オーナー夫婦に挨拶を済ませる。旦那さんの方はあまり口数が多くなく、奥さんはどこか疲れたような表情をしていた。
先に一階店舗を点検してから、住居の点検に伺いますという簡単な説明だけをして、すぐに階段を降りる。
──
二階住居から店舗へ降りれる内階段を使い一階へ降り、店舗への扉を開ける。
そこでは、水槽の光とぶくぶくというエアレーションの音が出迎えてくれた。店内は薄く青みがかった照明で満たされていて、壁一面に大小さまざまな水槽が並んでいる。
天井の照明は最小限に絞られていて、代わりに、それぞれの水槽の中から発せられる光だけが、店内の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。床には光の帯が幾重にも重なって落ち、水面の揺らめきがそのまま壁や天井にまで反射して、店全体がまるで水の底にいるような錯覚を起こさせる。
「ふふ、せっかくだから、ちょっとだけ見て回っちゃおっか。課長には内緒だよっ」
御手洗さんが、いたずらっぽく笑う。
金魚や在来の川魚、色とりどりの熱帯魚が、それぞれの水槽の中を泳いでいた。
奥には一際目立つ大きな水槽があった。レイアウト水槽と呼ばれるものだろうか。
流木と水草で小さな森のような景色を作っている水槽で、幻想的な世界観がそこにはあった。
苔むした石、緩やかにうねる水草、その隙間を縫うように小さな魚の群れが通り抜けていく。
光の加減で、水草の緑が深くなったり、淡くなったりしながらゆらゆらと揺れて見える。
「わぁ、やっぱり綺麗だねっ」
御手洗さんが水槽に顔を近づけて目を輝かせている。水面から漏れる光が、御手洗さんの瞳の中でちらちらと泳ぐように揺れていた。
まるで瞳そのものに小さな光の粒が住み着いているみたいだった。
その横顔にアクアリウムよりも見惚れてしまっている自分がいた。
それを誤魔化すように水槽に書かれた魚種名へと目線を移した。
「…これ、初めて見ました。コバルトブルー・ラミレジィ」
「綺麗だねぇ…宝石みたいにキラキラしてる。テトラも仲良く泳いでて、ここだけまるで別世界みたいだね」
水槽の中を、小さな魚の群れが一斉に向きを変えながら泳いでいく。銀色の体が、照明を反射してきらきらと光った。
まるで一つの生き物のように、群れ全体がなめらかに旋回する。その動きに合わせて水面に映る光の粒も一緒に揺れた。
(こういうの、家に一つあったら癒されそうだな)
ふと、そんなことを考えた。水草の匂いなのか、微かに青臭いような、それでいて不快ではない匂いが店内に満ちている。水の流れる音、ポンプの低い駆動音、それらが重なって、不思議と落ち着く空間だった。
たったの数分間なのに、今だけは時間の流れ方まで少しだけ緩やかになったような気がする。
二人で一周だけ店内を見て回った。御手洗さんは水槽から水槽へ、まるで子供みたいに歩き回っては、その度に静かに歓声を上げていた。
「おサボりはここまでにして、そろそろ点検しよっか」
「そうですね」
消火器と誘導灯、感知器の確認をしていく。表側の点検はすぐに終わった。
「次は水槽のバックヤードになってる裏側に行こっか」
店の奥にある扉を開ける。
その先は、表側とはまったく違う空間だった。
薄暗く、無数の配管とポンプが張り巡らされていて、機械の低い駆動音が絶え間なく響いている。湿った水と苔の匂いが濃く漂っていた。
さっきまでの綺麗で落ち着いた空気とはまるで違う。むき出しの配管、無機質なコンクリートの床、そして薄暗さ。
同じ建物の中とは思えないほどの落差だった。まるで、綺麗な舞台の裏側に、そのまま足を踏み入れたような感覚。
「こっちはまた雰囲気違いますね」
「ほんとだねぇ」
水槽の裏側に来ると、それぞれの水槽に上蓋がついていて、そこから水槽の中を覗けるようになっていた。表からは綺麗に見えていた魚たちが、裏から見ると、なぜか少し違って見える。逆光のせいか、影だけがやけに濃く映っていた。
黙々と点検を進めていく。
すると、御手洗さんが、何気なく大きな水槽の裏側の点検口を覗き込んでいた。
「あ、それさっきの大きな水槽ですね!あの熱帯魚たち上から見るとどんな風に……」
言葉が、途中で止まった。
「御手洗さん?」
返事がない。
変に思い、点検をしてた消火器から、御手洗さんに視線を向けた。すると御手洗さんが上蓋から水槽の中を見つめたまま、固まっていた。
「御手洗さん、どうかしました?」
近づこうとした瞬間、店内の照明が一瞬だけ揺らいだ。
(ん?……なんだ)
気のせいかと思ったが、そうではなかった。天井の蛍光灯が、明滅するようにまた瞬いた。ポンプの駆動音までが、低く沈むように変わった気がした。
更に、御手洗さんの肩が小さく震えているのが分かった。
「あの、どうしたんですか?」
声をかけても反応がない。見たことのない険しい目だけが、水槽の奥をじっと見つめている。呼吸がいつもよりずっと浅くなっているのが分かった。
(なんだ?なんかおかしいぞ!)
俺は思わず自分も点検口を覗き込もうとした。
だが覗く直前、御手洗さんの手がぎゅっと俺の腕を掴んだ。
「……っ、見なくていいから」
声にならないような、掠れた声だった。
それでも、視界の端にソレは映ってしまった。
そしてもう目が離せなかった。
水槽の一番奥、水草の陰になった暗がりに、何かが《《立って》》いた。
頭、肩、細長い身体が、下へと続いている。
(まさか……人?)
魚が泳ぐ水の中に、明らかに水の中では在り得ない、静止したままの輪郭。老婆のような顔が真っ赤に染まった眼球でこちらを睨んでいる。痩せこけているように見える輪郭は、水中のせいで潰れて見えた。
(この水槽…人が立てる深さがある筈がない。そもそも水中に人がいるわけないだろ!)
魚たちはその周りだけを避けるように泳いでいた。まるで、そこに何か見えない壁があるかのように。
背筋を冷たいものがゆっくりと這い上がっていく。手のひらにじっとりとした汗が滲むのが分かった。喉の奥が、からからに渇いていく。
そして、気のせいかもしれないが、肩から生えていたのは腕ではなく、ヒレのようにも見えた。
瞬きをしたその一瞬。水槽の中には、いつも通りの魚たちが泳いでいるだけとなっていた。
「……御手洗さん」
触れていいものか悩んだが声をかけても反応しない…仕方なく肩に触れ水槽から御手洗さんを引き離す。
すると、はっとしたように振り返った。
顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。唇が、微かに震えている。
「あ…ぁ…う、ん。だいじょうぶ、だよ」
声が明らかに震えていた。いつもの少し高くて明るい声とはまるで違う。
「大丈夫には見えないですよ」
「ほんとに、大丈夫だからっ」
それ以上は、何も話してくれなかった。俺はもう一度、水槽の中を覗いてみた。そこには魚が数百匹、何事もなかったかのように、ゆらゆらと群れとなり泳いでいるだけだった。
ただ、さっきまで見えていた奥の暗がりが、もっと暗くなっている気がした。
(あれは……何を、見たんだろう)
初めてだった。御手洗さんが、こんな顔をするのは。
──
「自宅の方は、三階から点検しますね」
御手洗さんがまだ少し硬い声のまま、階段を上がっていく。
三階は住居スペースというより、物置に近い使われ方をしているようだった。段ボール箱や、使わなくなった水槽の予備、濾過装置などが雑然と積まれている。
感知器と消火器の点検を進めていく。特に変わったこともなく、淡々と時間が流れていった。
ただ時折、視線の端に何か動くものが見えた気がしてしまった。振り返っても、当然そこには何もない。
(はぁ、つかれる)
旅館の地下でもこんな感覚があった。と思い出しながら点検を進めていく。結局、三階では何も起きないまま、点検を終えた。
その間、御手洗さんはずっと口数が少なかった。
──
二階自宅の居間へ降りてきた。改めて、全部屋の点検に入る。
「二階も各お部屋、失礼しますね。押し入れも開けさせてください」
「どうぞ。あ、その突き当たりの部屋だけは、今回は開けないでください」
奥さんが指を指して言った。廊下の突き当たりに、襖が閉め切られた部屋があった。
そこに張り紙もされていたのがみえた。
【立ち入り禁止】
「あっ、そうなんですね。なにか――」
「母の部屋です」
ご主人が、被せるように答えた。
「そうですか。では、そこだけ――」
「母の、部屋だッ!!」
強い口調だった。俺と御手洗さんは、顔を見合わせてそれ以上聞くのをやめた。
「その……去年、亡くなったんですけど。まだ、あの、片付けが終わってなくて」
奥さんが、小さな声で付け加える。
「そうだったんですね、申し訳ございません」
(母の部屋ですって、わざわざ二回も言うことかな。答えになってないじゃん。しかもなんだあの張り紙)
それ以上は、何も聞けなかった。
夫婦とも、それきり口を閉ざしてこちらを見なくなってしまった。
閉め切られた襖の前、左右に部屋がある。左は納戸で右が夫婦の寝室。
開けてはならないと言われた部屋の手前で、背中に視線と強い圧を感じた。
(見てるんだろうな。そんな監視しなくても勝手に入らないし。でも…なにが在るんだ?)
軽い違和感だけが、頭の隅に残った。
──
点検は終わった。
帰りの車の中、しばらく沈黙が続いていた。
「御手洗さん」
「んー?」
「その………さっきの、何ですかね」
御手洗さんは、少し黙ってから、口を開いた。
「あそこのお婆ちゃんだった。この前亡くなったばっかりの」
「……そうですか」
「うん。すごく怒ってる顔してた」
御手洗さんの声は、いつもより少し低かった。
「なんかあったのかな…」
「知り合いだったんですか?」
「うん。点検の時、いつも声かけてくれてね。優しいおばあちゃんだったんだよ。あんな顔見たことないよ」
それだけ言うと、御手洗さんはハンドルを握り直した。
「…ふぅ。まぁ、現場だけだからまだマシだよね。不思議と帰れば平和が待ってるし」
「……」
「みっくんも、家では何もないでしょ?」
言葉に詰まった。
(……昨日YouTube見てたら、シャワーがすんごい勢いで勝手に出たこと、言うべきだろうか)
結局、言えなかった。
「……そうですね」
「でしょでしょ」
御手洗さんはいつもの調子でハンドルを切った。
窓の外を見ると綺麗な夕方の街並みが、いつもと同じように流れていく。
(現場だけ、じゃないんだよなぁ)
その疑念だけが、胸の奥に静かに残った。
(当分魚はみたくないな)




